二時半、捜査員の刑事六人と鑑識係が捜査会議室に集合した。それぞれの午前中の捜査情報を共有するための報告会だ。 まず刑務所での鑑識内容が報告され、発見された指紋と塗料の証拠物件が鑑定に回される。また、先日発見された刑務所フェンス下の毛髪と榎本月子の毛髪が、鑑定の結果、一致したと報告された。看守寺川の任意同行と同時にその他看守への取調べを深めた結果、更に新情報があった。四ヶ月前に看守をクビになった若い男がおり、その男は榎本と伊野の面会に立ち会ったことがあり、また同僚に「伊野のような奴は許せない」と話したことがあったという。 その男の名前は阿藤大希。クビの原因は受刑者への暴力行為。現住所と連絡先は不明。 次に、榎本のアパートと刑務所間での足跡が報告された。唯一、郊外の軽食喫茶店「℃夏」で、数週間前に榎本の目撃情報があり、同時に若い男性が彼女に話しかけている様子が店主によって記憶されていた。榎本の面会記録と照合して、四月二日に目撃されたのではと考えられる。他のレストラン等での聞き込みでは、客が多数のために記憶に甘く、それらしい女性がいたかもしれないという程度だった。 この報告を受け、一同は仲介者の可能性をより意識した。それは、阿藤大希ではないのかと。 そして、下澤の入所前の人間関係の報告。入所前、下澤は会社の役職にあり運転手付きで常に行動をしており、運転手の話では、彼と榎本との接触は無いとのこと。同僚や部下からの評判は悪くない。入所の原因となった飲酒運転による死亡事故に関して、送検された書類通り、運転手が休みの日に親しい友人と酒を飲んだ後にこの事故を起こした事に間違いは無かった。この事故が原因で妻とは離婚しており、他県県警に協力を要請していた娘の強姦被害の疑いの件だが、娘本人からの確認は取れなかった。娘は、下澤が事故を起こす一年前に事故死していた。元妻はそんな話は一切聞いていないとのことだった。 榎本の人間関係の報告。会社関係で役立つ情報は無かった。生活安全課に依頼していた榎本の部屋を処分する約束をしていた友人の件は、事件に関係が無かった。彼女と大家の異質な関係、そして数週間前からの深夜の不審行動について報告されて、榎本と大家が共犯の可能性があるという見解も報告された。大家の名前は鈴木喜和子。現在、控え室にいる。 午前中の捜査で、新たに二人の被疑者が出てきた。元看守の阿藤大希。榎本月子のアパートの大家鈴木美和子。阿藤の被疑内容は、榎本月子と接触し、彼女の刑務所侵入を手助けしたこと。同被疑は看守寺川にも向けられている。鈴木の被疑内容は、榎本月子の刑務所への侵入協力。榎本の侵入がほぼ確定的となった現状で、新たな二人には殺人幇助の疑いが向けられている。 北原刑事が、取り調べの指示を出した。その指示に、他の刑事らは心中ざわめいたが、すぐに顔を引き締めた。 そして、取調べが始まる……。
取調室3に北原刑事と記録係の警官、看守の寺川がいる。 北原刑事の問いに少し間を置いて寺川がゆっくりと答える、そんな受け答えが20分ほど続いた。ここまでで、事件発生後、数度に渡って質問してきた内容は全て問い終わった。その受け答えの内容に、一切の違いはなかった。 言葉の抑揚が少ない寺川だが、それ以上に北原刑事の声は低い一本調子。取調べを受ける寺川はその事に対して怪訝を内包する――刑事の取調べとは厳しいものではないのか? 「……それでは寺川さん、阿藤大希という男性は知っていますか?」 「はい」 「同じ班の後輩ですね」 「はい」 「彼がクビになったとき、どんな様子でしたか?」 「とても気落ちした様子でした。あの……理由はご存知で?」 「ええ、既に聞いています。態度の悪い受刑者を殴ったと。大変でしたね」 「……?」 「午前中、同じ課の者が阿藤に会ってきたのですが、彼はあなたに感謝していましたよ。その時に庇ってもらったと?」 会った? ……
……取調室2。 「……阿藤大希、名前を言っても知らないかもしれませんが、あなたの事を知っているそうです」 誰だろう? と下澤は記憶を巡るが、思い出せない。 「看守です、元ですが。あなたと伊野が言い争いをしたときに、止めに入った事があるそうですよ。覚えていますか?」 ああ……、と下澤はその出来事を思い出すが、顔までは思い出せない。……彼がどうしたのだろうか? 「阿藤に殺人容疑がかかっていましてね、伊野殺害の」 ……何の話なんだ、これは。 「元看守の彼は刑務所の内部事情に詳しく、あの日、刑務所に侵入して伊野を殺害したそうです。まあ、まだ自供の段階ですが。これが事実だとすれば、あなたの言っている事と違いが出てきますね? どうでしょう。本当のことを言ってくれませんか?」 ……誰だか知らないが、私だけでは不十分という事なのか? ……
……取調室1。 榎本月子は混乱を隠せなくなってきている。 「あなたは何もしていないんですよね? そろそろ正直に答えていただけませんか? 我々警察も、無罪の人を問い詰めるような真似はしたくないのですよ」 私が無罪? 大家さん、なぜ? 「何度も言うようですが、大家の鈴木が全てを話してくれました。榎本さんの憎しみに共感をして、伊野を殺したと。あなたは、鈴木を庇う必要がないのです」 「大家さんは……いい人です」 榎本の声は細い。 「それに阿藤大希、名前ぐらいは聞いた事があるんじゃないか? これも鈴木が自白した事だが、彼が刑務所への侵入を手引きしたそうじゃないか。阿藤は今、行方不明でな、もしかしたら君なら知っているんじゃないのか? 鈴木は今、署にいる。あとは阿藤が捕まれば、君への疑いは晴れる。はやく解放されたいだろう?」 阿藤さん……。 「阿藤の連絡先を教えてくれませんかねえ」 ……
……取調室4。 「榎本さんの言う事は曖昧でね、本当に犯人なのか疑っているんですよ。あなたには、自分が犯人だと言ったのですね?」 「はい」 「それと、阿藤大希って男をご存知ですか? 彼もね、言っているんですよ、自分が殺したって。榎本と阿藤は共犯なんですかね?」 「……阿藤大希さん……ですか? 聞いたことはありません。協力してくれる人がいると聞いていますが、名前までは知りません」 「協力者は看守ですか?」 「刑務所の関係者だと言っていました」 「その関係者が刑務所への侵入を手引きしたと言うわけですか?」 「そう聞いています」 「何人ですか? 五人ですね?」 「五人? そんなにいるんですか?」 「その手口は?」 「そこまでは聞いていません」 「では、結局、彼女の殺人行為を黙っていたと言うだけで、とくに協力はしていないのですか?」 「いえ……、止めるべき立場にあったのに、止めませんでしたから、共犯です」 大家の鈴木は目を赤くしながら言った。 ……
各取調室で取調べが続いている――刑事が嘘をついて。 始まってから一時間が経過した。 内藤刑事は各取調室の様子をマジックミラー越しに観察している――看守寺川に今のところ変化はない。大家の鈴木は嘘をついている様子はない。下澤と榎本は取り調べ二日目、疲れと揺さぶりで思考のガードが剥がれ始めている。榎本はそろそろ落ちる。一番初めに落ちた奴が、実行犯の可能性が高い。殺人はストレスだ。その行為を本人がどれだけ正当化していようが、それは非日常を正当化したもの。これまで一般的社会生活を送ってきた人間にとって殺人が単純に扱われていない現実や通念を目にして耳にしてきたために、殺人を平常的に扱う事は難しい。取調べ自体は非日常だが、そこで口に出す耳する言葉は日常的なもので、その言葉だけで揺らぐ。そこに恫喝と正論と嘘をぶつければ、被疑者は日常の経験を持ち出して、思考のガードを固めようとするが、それ自体が剥離剤のようなもの。内外の差にストレスは増し、やがて思考は頓挫する。そうすれば、被疑者の新たな思考の構築の主導権は我々のものとなる。榎本はもう、限界のはずだ。
……取調室1。 「そんなに「大家さんは犯人じゃない」と言っても、向こうも認めているのですよ。しかも阿藤が手引きをしたと、あなたより具体的だ」 ――大家さんに、阿藤さんのことは話さなかったはず。どうして知っているの? どうしてそんな事を言うの? 大家さんも会ったの? 阿藤さんに。 「伊野を殺したい動悸があなたにはある。その動悸を大家の鈴木は理解していた。いや、理解というよりもまるで自分のことのように感じて憤っていた。あなたと同じくらいの動悸を大家は持っていた。そして、あなたに変わって伊野を殺した。そんな大家の凶行をあなたは知りながらも警察には通報せず、黙った。大家さんの優しさを感じ取ったのですか? 変わりに殺してくれて、嬉しかったですか?」 ――そんな事実はない。事実じゃないのに。 「しかし、こう思ったのではありませんか? 本来、伊野を殺すのは自分だったのだから、罪に問われるのは自分であるべきだと。だから大家を庇って、あなたはこうして出頭した。だから殺人の動機は話すが、殺人の内容は話せない、知らないからだ。違いますか?」 「違います!」 ――違う。それは違うというのに……、阿藤さん、あなたと大家さんの間に何かがあったの? 「阿藤さんはどこですか? 連絡先は?」 ――阿藤さん、あなたも覚悟を決めていたはず。捕まる覚悟を。 「大家さんねえ、どうも阿藤を庇ってるようでね、言わないんですよ」 ――私のアパートの情報は、ネットで調べれば出てくる、テレビ報道でアパートを映されたために誰かが調べたのだから。阿藤さんはそれで知って、大家さんに会ったの? そして、大家さんに自首をさせたの? 「罪を犯した者は罪を償う、阿藤さんも償うべきではありませんか?」 ――阿藤さん、あなたは逃げたの? 「何度も言いますが、あなたは罪を償う必要がないかもしれません。ただ、大家さんのやった事を黙っていたのですから。分かりますか? 罪に問われないかもしれないのですよ」 「……それは……違う! 伊野を殺したのは私! 殺す権利があったのは私! だから罪を償うのは私! 阿藤さんは私を助けてくれた人! 大家さんは何も関係がないの!」 ほう、と榎本の目の前の刑事は笑みに。 「では阿藤さんの居所を教えてください。そうすれば大家さんの無実が証明できる」 そして、榎本のすっかり歪んだ口から阿藤の居所が出てきた。
……取調室3。 ノックの後に「北原さん」と、内藤刑事が入ってきた。彼の目に強いものを感じ取り、北原刑事は無言で取調室から出た。 「榎本が阿藤の居所を吐きました。市内なので三十分で確保できると思います」 「そうか、俺とお前で行く」 「はい」 「他は?」 「下澤は嘘だと気づいているのかもしれません。大家の鈴木は人のいいおばちゃんなんでしょう、ただ素直です。榎本の相談を受けただけに見受けられます」 「そうか……、鑑識からの連絡は?」 「まだです」 うむ、とうなずき、北原刑事は取調室の中に入り、記録係の警官に寺川を休憩させるように命じた。 そして、北原刑事と内藤刑事は阿藤のいる場所へ向かった。 [19〆]
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