商業施設が多い街中、信号も車も多い道。停車するたびに婦人警官の松野は派手派手しい店の中に目をやり、制服姿の学生がいないか確認をしている。ミニパトで婦人警官が2人、ある場所に向かっている。 その場所は榎本月子の部屋のあるアパート。 彼女ら二人は生活安全課の婦警で、刑事課の“曖昧”な要請を受けて、榎本月子の所在確認と簡単な事情聴取のために車を走らせている。 「先輩、刑事課の仕事もたくさんくるのですか?」 運転をするもう一人の婦人警官の千村が尋ねた。彼女は生活安全課に配属一年目で、松野とはパートナーを組み指導も受けている。 「たまにね」 助手席の松野は横を見ながら答えた。 「刑事課からの電話なんですが、いつもあんな感じなのですか? 「適当な理由をつけて、署に連れてこい」なんて、なんの手続きもない。手配されているのかどうかも分かりませんでしたし、書類上大丈夫なのでしょうか?」 「あそこは変なのもいるから。けど、検挙率は悪くないのよね。書類は後でどうにでもなるから、協力はするの」 「そうなんですか……」 千村は少しやるせない気分になった。 あっ、と松野は小さく声を放ち、ポケットから手帳を出して書き込みをする。 「何かありましたか? 停めましょうか?」 千村が聞いた。 「いい。中央高校のあの娘がね、お買い物……と」 「ああ、水谷新香ですか。先週補導しましたね」 「ああいうサボり癖のある娘には、いつも陰から見られているということを教えたほうがいいの。次に補導したときにまとめてね、注意するの。見つけるたびに補導を繰り返したら、向こうも慣れてしまって、見つからなければ何をしてもいいって感覚になってくから、補導の間隔も大事」 「なるほど」 松野は手帳をしまう。 窓の外の街並みに民家が混じりだす。 「彼女のファイルは読んだ?」 松野が千村に尋ねた。 「さっとだけ。婦女暴行の被害者とだけ見ました」 答えながら千村はカーナビを確認する。もうすぐ目的の場所に着く。 「その犯人が刑務所内で死亡したの、何日か前にね」 「え? じゃあこの連れて来いというのは、まさか殺人としての連行ですか?」 その問いに松野はちょっと苦笑し、 「どうだかね、生活安全課の私たちが使いに送られるくらいだから、せいぜい関係者でしょうね。もしくは、ただの必要のない確認。そんなとこでしょ。それに殺人事件だって言ってた?」 と、言った。 「そこのところは何も」 「それなら、確認作業かな。……んと、婦女暴行の被害者と面会したことは何回ぐらい?」 「まだ3回です」 「くれぐれも言葉の扱いは慎重に、表面上立ち直っていたとしても、ちょっとしたことで傷心状態に戻ることがあるから。警官の私たちが尋ねるだけで、思い出してストレスになることもあるから、やさしくね」 「はい」 ミニパトが停車した。 二人が降りると、どくだみの強いにおいが鼻を抜けた。アパートの入り口のプランターに群生している。それを手入れするおばあさんがいた。軽く会釈をして横を通り抜けようとすると、 「何か御用でしょうか?」 とおばあさんが声をかけてきた。 そこで松野が「管理人さんですか」と問うと、「そうです」と返事が返ってきた。松野は警察手帳を見せ、榎本月子にちょっとした用があるとだけ伝えた。すると、おばあさんの顔に明らかな不安をみてとれた。松野はそのことに気づき、プランターの前にしゃがみこむ。千村は先輩の行動に不思議し、ただ控える。 「どくだみですね。痴漢避けで植えているのですか?」 松野が言った。 どくだみが痴漢避け? と千村は首をひねる。 「ええ。月子ちゃんに少しでも安心してもらおうと思ってさ、知り合いの家から貰ってきたのさ」 おばあさんは言った。 「彼女の事件の担当は倉田でしたね。その人のアドバイスで?」 「ええ。痴漢をする人はにおいに敏感で、どくだみの強いにおいに気持ちが減退するからいいとかで、眉唾だけど、まあねえ、効果本当かい?」 「科学的根拠があるわけではありませんが、私たちが考えた方法です。ライトの設置や玄関の施錠は基本的防犯ですが、押し込み型の犯人は訪問業者を装って一般の防犯を堂々と突破してきますから、それで考えた方法なんです」 おばあさんはうなずく。 松野は話を続ける。 「憎らしい痴漢も、四六時中おかしいわけではなくて、そういう気分の時があって行動をするので、その気分を静めさせるための予防策です。ところで、榎本月子さんの最近の様子はいかがですか?」 「月子ちゃんねえ……」 おばあさんの顔が曇る。 「……数日前から、急に派手な服装になってね、何かあったのか心配でね、気持ちが吹っ切れたのならいいけど、急にだからさ……」 そうですか、と松野は立ち上がる。 「あの事件の後から、ずっと地味な服装しかしてこなかったのに、……もしかして、警察のお世話になるようなことをしたのかい?」 松野は黙る。数秒してから口を開き、 「先月28日に、彼女の加害者の伊野が死亡したのはご存知ですか?」 と言った。 それを聞いておばあさんは、 「えっ? 死んだのかい? そうかそうか、それで彼女の様子が変わったのか。よかった、よかった。そういうわけだったのかい。心配していたんだよ」 はあ〜、と長いため息を吐き、おばあさんは笑った。 「けど新聞には何も出てなかったような気がしたけどね、なあ?」 「事件扱いではなかったので、ですが、おくやみ欄には載っていました」 「そうかい、そこは見逃したな。月子ちゃんはそれを見て、気持ちの区切りが付いたんだろうね。よかった。……けど、事件じゃないのに、どうして訪ねてきたんだい?」 「警察の仕事にはいろいろと確認作業がありまして、事故死や病死でもいろいろとすることがあるのです。その一環です」 松野の言葉に、そうかい、と再度おばあさんは笑った。 しばし談笑し、松野がおばあさんの心優しい気遣いをほめた後、婦警のふたりはアパートの2階へ向かう。途中、どくだみの効果について千村が尋ねると、大きな効果は期待できないけど婦女暴行には事後処置ではなくて徹底した事前処置を心がけなければいけないからこういった努力も必要、と松野が答えた。 アパートの2階203号室前、表札はない。 ――この部屋の中で榎本月子は被害者となった。電気設備工事者を装った伊野が押し入り、卑劣な罪を犯した。こういった事件は明るみにならないことも多いが、彼女は違った。積極的に警察に協力し、被疑者逮捕に大きく貢献した。余罪も判明し、裁判で実刑が言い渡されたとき、傍聴席の彼女は歓喜の声を抑えようとはしなかった。 インターホンが鳴る。 中から返事があり、警察であることが告げられた。 1分ほどして、ドアが開いた。 開いた瞬間、爽やかなにおいが広がったが、千村はそのにおいが何なのかわからなかった。 「榎本月子さんですね」 「はい」 出てきた彼女は、胸元に可愛らしいギャザーのついたピンクのワンピースにスリムジーンズという服装をしていた。口紅もピンクで、マスカラが冴え、襟にかかる髪の毛先には浮かぶようなパーマがあてられていた。 「警察の方が来るのを待っていました」 不意に榎本が……。 「私は伊野を殺しました。出頭します」 思いもしなかった言葉に、松野と千村は言葉を失い、固まる。 そんな二人の様子を気にせず、榎本は玄関ドアの鍵を閉める。そして、婦警二人を背に歩き出す。 「榎本さん、……いま言ったことは本当ですか?」 松野の擦れた声。つまずいたように動き出して追う。 「はい、そうです」 振り返らずに榎本が答えた。 遅れて千村が追従する。 カコンカコンとスチールの階段を下る音。 その音にアパートの入り口にいる管理人のおばあさんが顔を向ける。 おばあさんは見る――悠然と揺るぎ無い微笑で階段を下る榎本月子を。 「今日もいい天気やねえ」 おばあさんは陽気に声をかけた。 「ええ、いいお天気ですね。どくだみ 大きくなりましたね。私なんかのために、ありがとうございます」 「こんなことしかできないからねえ。うんうん、女の子らしい服装が似合ってるさ。これからは、気持ちを明るくしていこうな」 おばあさんは嬉しそうに微笑んだ。――知らないのだ、榎本月子が出頭するということを。 階段をおりきり、榎本はおばあさんに近づく。 ふたりの婦警は、早足で階段を下ってくる。 やおら榎本はおばあさんに深々と頭を下げて、これまで世話になったことの礼を述べ、自分は伊野を殺したので警察に行かなければならないことを告げ、賃貸料と部屋の荷物の引き取りは友人に頼んであると伝えた。そつのない言葉だった。 おばあさんは一瞬驚いた表情を浮かべたが、「満足かい?」と尋ねると、榎本が「満足です」と答えたので、赤い目の笑顔で「がんばったね」と言った。 その様子を松野と千村は黙って見守っていた。榎本月子と管理人のおばあさんは彼女の事件の後から長い間 心の痛みを分かち合ってきたのだろう。きっと、犯人を殺したいという感情も分かち合ってきたのだろう。言葉が少なくとも、互いの気持ちが伝わっている。 「千村、課長と刑事課に連絡。出頭に付き添うと」 松野が千村を動かす。 「あ はい」 千村は返事をして、携帯を取り出す。 ミニパトに乗るよう榎本に松野がそっと促す。 千村の署との通話が終わると、おばあさんに見送られて榎本はミニパトに乗り込み、すぐに発進した。 千村が運転をし、後部座席に松野と榎本が座る。 しばらく車内は無言だったが、松野が話し出す、ゆっくりと。 「榎本さん、……あなたは悪いことをしたようですね。これから、刑事課で取調べを受けることになりますが、……生活安全課の婦警を常に同行させるようにします。希望すれば、あなたの事件を担当した倉田をつけます。何も知らない婦警ををつけるよりも、そのほうが安心するでしょう。……まだ、心の傷が癒えていないようです。……痴漢避けに教えた、男性用のシェービングフォームを体に塗っていますね。……まだ怖いのですね。……刑事課は男ばかりですが、安心してください」 この言葉に、今まで仏面のような超越した微笑をしていた榎本の表情が崩れ、膝に顔をうずめて大声で泣き始めた。 爽やかだと思ったにおいは、実は痛ましいほど哀しいにおいだったのだと、厄介な憂鬱な感情の中で千村は悟った。 [11〆]
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