4月28日の晩、独房内で囚人の伊野が死亡した。 監察医の独立した検死による死亡推定時刻は夜の9時半から11時半とされた。その情報は、現場に駆けつけた医師の所見とほぼ一致し、また現場検証に来た警察官が行った当直看守に対する聞き取り調査で死亡推定時刻は緊急信号のなった11時03分から10分以内と推定されたので、疑う余地は無かった。 現場に駆けつけた医師は、まず刑務所に多い首吊り自殺や服毒自殺を疑ったが、発見された状況が壁にもたれかかっていたことや、外景所見に一般急性死の皮下等の溢血点が見られないことから、他の原因として心不全などを疑った。しかし、十分な検査のできない現場ではそれ以上のことが分からず、「死因不明」のままで監察医の元へ送られた。そこで、鉄分の血中濃度が高いことが分かり、肝臓が弱っていたことから鉄中毒の疑いが強まった。脳や心臓に際立った疾患は見られなかった。他の原因も見つからなかった。一般的に鉄中毒で死亡することは稀であるが、消去法の考え方から、鉄分の一時的過剰摂取もしくは蓄積的摂取による血中濃度上昇の中毒状態から起こる低血圧ショックの心肺停止だと暫定的判断がされた。つまり 刑務所で食したその日の夕食に鉄分が多く含まれていたか、それまでの食事の中に微量に含まれていた鉄分が蓄積して、今回発症してしまったかだ。このことが、警察に報告された。 その報告をもとに警察が伊野の病歴をあたり、今から4年前に鉄中毒の診断を受けていることが分かった。その担当医師の話では、中毒症状は慢性的だったが軽く、鉄分の過剰摂取にさえ気をつければ日常生活に問題は無いとのことで、3回の外来で終えたと。また、その医師も深刻な中毒症状が出るのは稀だと言ったが、鉄分系のサプリメントを大量に内服することで深刻な中毒症状を引き起こした例が最近増えてきたとも補足説明した。「鉄中毒で死ぬことはありますか?」との警察の問いに、医師は「可能性はゼロではないが、やはりめずらしい」と答えた。 他殺の可能性をぼた餅のごとく頭の上棚に置きながら、警察は自殺と不慮の中毒死のふたつの線で捜査を進めてゆく__。
伊野の死亡から三日後、県警の刑事が二人、刑務所の監視室にいる。 モニター前の椅子に看守の田所と島崎が座り、脇に寺川が立つ。 「やはり問題は無いようですが……」 田所がモニターを操作しながら言った。モニターには、伊野死亡時の独房内の記録映像が流れている。カメラの角度のため、横たわる伊野の下半身と蘇生を試みる看守の寺川の背中半分しか映っていない。伊野の上半身は映っていない。 「寺川さん、あなたと坂本さんが部屋の中に入ったとき、伊野は壁にもたれかかるように倒れ、あなたが近寄り脈を確認したが停止していたので、蘇生を始めた……に間違いありませんね」 刑事――内藤が椅子の背もたれに手をかけながら尋ねた。その椅子に座る島崎は、背中に緊張が宿りっぱなしだ。 「はい、そうです」 寺川が答えた。 「このとき班長の坂本さんはAEDをとりに行っているのですね」 「はい」 「そして……」 内藤刑事がモニターを見る。モニターの映像――1分ほどして、坂本班長と近藤看護師が部屋に入ってきて、近藤看護師が寺川と位置を変わり、坂本班長はAEDの準備をしている。 「ここまでで結構です」 もう一人の刑事――少し年配の北原がさっと言った。映像はこのあと、強度の心的ストレス下に見舞われた坂本班長が倒れてしまう。彼の部下に何度も醜態を晒さないために配慮をしたのだ。 田所が映像を消す。 内藤刑事は背もたれから手を離す。島崎は小さくほっとする。 三人の看守は緊張している。刑事という普段見慣れぬ人種の威厳だか威圧だかに中てられているのもあるが、自分たちの“過失”の可能性を危惧しているのだ。 島崎の心中――もっと蘇生を早く行えば、伊野を死なさずに済んだかもしれない。緊急時対応の手順は間違っていなかったが、緊張感が足りなかった。普段からの心構えが足りなかった。迅速でなかった。伊野……伊野だったからつい。 田所の心中――マニュアルどおりに動いた。だが、またいつものイタズラだと勘違いして、軽い気持ちでいたことは確かだ。しかし……伊野だったのだからしかたがない。あいつは、ときどきイタズラで緊急信号のボタンを押していた。またか……と思うのは、しかたがないことだ。 寺川の心中――行動に間違いは無かった。走って駆けつけなかったことで過失を問われるかもしれないが、独房内での行動に過失は無かった。発見からの対応に間違いは無い。妥当だった。まさか過失致死の罪に問われることはないだろう。 看守たちは保身のために頭を悩ませているのだが、刑事はそのことについて一向に気にしていなかった。なぜかといえば、緊急の現場において冷静で完璧な行動は難しく、そういった死亡事件を幾度と無く調べてきたからであった。また、すでに彼ら三人に対する事情聴取で、伊野の人物像や行動の粗悪さや、彼に対する看守たちの心象の悪さを聞いていた。しかし、犯罪者の集まる刑務所でこういった人物は珍しくなく、看守がいちいち拭いがたい不快感を覚えて正義感からかの殺人衝動、もしくは管理放置に至るケースはほぼゼロだからである。 内藤刑事と北原刑事はどこかつまらなそうな表情をしている。 不謹慎だが、たいした事件ではないと踏んでいる。 監察医の暫定報告と伊野の病歴から考えて、殺人の可能性は低い。不慮の中毒死か自殺になるが、事情聴取から察する伊野の人物像を刑事らの人間観察経験に照らし合わせると、自殺をするような性格ではなかった。もちろん断定はできないが、缶ビールのプルトップを開けると中身がビールであるのと同じように、明確なラベルが印刷されたような人物像であった。写真も見た。疑いは無かった。 「それでは寺川さん。もう一度独房のほうに案内してもらえますか」 北原刑事が言った。 寺川は小さくうなずき、刑事二人を伴い監視室から出ていった。
廊下を歩きながら、北原刑事が内藤刑事にぼそりと言う。 「鉄中毒の死亡例 あつかったことあるか?」 「いやあ 一度もありません。前の署でもありません」 視線を歩く先に向けたまま内藤刑事が答えた。 「夕食の鑑識はまだか」 「はい。恐らく今日中に連絡が入ります。しかし、普段から伊野はほうれん草やレバーを食べなかったそうですから、蓄積による中毒は少ないと思います。そうなると、当日の夕食で誤って鉄分を多く含む食材を胃に入れてしまったということになりますが、メニューから考えてありえない。麦飯に豆腐とわかめの味噌汁、肉じゃがと白菜の漬物、それに納豆。納豆を残して、他は全て食べたが、どれも多量の鉄分を多く含んだ食材を使っていない。どうやって鉄分が体に入ったのか分からない」 「ふむ。しかし、成人では稀な鉄中毒の持病を伊野は持っていた。鉄分に過剰に反応する体質であったろうから、少量でも症状が出たのかもしれない」 「そうかもしれませんが、病気を自覚していただろう本人が選んで食べたものは……、安全だから食べたのでしょう。あの医師も、現れる症状は軽かったと言っていました。もしかしたら、“盛られた”のでは?」 “盛られた”という言葉を聞いて、北原刑事は眉をひそめる。「毒物を入れて殺害した」の隠語ではあるが、確定していない事件について、関係者の前で殺人の可能性を語るのは精神衛生上あまり好ましくないからだ。 小さい声のため聞こえなかったのか、寺川の様子は変わらない。 「中毒症状は体調でかなりの差が出てくる。あの日、たまたま体調が悪く、普段は耐えられる症状に耐えられなかったということも考えられる。それに、独房での給食システムでは、調理場で調理されたものがカーゴに入れられ、看守の手によって各独房に直接配られる。そういう隙は無いはずだ」 うん とうなずき、内藤刑事は他の可能性に耽る。 三人は歩き、現場の独房前に着き扉を開ける。 「寺川さん お手数をおかけしますが、もう一度、説明していただけますか?」 北原刑事が言った。 刑事の看守らに対する聴取は二度目。一度目は事件直後。そして、しばらく冷静になる時間を与えての二度目が今日。 「はい。班長の坂本と私が扉の前に到着し、そこの覗き窓から覗きましたが、伊野は奥の壁にもたれかかっていて足しか見えなくて、状態の確認はできませんでした。そこで、急病と脱走の企み……両方の可能性を頭に入れながら、警戒態勢で鍵を開けて、部屋内に入りました。そして、ライトを……」 「あー寺川さん。失礼ですが、いたずらの可能性を頭に入れていましたか? 伊野は看守を困らせる目的で、何度か緊急信号を押したことがあるそうですが」 「……はい。正直……、いたずらだとも、思っていました。しかし、私たちはマニュアルどおり、警戒態勢で入りました。私と坂本班長の行動は妥当だったと思います」 寺川は少しムキになって言った。 北原刑事は調子を変えない。 「説明を続けてください」 「はい……。ライトを伊野の顔に当てると眠ったような顔でした。……いたずらかとも思いましたが、私が脈を確認すると、止まっていました。そこで、伊野を床に寝かせ、私は蘇生術に入りました。……坂本班長はAEDを取りに行きました」 「蘇生はどこで?」 「この……あたりです」 寺川は部屋の奥へ進み、片ひざをつく。その後ろに洋式のトイレがある。この刑務所では最低限の配慮として、トイレをする囚人の上半身だけが映るように監視カメラの角度が調整されている。緊急時と特別な場合意外は動かないのだが、カメラは、部屋の奥50センチくらいから扉までの画像を取り込む。奥壁にもたれかかっていた伊野は角度のため監視カメラに映らなかった。 扉脇の緊急信号ボタンを見て、内藤刑事が伊野の動きを想像する――何らかの原因で伊野は鉄中毒の症状を起こし、このボタンを押す。恐らくそのときすでに低血圧ショック状態で、めまいと共に強烈な胸焼けのような悪寒をもっていただろう。吐きたかったろう。だからトイレに向かうが、そこで気を失い、奥の壁にもたれ倒れる。そして心停止。 ……蘇生が早ければ、助かった可能性はあるが、結果論だ。看守らはそれなりの対応をした。やはり送検するのは不適当だろう。この事件はもう片付けていい。 北原刑事の寺川に対する話は続く。 「失礼ですが、蘇生術の経験は?」 「……研修だけです」 「手順に間違いはありませんでしたか?」 「……おそらくは」 「今ここで手順を説明できますか?」 ここで耽っていた内藤刑事が割り込む。 「北原さん。そこはもういいでしょう」 「ああ……そうだな」 北原刑事は気づいたように口をすぼめた。 刑事という職業柄か、彼は相手の気持ちを考えずに物事を掘り起こそうとしてしまうことがある。けれども、それは彼に気遣いの心が無いわけでなく、死亡事件を扱う上での命の重さに対する礼儀が彼の優先思考となり、一時的にデリカシーを失うからだ。 やっかいなことに命とは“重い”ものだから、完璧な対応が求められる。しかし、命の現場において、様々な妥協が渦巻く。医療のプロである医師や看護師でも妥協の上で行動をしているというのに、看守のような素人に等しい者に完璧を求めるのは、あまりに酷で非現実的だ。このことは北原刑事も頭に入れているが、たまに忘れる。 そのあと刑事らは、10分ほど寺川と話をして、終えた。
看守たちに対する二回目の事情聴取を終えた北原刑事と内藤刑事は、刑務所の玄関ロビーの椅子に座り休んでいる。ロビーは静かで、締め切ったガラス戸の向こうに受付係がいるだけで、他に誰もいない。 ぼそぼそと二人の刑事は話をする。 「さっきは“盛られた”と言いましたが、不慮の中毒死の線が濃いと思います」 「ふむ。俺もそう思う」 「仮に“盛られた”とすると、機会があるのは調理人と看守だけになります。主観ですが、その線で捜査を起こす必要は無いで……」 ピピピ――携帯の着信音が鳴る。 北原は携帯に出る。 「はい、北原。……ああ……ああ……そうか……そっちの鑑識は?……手際がいいな。よし、俺たちも向かう」 北原は携帯を切った。 「鑑識結果は?」 内藤が聞いた。 「夕食の残りから検出された鉄分は微量だったが、調理場の排水溝に詰まっていた土からは相当量の鉄分が検出されたそうだ」 「排水溝に詰まっていた土……ですか」 「ああ。野菜に付着していた土を洗い場で流し落としたときに、詰まったものだろう……と鑑識は踏んでいる。いま刑務所と提携している農家に鑑識が向かっているから、俺たちも向かおう」 「農家か……。つまらない捜査になりそうですね」 内藤刑事はそう言って、あくびをした。 「まあ、そういうな」 大して休む暇も無く、北原刑事と内藤刑事はロビーを後にした。 [3〆]
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