刑務所の正面玄関とは正反対の裏手に、数人の鑑識と北原刑事がいる。犯人の侵入痕跡と見られるフェンス下の掘り返しを中心に、鑑識は遺留物等の探索を続け、見つかったのは髪の毛が数本と、わずかな足跡。足跡に関しては乾いた土の上に残っていたもののため靴裏の形が不鮮明で、証拠としての期待は薄い。髪の毛は比較対照が無いため一時保留される。 鑑識はその場の片づけを始めている。 そこに内藤刑事がやってきて、北原刑事に捜査の進行状況を尋ねる。 「北原さん、どういった進展があったのですか?」 「ん ああ、フェンスの下に人の侵入したと見られる堀返しがあってな、恐らくは外部犯、そう考えている」 北原刑事の言葉を聞いて、内藤刑事は驚きと疑いの表情を混在させる。ブルドッグのようにしわが寄った。 向こうから、はしゃぎすぎて股関節を脱臼した悲しいチワワのような南刑事がヒョロトコと歩いてくる。自身の意気込んだ“読み”が的をはずしたために、やや自信を失っているのだ。 「南、そっちはどうだった?」 まだ少し遠めにいる南刑事に、北原刑事が声をかけた。 が、返事が無い。 声が届かなかったわけではない。考え込んでいるため、耳に入っていないのだ。 横にいたひとりの鑑識が南刑事の肩をたたく。ようやく冷えて暗い底の黙考から浮かび戻り、南刑事は北原刑事と内藤刑事を見た。 どうだった? と、再び北原刑事が言った。 「それがですねえ……」 と、そばに来た南刑事は語尾を濁す。 「ん 見当が外れたか? 鑑識作業は済んだのだろう。どうだった?」 視線をずらし北原刑事は、鑑識――船田に尋ねる。すると、 「はい。とりあえず作業のほうは終わりました。絞殺の件ですが、それは……私から説明しましょうか?」 と、船田が南刑事を見ながら言った。 ああいいよ、と南刑事の言葉を受けて、船田が説明を始める――簡潔に結果ですが、現場の窓の外側に犯人が近づいた痕跡はありませんでした。南さんの読みでは、看守の目をかいくぐった外部犯が窓のすぐ外まで侵入し、あらかじめ何らかの方法で連絡を取り合っていた隣の囚人下澤の協力……夕食に鉄粉を混入して伊野を鉄中毒状態にさせるという協力の下、窓際に倒れている伊野の襟を釣り針のようなもので持ち上げ、ゆっくりと首を圧迫し、絞殺したというものです。この絞殺方法ならば、ただ襟を強く絞めてできたと見られていた首の痕の説明が付きます。ですが、犯人の近づいた痕跡が無い以上、この方法は行われなかったと考えます。 と、そこで北原刑事が「鑑識作業の内容を教えてくれ」と言った。 「窓の外の下側ですが、建物から1メートルほどコンクリートが地面に舗装されていて、その上に厚く砂とほこりがたまっていました。事件から今日まで雨は降っていませんし、特に風が強かったわけではありませんので、誰もそこに近づかなかったと見て間違いないと思います。看守に確認をとりましたが、普段そこは誰も立ち入らない場所だそうです。建物内部からいくには、二箇所のテンプルキーのドアを抜けなければいけません。そこはちょうど箱庭のようになっていて、外部から侵入する場合は3.8メートルの塀を越えなければいけません。窓の鉄格子ですが、指紋はありませんでした」 船田が答えた。 「コンクリのところ以外は、土か?」 「はい。丈が20センチほどの雑草が生えていました。そこでは足跡を探すことができませんでした」 そうか、と北原刑事は言って、しばし黙る。 「フェンス下の鑑識作業、終わりましたか?」 「ああ 掘り返しは人為的なものに間違いが無かった」 「そうですか……、それ……まさかとは思いますが脱走の跡ではありませんよね」 船田の意外な言葉を受けて、刑事らは目を丸くする。 まさかとは思いながらも、近くにいた警察官を呼び、確認に走らせた。 船田は鑑識係の主任で、その立場からいつも刑事らに対して積極的に意見する。待っている間、フェンスの所で片づけをする部下の鑑識に対して船田が二、三質問した。犬にしては掘り返しが深すぎて、また獣の毛が一切無かったことから人為的なものと判断したとの答えだった。 3分して警察官が戻って来て、「看守に確認を取ったところそのような事実は無いとのことでした」と報告した。 それを聞いて考え込む4人。 「侵入して、さてどうした」 北原刑事が言った。 「侵入したが、犯行を実行しなかったということも考えられますよ」 船田が言った。更に続ける。 「仮に南さんの推理どおり外部犯が現場隣の囚人と共謀して、鉄中毒による低血圧ショックそして絞殺という犯行を実行しようとしたが、何らかの原因で現場の窓の外まで侵入することができなくて、何もせずに引き上げたということも考えられます」 「そうだ、監視カメラには何も映っていなかったぞ。監視カメラを突破できなくて諦めたんじゃないのか?」 内藤刑事が言った。 それなんですが……、と南刑事は監視カメラのシステム上の欠点を説明した。 「なるほど……、では看守かメンテナンス会社の者も共犯ということになる」 「ちょっと待ってください、メンテナンス会社の人間が犯人ということも考えられます。しかも別件で。……これは専門分野に生きる人間のサガのようなものなのですが、自分の専門知識を確認したいという欲求に駆られることがあるのです。自分の設定した監視カメラのシステムを自分で突破してみたいという不謹慎な実験目的でただ単に侵入したとも考えられます。これならば、フェンス下に侵入の痕跡はあるが、現場窓の外に痕跡が無かったことに対して説明がつきます」 その線もあるか、と北原刑事はうなずく。そして、 「内藤、そっちはどうだ」 と、内藤の捜査内容を尋ねた。 まず内藤刑事は、特に誰かが侵入したような怪しい物音を聞かなかったが寝ているときは分からないという看護師の話を伝え、次に笑い声についての推察を述べた。 「ふむ、確かにそうだ。鉄中毒で苦しんでいる奴が笑い声を上げるのは不自然だ。下澤の笑い声と考えるのが自然だな」 北原刑事が言った。 「それともうひとつ緊急信号に関することなのですが、仮に侵入者が何らかの方法で伊野を殺害したとして、その侵入者が緊急信号を押す理由が見当たらない。南の言うとおりに監視カメラのシステム上の欠陥を利用してこっそり侵入したのなら、またこっそり出て行くことは可能のはずです。ですから、緊急信号を押したのは伊野本人に間違いが無いと思われますので、そうなると犯行の隙はなかったとなるでしょう」 内藤刑事の言葉に、南刑事が待ったを入れる。 「緊急信号から看守の到着まで、およそ2分はあった。その隙に窓際に倒れこんでいる伊野の首をそっと締め上げれば犯行は可能だ」 「2分で? 窓の外に足跡などの痕跡はなかった。そうなると、刑務所内から独房に侵入して実行したのか? 屋外の監視カメラは周期的だが屋内は違うから、不可能だ」 「いやまてよ、そうだ釣竿だ! 釣竿ならば、わざわざ窓に近づかなくても、伊野の襟に釣り針を引っ掛けて、首をそっと締め上げることができる。この方法ならば、窓の外すぐ近くに痕跡が無かった説明がつく」 「釣竿で? 見えないのにか? 絶対に無理だ」 「……鏡を使えばできる! 竿の先に鏡をつければいい」 「それでも無理じゃないのか? あまりに難しく、確実性が薄い。君が今回の事件は計画的可能性があるといったのに、当てはまらないぞ」 「しかし……」 内藤刑事と南刑事の舌戦。 ここで、ちょっと待て、と北原刑事が間に入り、 「一度 時系列を整理しよう」 と言った。 その言葉を受けて鑑識主任の船田が「そうしましょう」とすぐに言ったので、内藤刑事と南刑事も「わかりました、そうしましょう」と、昂った語気を静めた。 北原刑事が話し始める。 「まずはだな……笑い声か。10時50分ごろだな」 はい、と内藤刑事。 「10時50分ごろに笑い声を看守の坂本と寺川が耳にしたが、注意をしに独房に向かうことなく医務室へ向かう。この笑い声だが、内藤の言うとおり伊野の笑い声でなく下澤の笑い声だと考えるのが妥当だろう。この時点での伊野が生きていた証明にはならない」 下澤に確認をとって来ましょう、と南が急いたが、まて一度整理しようと、と北原刑事に止められた。 「医務室に着いた坂本と寺川は仮眠していた看護師の近藤を起こし、10分ほど談笑する。その時、近藤も扉の向こうの笑い声を聞いたが、これも下澤のものだろう。11時3分監視室で緊急信号が鳴り、そこに居た田所が坂本に無線で連絡をして、島崎が独房の監視カメラのロック解除を始める。坂本と寺川が独房へ向かう。11時4分50秒にカメラのロックが解除されるのとほぼ同時に坂本と寺川が独房の扉前に着く。そして、二人が扉を開けて中に入り、寺川が伊野の心停止を確認。彼は蘇生術に入り、坂本は近藤看護師を呼びにまたAEDをとりに行かせる。11時10分に看護師が到着し、蘇生処置を始めるが、すでに絶望的で、8分ほどで蘇生術を止めた。……この事実を軸に、犯行の時間的可能性を探すとするか」 しばし一同黙り、内藤刑事が口を開く。 「おそらく隙は無いでしょう、やはり下澤の犯行による鉄中毒死が一番の妥当です。それと北原さん、思い出したのですが、下澤の聴取のとき食事を入れる小窓に私の腕をつっこませたアレ、何だったのですか?」 「あれはなあ……、看守を疑ったものだ」 「看守を?」 「ここの刑務所では、夕方から夜間 班長が全ての鍵を持つことになっている。が、夕食の配膳時は別だ。配膳係が持つことになる。そのときに、何かしらの方法で伊野を“ゆっくり”殺す。その後 鍵は班長のもとに戻るが、扉の小窓だけは鍵を閉めずに開けておく。そして、監視カメラに自分の姿が映らないよう細工をしたうえで、11時3分に小窓から腕を突っ込んで緊急信号のボタンを押す……」 「ちょっと待ってください。なぜ緊急信号のボタンを押すのですか? 朝まで放っておけばいいのでは?」 「ふむ。朝まで放っておいてもかまわないと思うのだが、仮に何らかの仕掛けでもって伊野を殺したとしたら、その仕掛けを回収しなければいけない。朝の起床時間の前に夜間当番と朝当番の引継ぎが行われるので、夜間当番の看守が犯人の場合、起床時に伊野の死体を発見して扉を開けて仕掛けを回収することは時間的に不可能。だから緊急信号ボタンを押して夜間のうちに回収する必要があった。小窓はごたごたの内に閉める。都合のいいことに看守班長の坂本は気を失い、鍵は監視室に保管された」 なるほど顔の内藤刑事。 「……それならば筋が通る。それで、下澤が自白したのに連行をしないで、応援を呼んだのですか。……配膳係の田所と……独房に入った坂本は失神したから……寺川か看護師が共犯ですか」 「あの時はその考えが浮かんだのだが、どうもその可能性は無い」 「なぜに?」 「監視カメラの映像だが、細工ができない。だったな南」 「はい。過去の……この刑務所と同じ監視システムを使ってる別の刑務所の案件での調書に書かれていたことなのですが、映像はハードディスクに記録されて、同時にタイムコードという暗号化された時間軸信号も記録されます。このタイムコードは厳重にパスワード管理されていて、メンテナンス会社の職員しか扱うことができない。ただ、履歴だけは見ることができるので確認したところ、特に疑わしい点はありませんでした」 「そうか……裏取りは?」 「まだです」 しばし相談の結果、まず監視カメラのメンテナンス会社に裏取りをすることが決まった。 「緊急信号のボタンですが、いちおうチェックしたほうがいいですね、仕掛けがないかどうか」 船田が言った。 それも行うことになった。 「侵入痕跡のほうですが、メンテナンス会社の職員を疑って捜査を始めますか?」 「そうだな……、やろう」 それも決まった。 「侵入は別件の可能性を疑い、伊野殺害の件は下澤の犯行と……でいくか」 北原刑事の言葉に、一同は妥当だと頷いた。 そして内藤刑事と鑑識らは緊急信号ボタンを調べに行き、北原刑事と南刑事はゆっくりとした足取りで遅ればせながら下澤の緊急逮捕へ向かった。 プルルルルル 途中、北原刑事の携帯が鳴った。 そして、榎本月子が伊野を殺害したとして出頭中であることが伝えられた。 その瞬間、北原刑事の眉は芋虫が蠢いたかのように歪み、例の“熱”が出てきて顔が赤らむ。が、すぐに落ち着きを取り戻し、刑事としての思考を取り戻す――どのような徒労からでも立ち直るという思考を。 彼らの現時点の思考では及ばなかった事実はすぐさま他の刑事らにも伝えられ、南刑事は「俺は能無しか」と自身に対して悪態する。 しかし、こうなっては休む暇も無い。 すでに日は暮れ始めていたが、彼らは次の捜査を始めてゆく。 [12〆]
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