午後1時警察署内――「内藤さんから、任意同行で寺川を引っ張ってくると連絡がありました」との婦警の報告を、南刑事と原刑事は受けた。二人は午前中、榎本と下澤の関係について捜査を進めていたが、たいした収穫を得る事ができずに署に戻ってきたのだ。 二人の刑事は婦警に軽く礼を言って去ろうとしたとき、 「あのそれと、生活安全課の千村さんがこの捜査について話をしたいことがあるとかで、えーとついさっき来たばかりだから……あっあそこに居ます」 と、婦警は言った。 自販機のそばに立つ千村婦警、彼女は南と原に少し困ったような顔を向けた。 二人の刑事は彼女に近づき、その場で 「何か情報ですか?」 と、聞いた。 「情報というか、疑問に対しての相談なんですが、よろしいですか?」 まだ幼さの残る千村婦警の声、刑事二人を前にしてその目線は伏せたままだ。 「かまいませんよ。何か気づいた事でもありましたか?」 そのとき南刑事の携帯が鳴り、彼はその場から離れた。 数秒の沈黙ののち、彼女が原刑事に話し始める。 「昨日、刑事課からの要請で、松野先輩と私で榎本月子の所在確認をしに行ったときの事なのですが、……彼女が突然、伊野を殺したと告白して、それから近くに居た大家さんに、伊野を殺したと彼女が報告したんです……彼女が大家さんに。そしたらその大家さんが、「がんばったね」と言ったんです」 「ほう」と原刑事は相槌を打った。 「その大家さんとは、わたし初対面で、会話をしたのは松野先輩なのでこんな事を言うと不躾な気もするのですが、何となくあの大家さん、榎本月子が殺人を犯すことを知っていたような気がするんです。……勘違いかもしれませんが」 「そのことは松野さんから聞いている。榎本とその大家さんだが、婦女暴行事件の後から親密な関係にあったと聞くが、それで「がんばったね」と言ったんじゃないか? 殺人は重大な犯罪だが、殺したいという感情は一般的に……まあまあ存在する。榎本に共感して、そんな言葉が出たのじゃないか?」 「……そうだと思います。昨日松野先輩と話をしたときも、先輩も同じように言って、けれど、一晩悩んで、頭の中にひっかかるものができてしまったんです……」 「それはどんな?」 「なんだか、告白に慣れ過ぎていたように感じられたんです。榎本さんの告白のあと、大家さんは一瞬驚いたけどすぐに笑顔に変わったんです。いくら普段から親身に相談を受けているからって、殺人の告白をあんな簡単に処理できるのは不自然だと思うのです。むしろ親身だったからこそ、身近な人が殺人をしたということにショックを受けるだろうと……思ったんです。ショックを受けないという事は、何かを知っていたのではと、思うんです」 千村は少し興奮しながら、原刑事の目を見た。 原刑事は思う――このまだ若い婦警は、少女のような繊細さを有しているのだと。そして、警察官としての気持ちも持っているのだと。彼女は榎本の殺人の告白にショックを受け、その被疑者が自分の隣で泣き出しことにショックを受け、自身の心情と周りの雰囲気の間に格差と違和感を感じたのだろう。しかしながら、彼女の言う事に理が無い訳ではない。 「告白に慣れ過ぎている、というのは、その大家さんが榎本から何らかの殺人計画を聞いていたという事か?」 「それは……わかりませんが……そうかもしれませんが、その何と言うか、何回か他の告白があったんじゃなかと思うんです」 「他の告白だって?」 原刑事の語気が少し上がり、千村はまた目を伏せた。 「あの……変な例えですが、誰かに付き合ってくださいと告白されたときに、初めてのときは思い通りの返しができません。びっくりして頭の中が真っ白になります。何回か告白されたときに、やっと笑って返せると思うんです。だからきっと、あの大家さんも、何回か告白を受けたんじゃないかと思うんです」 繊細というよりも馬鹿なのか、と原刑事は思った。 「告白というよりも、愚痴や相談を聞くうちに、まあこの場合非常に強い憎しみのこもった言葉を聞くうちに、榎本が殺人という行為に及ぶかもしれないという想像に至り、あまり驚かなかったとも考えられるんじゃないか?」 「……それもあると思いますが、……素人意見なのかもしれませんが、刑務所の中にいる人間を殺したと告白して、刑務所の中の人間を外の人間によって殺す事が可能だったと、簡単に信じられる事ができるの……でしょうか? 私は信じられない。大家さんは簡単に信じました。……それがどうにもわかりません」 ……! どうやら馬鹿だったのは私の方だった、と原刑事の目から鱗が落ちた。捜査過程において、外部犯の可能性や侵入痕跡、看守共犯の可能性などの情報が頭にあったせいで、一般的考え方を見落としていた。我々でも捜査当初は刑務所内での殺人は不可能だとして中毒死の線で事件を終わらそうとしていた。それが、下澤の告白や侵入痕跡の発見が相次ぎ、難解な問題に思考が偏り、情報と客観の水平化が損なわれていたようだ。この事には他の同僚も気づいていないだろう。 「千村さんでしたね。どうもありがとう」 不意に原刑事は千村婦警の肩を抱き、礼を言った。 えっ、と驚いた彼女は下がろうとするが、原刑事の腕の力が強く微動だにできない。 「セクハラですかあ? 原さん」 携帯で話し終えた南刑事が戻ってきた。 「なんだい? セクハラって」 そう言った原刑事だが、まだ彼女の肩から手を離さない。 「だからその手ですよ。ほらお嬢さん、この人痴漢ですって叫びなさい。正義の味方がこの悪者を逮捕してさしあげますよ」 千村婦警は叫ぼうとはせず、ただ顔を伏せた。 「ああ、すまない」 ようやく原刑事は手を離した。 「すみませんねえ、こいつはすぐに手が出るんですよ。どのような展開か知りませんが、この男の前で隙を見せては危険だ。さあ、走って逃げなさい」 南刑事の少々ふざけた言葉に千村婦警は「いえ、違うんです」と小さな声を出した。 「そう、セクハラなんかじゃない。千村さんから有益な情報を得たところだったんだよ」 原刑事は言った。 「何で肩を抱いたんだ?」 「それは……ついだよ」 「何だ、セクハラじゃないか」 「しつこいな」と、原刑事は顔をしかめた。 「あの……、私の情報、役立ちそうでしょうか?」 原刑事から一歩下がった千村婦警は言った。 「ああ、きっと役立つ。千村さんが疑問に思ったとおり、大家さんは何かを知っているのかもしれない。早速、話を聞きにいく事にするよ。知らせてくれてありがとう」 原刑事のその言葉を聞いた千村婦警は少しスッキリした表情で軽く頭を下げて去っていった。 「大家? どんな情報だ?」 南刑事が尋ねた。 原刑事は千村婦警から得た情報を南刑事に伝えた。 「確かにな……、見落としていた。すぐ行くか」 「ああ。北原さんに連絡をしないとな。まだ署に着いていないのか?」 「まだ着いていないようです。それと、大家の前に、そのアパートの住人にも話を聞いた方がいいな。話から推測するに、大家共犯の可能性がある」 「そうだな……。だったら大家さんに知られないようにしないとな」 「それと、倉田さんに相談しますか?」 しばし二人は沈黙。 「倉田さんは怖いしな」 「ええ怖い」 「だが榎本については彼女が一番詳しい。行くか」 「はい」 二人は榎本月子に付き添いをしている倉田婦警のいる控え室へ向かった。
控え室の奥にソファーがあり、そこに榎本月子と倉田婦警が座っていた。 原刑事と南刑事の両名が控え室に入ったとき、倉田婦警だけが彼らに顔を向けた。その顔はどこか疲れた様子だった。榎本月子はうつむき、ファッション雑誌を読んでいる。 入り口で原刑事が倉田婦警を呼ぶと、彼女は素直にやって来た。小声で彼女に、榎本月子について倉田さんに尋ねたい事がある、と言うと、昨日と違って彼女は敵意を見せることなく静かに頷いて了解を示した。倉田婦警は控え室から出る事に少し心配して、南刑事の目を見つめた。それを察した南刑事は、「取調室以外で乱暴な事はしませんよ」と言った。原刑事と倉田婦警が控え室を出た後、南刑事はソファーに近寄らず入り口の傍で腕組をして立ち、ただ榎本の様子を見る。彼女は変わらずファッション雑誌を読み、南刑事がそこに立っていることに気づいてさえいないようだった。 控え室の外、千村婦警の情報は伝えずに捜査手帳を開いた原刑事は、刑事課が知らないだろう大家と榎本の関係について倉田婦警に尋ねた。倉田は答える――報告書に書いたことと重なる部分があると思いますが、榎本さんと大家さんは友達のような関係でもあり、師弟のような関係でもあります。今のアパートは榎本さんが初めて一人暮らしをはじめた場所で、いろいろと地域のルールに不慣れな部分を大家さんがおせっかいを焼いて助けたそうです。例の事件の前から仲は良く、榎本さんは大家さんのことを人生の先生のように思っていたそうです。それが例の事件が起こって、榎本さんは事件現場でもあるアパートから出て行こうとしたのですが、大家さんがそれを引きとめて、そこから二人の闘いが始まりました。例の噂……私が榎本さんに発破をかけて復讐に燃えさせたという噂はご存知だと思いますが、あれは少し違います。私は報告書……いや始末書でしたか、送検後の彼女に対するサポートは微々たるものに過ぎませんでした。榎本さんの復讐の心を支えたのは大家さんでした。この手の犯罪者に対して私が意固地になるのは事実ですが、被害者を復讐に駆り立てるという所までは、警察官としてできません。私がしたことは復讐に燃える二人を警察側としてサポートをしました……違反はありましたが、捜査情報を二人に無断提供したりしました。聞かれてなんですが、私は二人の関係について、たぶんに浅いところしか知りえていないのだと思います。あの裁判は、二人が勝ち得た結果です。 そこで少し間が空いたので原刑事が口を挟む。 「裁判の結果について、その二人は満足したようでしたか?」 「……結果には喜んだようでしたが、そのあと会ったときに、榎本が刑務所に行って伊野に面会し、謝罪の言葉を要求していると聞き、彼女の傷は癒えていないのだと思いました」 「面会に関しても大家さんの支援はありましたか?」 「あったようです」 「どのような?」 「そのことについては、ほとんど知りません」 「どうしてだ? 親身になっていたんだろ?」 「……彼女の事を気にかけて裁判後も何度か会いに行きましたが、その頃から、話の輪に上手く入れない雰囲気が、榎本さんと大家さんから発せられていたようで、疎外感からか、あまり会わなくなりました。……たぶんに、私が「もう裁判が終わったのだから、復讐の心に一区切りをつけて、これからの生活を充実させていきましょう」と言ったことがあったのですが、それが彼女らの癇に障ったのかもしれません」 「そうか……」 これがしおらしい原因かと原刑事は思ったが、それならば昨日からしおらしいはず、と首をひねる。 「では、榎本が刑務所に侵入して殺人を犯したかもしれない経緯について、想像や推測もつかないというわけか」 「……はい。昨日、言ったとおりです」 もう少し有力な情報が引き出せるかと思ったがいまいちだな、と原刑事は思った。しかしながら、大家さんが榎本と同様に執念の人物だという事の確認はできた。倉田婦警は大家さんを共犯だと疑った事があるか尋ねようかと原刑事は思ったが、それは止めた。なぜならば、今回の倉田婦警の仕事は榎本月子の付き添いで、つまりは女性側に立つという仕事だからだ。 今はこれで十分だと原刑事が捜査手帳を閉じたとき、倉田婦警が、 「あの、北原さんに頼まれていた件、報告しときます」 と、言った。 そんな件が彼女に頼まれていた事は朝の捜査会議で言われていなかった。北原さんが後で追加したのか? と原刑事は思った。 「ああ、なんでしたか?」 「榎本さんのアパートの処分を頼まれていた友人の聴取、生活安全課のほうで行いました。その友人がアパートの処分を頼まれたのは榎本さんの事件が起こる前の話しで、事件とは関係なく、お互いに何かがあったら、いろいろと処分するもののリストを交換していたようです。それと、ここ三ヶ月ほど直接会ってはいなくて、二週間前に電話連絡をしたきりだったそうです」 ふむ、と原刑事は手帳に書き込んだ。 「あと、榎本さんから何か聞き出せたら聞き出してくれとのことだったのですが、何も聞きだせませんでした」 ……何も聞き出せないか。以前から二人に交流関係があったことから、彼女ならば何らかの情報を引き出すのではという見越しがあったのだが、話を聞くに、今は疎遠。しょうがないことか。 「例のごとく、だんまりか?」 「はい、ほとんど口を聞いてくれませんでした。それでも一言、「こんな形でまたお世話になって、裏切ったようで申し訳ないです」と言ってくれました」 「反省をしている様子はあるか?」 「それはよく分かりませんでしたが、これからどんな取調べがあるのか、と不安に戦く一面はありました」 「そうですか」 それならば取調べで落す隙があると、原刑事は思った。 「私から見てですが、榎本さん、情緒不安定なのか、時々下を向いて笑っているように見えるときがあるんです。昨日の取調べのときも、もしかしたら笑っていたのかもしれません」 「取調べで笑っていた?」 「見間違いかもしれませんが」 それを聞いた原刑事は少しムカついた。 「今日も笑っていたというわけか」 「いえ……、笑ったというか、含み笑いのような感じで、なんだか一緒にいて怖くなるような笑い方なんです」 怖くなるねえ……、そう言われれば、気が強いはずの目の前の女性、しおらしいというより、少し怯え疲れているようにも見える、と原刑事は倉田婦警の様子を見直した。 「倉田さん、大体分かりました。引き続き付き添いの方をお願いします」 原刑事は軽く頭を下げ、控え室の中の南刑事を呼び出し、刑事課室へ向かった。 「倉田さんは何て?」 歩きながら南刑事は聞いた。 「榎本と大家さんの関係は我々が知っていた以上に親密で倉田さんから見ても異常性を感じる部分はあったそうだ」 「やっぱり」 「榎本だが、揺さぶれば落ちそうだ」 「え? 私が見る限り昨日との変わりがなかったようでしたが」 原刑事は「榎本の笑い」について伝えた。 「なるほど……。自分に酔っているだけか」 南刑事は不適な笑みを浮かべた。 「午後の聴取開始予定時刻に遅れるが、北原さんに連絡を取って、大家さんの聴取に向かおう。なんだったら任意出頭を求めよう」 そうですね、と南刑事は返事し、ふたりは午前中の捜査報告書を刑事課室に置いて、すぐに車に乗った。
原刑事と南刑事は榎本月子のアパートに到着した。 ここまでの車中で、大家の前にアパートの住人から情報を探ろうという話になったので、一階の大家の部屋をそっと素通りして、二階の部屋の戸を小さく叩いた。榎本月子の隣の部屋だ。 中から返事はなかったが、やがて寝癖頭の男がのっそりとドアを開けた。彼に警察手帳を見せると、不思議な顔をした。二人の刑事は一階に会話が漏れることを避けるために入室を慇懃に希望すると、その男は不思議がりながらも招き入れてくれた。キッチンダイニングの奥に部屋があり、男はそこに二人を促したが、「すぐに済みますので我々は立ったままで結構です」と、早速質問を始める。すると、有益な情報が得られたのだった――男の名前は江藤欣也、ここには二ヶ月前に引っ越してきて、居酒屋の店員で仕事が深夜に及ぶために今まで寝ていた。彼が部屋に帰るのは深夜一時ごろで、それからプライベートの時間を過ごすので就寝は明け方六時ごろ。そんな彼が、数週間前から繰り返し深夜二時ごろの隣室のドアの開閉音を耳にしていたというのだ。それだけでなく、同じ時間帯に階下の大家と隣人の話し声を聞いた事があるというのだ。その話の内容までは聞き取れなかったが、時には大家の部屋の中で話し込んでいるだろう様子はあったようだ。 この情報から考えるに、榎本の殺人容疑について、少なくとも榎本の深夜の怪しい動向について大家が何らかの情報を得ていた事がうかがわれる。二人の刑事は目を合わせてうなずいた。 終始不思議な顔をしたままの江藤だったが、彼に榎本の被疑内容は伝えず、また話を伺いに来るかもしれないのでそれまで口外を控えるようとお願いをして、刑事二人は部屋から出た。 「使えるな」 「はい」 すぐに大家の部屋に行くと、大家が居た。 大家は特に動揺することなく刑事の質問に淡々と答え、榎本の犯罪への関与を認めたので、任意同行で警察署へ行く事になった。
一方、看守の寺川が警察署に到着した。これですでに伊野殺害を自供した榎本と下澤、殺害への関与を認めた大家、一切の関与を認めていない看守寺川ら四人の取調べが始まる。 [18〆]
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