鏡に映るこの顔には喜色が溢れ、“やるべき”ことをしたのだという実感に瞳が強さを増す。自然、握りこぶしにも力が入っていた。服装を正し、髪を整え、ふっと息を吐いて肩の強張りを調度よく緩め、まぶたを閉じた。蛍光灯の白さにつつまれ、そこに伊野の死体を思い描き、白く浄化させた。 職場の同僚からの評価では、仕事振りは真面目だが私生活に横着が見られるとのことだった。仕事中の格好は清潔だが、寮の部屋は汚く、食生活も食パンとインスタントラーメンばかりと、横着だと言われた。少し掃除をする手間を惜しまなければ部屋は綺麗になり、少し料理をする手間を惜しまなければもっとおいしいものが食べられると。横着だと。 それを横着と呼ぶのだろうか? 個人の自由時間の中での食事も掃除も“やるべき”ことではない。社会や周りとの調和を考えた中で必要性のある行動を“やるべき”ことと言うのであって、“やるべき”ことではない部分の手を抜いたからといって、横着と呼ぶものではないと思う。“やるべき”ことをやらなければ横着だと呼べるが、誰もがそれをやれるわけではない。 私もこれまではそうだった。 職業柄、自分が送り出した出所者が再犯で捕まった記事を目にする事がある。刑務所は犯罪者の更生施設だが、人の性格やそれに相対する行動というものはそう簡単に変えることはできない。再犯率は40%を超える。一職員の私が、その数字に対して評価を与える事はできないが、私自身は力の足りなさを痛感している。同時にぶつけどころのない怒りにも苛まれていた。 目の前にいる囚人が出所後、再犯するのではないか、と。 この仕事を続けるうちに、再犯をする人物というものが、わかってきた。 そいつらが出所し、新聞記事になり、私の苛立ちは日に日に増した。 しかしながら、確証があるわけではない――こいつが必ず再犯をすると。 確証などという言葉を使ってしまえば、未来に対して行動を起こす事はできない。更生には限界が……更生できる人間には限界がある。予防が必要だ。確証がなくとも予防をしなければいけない。 前々から伊野の事を再犯をする人物だと考えていた。それが、榎本月子が面会に来たことで確信に変わった。あいつは悪だと。そう確信したとき、それまで黒く汚れていっていた私の頭は白く浄化され、これまでにない冷静を得た。 目を開けると、冷水で顔を洗ったかのようにすっきりしていた。 仕事に戻った。 [15〆]
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