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作品名:独房の笑い声 作者:若野 斜羽

第13回   うつむき
 県警内の狭い一室。採光窓は小さく、傾いた日がある男の薄い頭頂部を照らす。その前に若い女がうつむきかげんに座る。笑ってもいいシチュエーションだが、女は笑わない。ただうつむき、言葉を忘れたかのように黙っている。女の笑いは別のところにある。――ここは取調室。女の名前は榎本月子。伊野殺害を認め、ここに出頭している。女の斜め後ろに婦人警官が座っている。薄い頭の男の斜め後ろには、若い警官が机に伏すように頭を落としてペンを動かしている。
 __沈黙が続いている。
 取調室に入り、目の前の刑事――原刑事の質問に対して榎本は粛々と素直に答えた。が、答えたのは殺害動機に関することだけで、殺害方法については「刑務所に侵入して殺しました。その時のことは夢中だったので覚えていません」との一点張りだった。
 この態度に原刑事は内心業を煮やしていたが、榎本の後ろに座る婦人警官の挑発的な鋭い目線を感じていたので、むやみに声を荒げて問い詰めることを控えていた。
 婦人警官の名前は倉田。強姦被害者となった榎本をサポートし、強姦犯伊野逮捕から実刑判決まで親身になった人物。現在、伊野殺害の容疑で榎本が被疑者となっているが、彼女を守る姿勢に変化は無いようだ。ただ、如何なる事情があろうとも被疑者に対して厳粛な態度をとらなければいけないことも確かだ。
 カリカリとペンを走らせる音が止まった。
 榎本が滔々と殺害動機を話したので記録係の若い警官はせっせとそれを書き記していたが、沈黙が続いていたのでようやく追いついた。
 閑を得た若い警官の鼻にミント系の匂いが不意に入り込む。彼が使っているシェービングフォームと同じ香りだった。フォームの拭き残しがあったかなと耳たぶの下を指で触るが拭き残しは無く、その指の匂いをかぐといつもお洒落でつけている香水の香りがした。たぶん原刑事が同じフォームを使っているのだろう、と若い刑事は考えた。
 が、この匂いは榎本月子のもの。婦警の倉田は、その匂いの悲しい真意をかみ締めながら取調べを見守っている。そのことが彼女の冷静な思考を少しずつ乱していっている。
 小さく咳払い、原刑事が再び詰問を始める。
 「榎本さん。もう一度お尋ねします。あなたは刑務所に侵入した、間違いないですね」
 「はい」
 榎本は小さく返事した。
 「刑務所は厳重に管理されている建物です。そう易々と侵入できるものではありません。どうやって侵入したのですか?」
 「覚えていません」
 「また伊野を殺害したと言いましたが、独房にいる囚人をどうやって殺害したのですか? 鍵を破って侵入したのですか?」
 「わかりません」
 「殺害という行為をして特別な心理状態になって記憶が曖昧になっているのでしょうが、それでも何か少しくらいは覚えているでしょう? 殺害を認めるならば、覚えていることを少しでもお話ください」
 「思い返そうとしても、思い返せません」
 そこで原刑事は机を叩きそうになったが、抑えた。机を叩くぐらいで被疑者に不利な自白を強要したことにはならないが、抑えた。
 また沈黙。
 このわずかな間に日はより傾き、原刑事の後ろの壁に橙色の眩しくも暗い額縁絵ができあがった。そこにふっと影が入る。婦警の倉田が立ち上がって、窓の下を見下ろしている。彼女の眼下――パトカーが止まっていて、刑事二人と囚人服の男が署の玄関に入るところだった。
 倉田は元に座る。
 2分ほどして、取調室のドアが開き、南刑事が入ってきた。
 「原さん、ちょっと」
 南刑事が原刑事を呼んだ。
 二人がドアの向こうに消えた。
 目線を膝頭に落とす榎本を斜め後ろから見て倉田は思い悩む――本当に伊野を殺したのか? ……女の子らしい服装をしている。でも、まだ男性用のフォームを使っている。……気持ちの整理は完全じゃないみたい。けど、前進はしている。……その結果が殺人? 彼女はとても激しい性格の持ち主だけど、殺したの? 殺害方法を語らない……、何か隠しているの? 彼女は殺していないような気がする。けれども、殺す動機は十分にある。だからといって、行為に及んだと決めることはできない。……何か隠している。誰かを庇っているの? 誰を……。
 二人の刑事が取調室内に戻ってくる。
 やおら南刑事が榎本の前に座り、
 「榎本さん、私が質問をします。先に原刑事が説明したとおりあなたには黙秘権がありますがしゃべりたければしゃべってもらって結構ですよ」
と、早口に言った。
 榎本はチラッと南刑事の顔を見た。
 彼の目玉がぎょろついている。
 「伊野を殺したことに間違いはありませんか?」
 「はい」
 「しかし、殺した方法は覚えていないのですね」
 「はい」
 「では思い出していただくように、ヒントを与えましょう。刑務所のフェンス下を調べました。そこに、人が一人くぐれるほどの溝が掘られていました。そこから侵入したのですか?」
 「わかりません」
 「鑑識の調べで、毛髪が見つかりました。それがあなたのものかどうか検証したいので、毛髪を一本いただきたい。よろしいですね」
 「……はい」
 すっと原刑事が榎本に近づき、手にはハサミ。榎本のうつむきが少し深くなる。「倉田さんよろしいですね」と、婦警に許可を取り、毛髪を一本切った。そして、ドアの向こうで待機していた鑑識にそれが渡された。
 「下澤、この名前に聞き覚えはありますか?」
 「いいえ」
 「彼も伊野殺害を自白しました。自白したのは今日です。これはどういうことでしょうかね?」
 榎本は答えない。
 「伊野の隣の独房にいたのが下澤です。彼はこう言っていました、伊野の夕食に鉄分を含ませて中毒死させた、とね。それでも、あなたは自分が殺したと言い張りますか?」
 しばらく沈黙して、「はい」と榎本が答えた。
 あれ……頬がゆるんだ?__と倉田の観察。
 「刑務所には監視カメラがついています。ひととおり記録を確認しましたが、あなたの姿はありませんでした。これはどういうことでしょうか?」
 「わか……」
 「わかりませんよねぇ、覚えていないのですから。もう一度確認します、刑務所に侵入したのですね?」
 「……はい」
 「何月何日か覚えていますか?」
 「伊野を殺した日です」
 「まあいいでしょう。その日、あなたは刑務所に侵入し、監視カメラに映らずに伊野を殺害したと、言うのですね。おかしな話ですねえ、透明人間じゃあるまいし」
 ふう、と南刑事は天井に息を吐いた。
 倉田は思う――やはり榎本は嘘を言っているのだと。本当は殺していないのだと。なにか事情が……。
 「けどまあ、可能です」
 天井から目線を戻し南刑事は言った。更に続ける。
 「あの刑務所の監視カメラは、不規則的に録画と消画が切り替わります。消画のときに通り抜けてしまえば、カメラに写らずに侵入が可能です。ご存知でしたか?」
 「……知りませんでした」
 「しかし、この方法は、画面の切り替わりの不規則性を知っている人物がいないとできません。それを知っている人物は監視カメラのメンテナンス会社の者、あなたはそこの社員ですか?」
 「いいえ」
 「そこにお知り合いが?」
 「わかりません」
 「会社名は『サイドウ総合電気サービス』ですが、記憶にありますか?」
 「わかりません」
 そこまできて南刑事の後ろから「わかりませんの他に言うことは無いのか! キミは殺人を自供しているんだぞ! 犯した行為を詳しく述べる責任があるんだぞ!」と、原刑事が激昂。それに応じてすぐさま倉田が立ち上がり、「怒鳴り声はやめてください」と注意した。
 原刑事は倉田婦警を睨む。
 彼女も睨み返す。
 そんなやり取りを横目に南刑事が不埒な質問を始める。
 「榎本さん、強姦罪と強制わいせつ罪の違いをご存知ですか?」
 耳にしたくない言葉を耳にして、榎本が垂らしていた首をもたげる。
 不敵な笑みの南刑事。
 立ったままの倉田が、
 「そ そ そんな質問はやめてください」
と、裏返った声で。
 が、南刑事は続ける。
 「伊野があなたに犯した……犯罪が強姦罪です。裁判もしましたしね、ご存知ですよね、強制わいせつ罪との違いが」
 榎本は答えない。
 「南さん、やめてください」
 倉田の声が怒りに震える。
 「強制わいせつ罪も強姦罪も女性の同意なく性的行為をした者に適用される罰です。しかし、二つには決定的な違いがあります。この辺りはテレビニュースなどで詳しく報道されないのでこの二つを同列の罪と考える人が多いようですが、確認のために言っておきましょう」
 何の確認ですか!――と倉田が怒鳴るが南刑事は気にしない。
 「強制わいせつ罪は女性の胸や性器を指などで触った行為に適用される罰で、強姦罪は男性器が女性器に侵入した行為に適用される罰です。まあ痴漢とレイプの違いですね」
 南さん!――と更に倉田が怒鳴るが、まあまあと彼は倉田を見ずにそれを制す。が、その程度で収まるはずもなく、遂に倉田婦警は南刑事に詰め寄り、机をバンと叩いた。そして、歪めた顔を近づけ言う。
 「あなたのやり方は酷い! 過去のこととはいえ、被害者の彼女の心理を卑しく乱して、不利な自白を強要しようとしている。確かに今は被疑者ですが……まだ証拠が見つかったわけではないのでしょう? 自白しただけでは罪にならない。それに動機を知っているんでしょうが! もっと気遣いをするべきです!」
 これだけ言われても、南刑事は倉田を見ない。
 「次の質問をします。あなたはどこまでやったのですか?」
 南刑事は言った。
 「あなたは殺害動機に関しては包み隠さずに述べたそうですが、殺害行為に関しては黙秘に等しい。それはつまり、直接的に行っていないということでしょうか?」
 え? と倉田が声を出した。
 「刑務所に侵入した事実は認めて、その仔細を話さない。それはつまり、覚えていないということではなくて、行為の結果を知らないということなのではありませんか?」
 「結果は知っています。あいつの死亡です」
 今まで南刑事の問いに口を閉ざしてきた榎本が、言った。
 「あいつとは伊野のことですね」
 「そうです」
 「結果は新聞の「おくやみ欄」で知ったのではありませんか?」
 「そうですね……、その欄を見てより実感はしました」
 「殺したという実感ですか? 死んだという実感ですか?」
 「……殺したという実感です」
 「さてまたひとつ、教唆犯と幇助犯の違いをご存知ですか?」
 いいえ、と榎本の声は尻すぼみ。
 「教唆とはそそのかして犯罪をさせること、幇助はその犯罪を手伝うこと。あなたはどちらですか?」
 どういうことですか?__と倉田は疑問の声を上げそうになったが抑えた。榎本に抱いていた親愛の情と南刑事に対する反感が絡まり、付添い人に相応しくない言葉の乱れを晒してしまったが、事の真相らしきものが見え始め、成り行きを見守るという表層の態度が戻ってきた。南刑事の言葉は女性蔑視甚だしかったが、それも刑事の真実に対する欲求がそうさせたのだという考えで警官としての意識を高めて心の平静と事件への高揚を円く混在させる。顕著に凛となる。一歩下がった。
 その様子に原刑事は気づき、自身も襟を正す。
 南刑事は続ける。
 「動機から考えて、あなたには殺す理由が十分にある。それは、下澤も同じです。いま隣の取調室にいる下澤という男も伊野を殺害したと自白していますが、十分な動機を持っています。その動機に関しては詳しくお伝えしませんが、あなた同様に十分なものです。ひとつの事件に自白をする被疑者が二人もいるというのは不思議なものです。が、こう考えれば納得がいく。下澤が刑務所に入所する前からあなたと下澤は知り合いだった。そして、お互いに伊野を殺害する十分な動機を持っており、伊野殺害という利害関係を形にしようという考えに至った。しかしながら、殺害というのは心理的に容易なものではない。いかに憎しみが強かろうと重圧は尋常ではない。ためらいがあったはずだ。が、殺害という結果があるということは“踏み切った”ということ。これは想像するに、どちらかが一歩前に出たのでしょう。榎本さん あなたか、下澤か。もしもあなたならば、伊野を刑務所に送り込み、入所前から前もって示し合わせていた方法で下澤に行動を起こさせ、あなたも何らかの行動をして殺害行為を完遂した。これが教唆。反対に下澤ならば、下澤自身が刑務所に入り、前もって示し合わせた方法であなたに手伝わせ、自らも動き殺害行為を完遂。これが幇助。共犯には違いがないが、教唆と幇助では罪の重さが変わってくる。その辺りを計算しているのですか?」
 長い言葉を受けて辟易したのか、榎本は指で目尻を掻く。
 目の前の話に飽きてくると指で体のどこかを触ったり掻いたりして暇を紛らわそうとする人がいるが、彼女もその類か? では、殺人罪を詰問されているというのに、心が他所に向くほど暇を感じているのか? それとも単に、目の前の圧力から逃れるために、思考の現実逃避が無意識のうちに行われているのか? 
 まだ目尻を掻いている。
 かゆかっただけか?
 目尻を掻き終えると、口を押さえるように一瞬あたまを下げ、すぐにあたまを上げて、
 「おっしゃることが難しくてよくわかりません」
と、榎本は言った。
 南刑事は眉をひそめる。
 原刑事も眉をひそめる。
 婦警の倉田は少し……引きつったような顔をしている。その心中に、恐怖の芽が小さくぽつん。彼女は見た、榎本が口を押さえて頭を下げたときに歪む口尻から白い歯が覗いたのを。
 笑った――倉田はそう感じた。
 歯が見えたからといって笑ったということにはならないが、彼女の勘は当たっていた。
 榎本の上着の下に隠れる腹筋が細かく断続的に強張っていた。
 押し殺しながらも笑っていたのだ。

 その後しばらく刑事の詰問は続いたが、大きな進展は見られなかった。
[13〆] 


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