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作品名:独房の笑い声 作者:若野 斜羽

第10回   笑い声
 刑務所の医務室で笑い声がする。
 「……そいつはいい。刑務所の中ではヤクザの若頭だと威張っていた男が、実はただの違法路上販売者だったなんてね。その男、さぞ恥ずかしかったでしょうね」
 「向こうもね、最初は気づかなかったんだ。まさか、出所してあたしに会うなんて思わないし、帽子かぶって下向いていたからね。気に入った偽ジャネル時計があったからお金を払おうとしたときに目が合ってね、げっ、て言ったよ。げっ、ね。それで、問いただしてみると、相手暴力団の幹部を病院送りにして刑務所に入ったんじゃなくて、コソドロだって」
 「ははは、コソドロですか」
 内藤刑事と看護師の話が弾んでいる。事情聴取の裏取りと再捜査のために医務室に来たのだが、暇をしていた看護師の笑い話に乗せられてしまっていた。しかし、捜査のことを忘れたわけではなく、うまく話を変えようとタイミングを伺っていたが、まあ楽しんでいた。そのまま20分ほど大げさに破顔した。
 「ところで近藤さん――」
 内藤刑事はようやく切り出す。看護師は近藤という。
 「――今回の事件の再捜査をしていまして、また少しお聞きしたいことがありましてねえ……」
 「なんだい再捜査って? 鉄中毒で決着したんじゃなかったのかい?」
 近藤看護師が言った。
 殺人事件としての捜査が始まったことはすでに看守らに伝わっていたが、この看護師のもとには届いていなかったようだ。
 そこで内藤刑事はふっと思い立ち、殺人捜査だと伝えないで聴取をすることにする。ひとつの傾向として、正義をないがしろにしてでも親しい身内をかばおうとするタイプの人間がいる。もしもこの看護師がそのタイプならば、犯人が刑務所職員だった場合に隠そうとする意識が働く。
 「いやあ ちょっとですね、榎本月子という女性のことで少し確認したいことがありましてね」
 内藤刑事がそう言うと、「彼女が犯人なのかい?」と近藤は聞き返してきた。
 看守の田所と同じ言葉の返し様。この刑務所の道徳意識が疑われる、と内藤刑事は思った。
 が、今はそう思わせてもかまわない。捜査の目が外部の者に向けられているとわかれば、身内の事を尋ねても関係がないことだと口が軽くなるはず。と、内藤刑事は思考を鋭くさせる。
 「いえいえ。彼女が犯人というわけではありませんが、近藤さん、彼女をご存知で?」
 「噂になっていたからね。犯人に会いに来る被害者がいるって。彼女の……復讐かい? 思っても見なかったね。あれかい? 差し入れに毒でも盛ったのか」
 差し入れに毒か……たばこ……一応調べよう、と内藤刑事は考えたが、内藤刑事の考える犯人像は別。榎本月子の動機は十分だろうが、外部の人間が刑務所内に侵入して犯行を行うなど不可能に等しい。犯人がいるとすれば内部の人間。それに今行っている捜査は、北原刑事の覚えた違和感から始まっているもので、犯行を自白した下澤以外に真犯人がいるかもしれないという想像を追っているに過ぎない。絞殺の線でも捜査されているが、やはり死因は鉄中毒によるショック死で、それを故意的に引き起こした下澤が犯人だと考えるのが妥当だろう。
 「いえいえ、死亡事件の捜査の一環として、念のために動機がありそうな人物を調べているだけですが……まあ、無理でしょう、差し入れた物も検査されますし、当直の看守がいる刑務所に侵入は難しいでしょうし」
 笑顔を作りながら内藤刑事は言った。
 「そうかあ。けど、ここの看守さんらはのんびりした人たちが多いから、隙をついて侵入できるかもしれないよ、刑事さん」
 「ははは、そうなのですか。じゃあ少し確認しますが、事件当夜、近藤さんは10時ごろからうたた寝をしていたようですね。そして11時少し前に看守の坂本さんと寺川さんが医務室に来て、あなたを起こしたと」
 そうそう、と近藤看護師はうなずく。
 「起きてから坂本さんと世間話をされたそうですが、そのときなにか不審な物音でも聞きましたか?」
 「どうだかねえ……、ここから独房棟まではすぐ近くだけど、話をしているときに……、いや、確か……、笑い声が聞こえたかね」
 「笑い声ですか……、それは伊野の笑い声ですね」
 「どうだかねえ。誰の声かなんてわからないよ。扉越しだから」
 「坂本さんと寺川さんの証言では、伊野の笑い声だそうです。ここ数ヶ月の間に何度か「就寝時間に笑うな」と注意したことがあったそうですから」
 「はーん、そうかい。じゃあ、侵入者がいたとしたら、ほんの数分の間にやったんだね。笑っている間は伊野が生きてたってことだから。ずいぶんすばしっこい犯人だ。けど、どうやったんだい? 独房に侵入して、鉄分のサプリメントでも強引に嚥下させたのかね? だとしても、すぐに腸で吸収されるわけじゃないから、違うね」
 楽しそうな目をする近藤看護師。やはり医療に携わる人間なので、鉄中毒についての知識を持っている。
 「想像力豊かですね。名刑事になれますよ。しかしまあ、やはり侵入して犯行をするのは無理のようですね。不振な物音もなかったようですし、侵入者はいなかったのですよ」
 内藤刑事は言った。
 そして、礼を言って立ち上がろうとしたそのとき、
 「ちょっとまって、その笑い声が別人なら犯行は可能よ。あたしが寝ている隙にこっそり独房に侵入して、犯っちゃえたんじゃない?」
と、近藤看護師が内藤刑事を呼び止めた。
 ……別人?
 「別人じゃなくても、テープでもいいんじゃない? あ でもテープじゃ音が変か。とにかく、その笑い声を別物にすれば、あたしの寝ていた10時から11時前までの約一時間、犯行可能時間があったわけで、十分すぎるわね。あとは殺害方法だけど、……死因は鉄中毒だけど、実は発見不可能な新種の殺人ウィルス感染で死んだとか。生物兵器か何かを使ったのよ」
 「はは……、そいつは前衛的だ」
 近藤看護師の「生物兵器」という言葉に、内藤刑事は苦笑した。
 「殺害方法はとりあえず置いといて、犯人の榎本月子は逮捕したの?」
 近藤看護師の先走りは止まらない。
 「彼女が犯人だと決まったわけじゃあありませんよ。おっと、大事な確認を忘れていましたが、事件当日、榎本月子を見かけましたか?」
 「いや全然。その日は夜勤だから、もし見かけたとしたら面会時間外の侵入者ということになるよ」
 「ははは、そうですよね。まだ本人に確認を取っていませんが、彼女が犯人ということはないでしょう」
 「そうかい……、面白くないねえ」
 ここで内藤刑事は話を打ち切り、礼を言って医務室を後にした。

 廊下で立ち止まり、内藤刑事は手に持っていた捜査書類を読む。
 検死報告での伊野の死亡推定時刻は9時半から11時半……、看守らへの聞き取り捜査――11時前に伊野の笑い声がしたことと11時3分に緊急信号が鳴ったことから推定した死亡推定時刻は11時3分から10分以内。まず間違いないと考えていたが、笑い声が別人ならば……、ふっと先ほどの下澤の笑いを思い出す。
 伊野の苦しそうなうめき声を子守唄にするのが最高だった、と下澤は言っていた。
 ……苦しんでいる奴が笑い声を出すか?
 痛みを紛らわすために笑い声のような呼吸をすることはあるが、低血圧ショック状態で失神しそうになっている奴が笑うか?
 ……笑うはずがない。
 笑い声は……下澤か? その方が合致する。
 内藤刑事は捜査書類をめくる。
 看守の坂本と寺川の二人が笑い声を聞いたのは10時50分ごろ。緊急信号のボタンを押すまで13分。鉄中毒は症状がゆっくり表に出てくるものだと、医者の報告にあった。身体に影響の出る鉄分量の摂取後、つまり夕食後4時間後ぐらいから腹痛や嘔吐等の症状が表れ始め、場合によっては低血圧ショックで意識消失に至る。ただ、症状の現れる時間は人それぞれの胃腸消化具合の違いからバラバラで、2時間後に出る人もいれば6時間後に出る人もいるとあった。伊野が夕食をとったのは6時ごろとされるので、10時50分は4時間50分後、すでに腹痛や嘔吐等の症状が現れていたと考えてもおかしくない。そのときはまだ我慢していたのだろうが、耐え切れなくなって11時3分に緊急信号ボタンを押した。10時50分ごろには笑う余裕などなかったと考えるほうが妥当。
 ……見落としていたな。
 内藤刑事はひとり顔をしかめる。
 ……他に犯人が?
 それはない、と独り言を内藤刑事がため息のごとく。
 刑務所に侵入するのは困難。監視カメラに映らずに錠前破りをするのは難しい。外部犯の可能性は低い。鍵を持つ看守ならば侵入する手段をもっているが、緊急信号が鳴ったとき、看守の坂本と寺川は医務室に、田所と島崎は監視室にいた。このことは映像記録でも確認してある。
 内藤刑事は考えながら歩く。
 仮に外部犯がいたとして、伊野の独房に侵入して、南の言う絞殺を行ったとして、緊急信号ボタンを押すのは不自然。こっそり侵入できたのならば、またこっそり出てゆくはず。やはり、鉄中毒で苦しみに耐え切れず緊急信号を伊野本人が押したと考えるのが自然。笑い声が下澤のものだったというだけで、他に疑わしい点は浮かんでこない。伊野の死因は鉄中毒によるショック死。その死因を引き起こしたのは隣の下澤。やはり自白どおり奴が犯人だ。
 受付前に内藤刑事が着く。そして、受付の中にいた事務員に、
 「刑事の北原さんがどこにいるか知っていますか?」
と、尋ねた。
 「えと、年配の刑事さんのことでしょうか?」
 「はい」
 「それでしたら、刑務所外の裏手にいると思います。先ほど警察官の方がこられまして、なにやらその刑事さんと一緒に土の捜査をするから正門を開けて欲しい、と急いだ様子で、それからまたパトカーが来て人が来て、何かをしているようで、何をしているのでしょうか?」
 内藤刑事の知らないところで何かが始まっていた。
 事務員の不安な視線を他所に内藤刑事は、
 「捜査中ですので」
と、さっと言い捨て、裏手へ向かった。
[10〆]


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