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作品名:独房の笑い声 作者:若野 斜羽

第1回   囚人の死
 四方1kmに民家は無く、背の低くまばらな林が広がる。環境保全を名目に無償労働で植えられたもので、その労働者は今みなが寝ている。夜空に月は無いのに明るく、夜行性小動物の影が地を這う。砂利を踏み歩く音がする。濃紺の制服を着た男がふたり歩いている。彼らの影がくっきりと形を成している。その光源は街灯などではなく、夜間監視のための明かりだ。鉄格子の窓を白く照らし出している。ここは僻地の刑務所。犯罪者が収容されている場所。
 定時の屋外見回りを終えた二人の看守が監視室に戻ってきた。
 「坂本班長、異常ありませんでした」
 戻ってきた一人の田所が報告をした。
 「ごくろうさま。今日もリスはいたか?」
 坂本班長は監視モニターから振り返り、笑顔で尋ねた。
 「ええ それらしいのがいましたね。でもリスですかね? 私は野ねずみじゃないかと思いますが」
 「野ねずみにしては尻尾が長かったよ。イタチじゃないでしょうか?」
 もう一人の看守の島崎が言った。
 「イタチか。そうかもしれんな」
 そう言って坂本班長はモニターに向き直る。
 「もし班長の許しをいただければ、サーチライトで追跡しますが」
 「馬鹿を言うもんじゃない。あれは脱獄者が出たときのための緊急用だ」
 「日本の刑務所システムでは脱獄は難しいですよ。たまにはサーチライトの試運転をしないと、錆びてしまいますよ」
 「そのシステムを保つために我々が厳粛な態度を取らなければいけない。まあ、私もサーチライトは使ってみたいと思っているがな。あれは訓練のとき以外一度も使ったことが無い。映画のようにやってみたいものだ」
 笑いが起こり、「班長が一番不謹慎じゃないですか」と田所が言った。
 この監視室にはもう一人 寺川という青年看守がいる。彼は無口で、同僚の談笑には微笑で応じるタイプだ。
 「さて寺川君。所内の見回りに行こうか」
 時計は夜の十時半を指している。
 「はい 坂本班長」
 返事をして寺川がモニター席から立ち上がる。
 坂本班長も席から立ち上がり、代わりに田所と島崎がモニター席に座った
 「ついでに眠り姫の様子を見てくるよ」
 班長はふざけて言った。
 通常、夜間の所内には四人の看守と囚人のほかに一人の看護師がいる。今日の当番は六十をすんだ女性で、しょっちゅう仮眠をとっているので、看守らからは“眠り姫”と皮肉られている。
 「班長、目覚めのキスはほどほどに」
 田所のふざけた諌言(かんげん)を背に、坂本班長と寺川は監視室から出た。

 坂本班長と寺川は、まず囚人房エリアとは反対の囚人作業場、室内運動場、鑑賞談話室と周り、囚人房エリアへ向かう。そこにつながる廊下の前に二重の電子オートロックドアがあり、坂本班長は天井の監視モニターにさっと敬礼をした。
 モニター室で田所と島崎がそれを確認した。時間は10時50分。
 そのとき、囚人房の方からいかにも憎たらしい低い笑い声が聞こえてきた。
 「また あいつか」
 坂本班長はため息混じりに言った。
 彼の言う“あいつ”とは『128独房』の伊野幸雄のことで、性格的に問題があり共同生活に不適当のため強制的に独房に入れられている。この刑務所には独房の他に四人房がある。通常は四人房に入るが、禁固刑や比較的刑の軽い初犯、精神や性格に問題ありの人物は独房に入れられる。
 「伊野ですね」
 寺川は小さく言った。
 「あいつは本当に困るな。いちいち注意するのが面倒だよ。まあいい。先に医務室に寄ろう」
 「はい」
 二人は医務室へ向かう。
 医務室はオートロックドアから10メートルほど進んだ先にあり、二人がドアを開けてカーテンを開けると、案の定ソファーで“眠り姫”が寝息を立てていた。
 「近藤さん。起きてください。仮眠の時間はまだですよ」
 坂本班長がそう声をかけると、
 「なんだい? 病人かえ?」
と、目をつぶったまま近藤看護師は言った。
 「病人じゃあありませんが、仮眠は11時半からですよ」
 「別にいいじゃあないか。こっちは7時からぐるり回って8時までの13時間勤務なんだよ、好きなときに寝させえ」
 「いちおうモニターに記録されているので、規定どおりの職務を果たしてください。私が所長から怒られてしまいます」
 ここでようやく近藤看護師はまぶたを開いた。やおら起き上がり、すばやく首を動かして音を鳴らした。
 「なんだ もうすぐ11時じゃないか。30分くらい早くてもどうってことない」
 腕時計を見て近藤看護師は言った。
 「モニターで見ていましたよ 近藤さん。もう1時間は寝ている。駄目ですよ」
 坂本班長は少しきつく言ったのだが、言った本人は厳しい気持ちで注意したものではなかった。夜の刑務所は暇ですることが無い。寝ていてもさほど問題ないと思っている。ただ、きまりどおりに注意しただけだ。
 「頼むからこの部屋にもテレビとビデオを置いておくれ。暇でしょうがない」
 「まあ所長に報告だけはしておきますよ」
 そう言って坂本班長は去ろうとしたが、近藤看護師が引き止めるので、つまらない世間話を始める。寺川はそばでそっと座っている。
 10分ぐらい世間話をした頃に、突然 監視室から坂本班長の無線機にコールが入る。
 (坂本班長 応答してください。坂本班長 応答してください)
 意図しなかった無線機のコールに坂本班長は少しびくりとして、慌てた様子で無線機を手に取った。
 「どうした? 何かあったか?」
 (緊急信号です。繰り返します緊急信号です)
 「緊急信号 了解。緊急信号 了解。報告どうぞ」
 (128号 伊野幸雄。128号 伊野幸雄から緊急信号です)
 「伊野か。音声回線は開いたか!」
 (音声回線開いたが囚人から応答無し。応答無し。ただいま個室モニターロック解除中。モニターロック解除中。念のため、現場確認をしてください。繰り返します、念のため現場確認をしてください)
 「報告了解。報告了解。現場確認に向かいます。現場確認に向かいます」
 無線を切った坂本班長は素早く寺川に報告内容を説明して、現場へ駆け出す。その様子を見て近藤看護師が「私もいきましょうか?」と尋ねたが、「なあに いつものいたずらでしょうよ」と坂本班長が制したので、彼女は医務室にとどまった。
 坂本班長と寺川は二重の電子オートロックを手早く解除して、目的の独房へ向かって廊下を走った。走ってはいるが、あまり急いだ様子ではない。ジョギング程度の速さで走っている。いたずらだと踏んでいるのだろう。追従する寺川も慌てていない。
 128独房の前に着いたとき、また無線機がコールする。
 (報告します。モニターに囚人のすがた無し。モニターに囚人のすがた無し)
 それを聞いた坂本班長は、ドアののぞき窓からミニライトで室内を照らし出す。右側のベッドに伊野の姿は無かった。次に部屋の奥側の鉄格子窓の下のほうを照らすと、人間の素足が浮かび上がった。
 (坂本班長。モニターに囚人のすがた無し。モニターに囚人のすがた無し。現場に到着しましたか? どうぞ)
 「こちら現場前に到着。囚人はモニター死角の窓側にへばりついている。囚人はモニター死角の窓側にへばりついている。今からドアの施錠を外し、部屋に入る。どうぞ」
 (了解。十分に気をつけてください。モニターを続けます)
 坂本班長は、寺川に警棒の準備を命令した。
 寺川は神妙にうなずく。
 「どうせこの前と一緒だ。緊急信号ボタンを押して、俺たちを困らせようって遊びさ。モニターの死角に隠れるなんて、頭の悪いあいつにしては工夫しているじゃないか。さあ、緊張せず、冷静に、厳粛に対応しよう」
 そう言った坂本班長は寺川の装備と顔色の確認をして、施錠を外し、のぞき窓から室内を注視しながらドアをゆっくり開ける。囚人の伊野が飛び掛ってくる様子は無く、一切動かないでいる。
 「伊野ォ! おふざけはここまでだ! おとなしくしないと、6時間の拘束具装着を命じるぞ。いいか 動くなよ」
 坂本班長はドアを開け、室内に侵入した。その後ろに寺川が続く。そして、ミニライトで伊野の顔を捜す……と伊野は寝ているのか目をつぶって動かない。
 監視室の二人は、まあいつもどおり大丈夫だろう――という気持ちで画面に移る坂本班長と寺川を見つめていた。
 しかし、事態は緊急マニュアルに記載されている『非常事態3−C』だった。3−Cとは「独房内における囚人の病気や事故及び自殺行為等のための危篤状態もしくは死亡状態」である。
 坂本班長は伊野の肩をゆする。
 が、枯渇した草のように首がしおれている。
 そこで寺川が坂本班長の横を抜けて、伊野の頚動脈を触り、
 「脈がありません」
と、すばやく言った。
 その言葉を聞いてようやく坂本班長は“本当の緊急事態”だと気づき、すぐさま監視室に無線をする。
 「報告する。囚人は心肺停止。囚人は心肺停止。看護師の現場出向と医師の現場出向を要請。看護師をよこせ!」
 このような緊急事態は、心の隅のほうでしか思っていなかった。
 監視室の田所と島崎は一瞬目を合わせて動揺したが、すぐに訓練マニュアルが頭の中を走り、田所は医務室の看護師に直通電話をかけ、島崎は提携病院に医師出向を要請するために電話をする。
 坂本班長が無線連絡をしながら伊野の様子を見る。すでに伊野は水平に寝かされ、寺川が背を丸めて人工呼吸を試みている。
 「坂本班長 AEDを持ってきてください」
 寺川が厳しい声で言った。
 AEDとは心肺停止時に電気ショックを与えて蘇生を試みる装置のことで、この刑務所では医務室に置かれている。
 坂本班長はその旨を監視室に連絡しようかと思ったが、自分が医務室に取りに行ったほうが速いと判断して、現場を寺川にまかせて駆ける。
 坂本班長が電子オートロックのドアまで着いたとき、ちょうどドアの向こうに近藤看護師がいて、開錠しようとしているところだった。
 「近藤さん AEDはもっていますか?」
 「いや、もっていない」
 「AEDが必要です。持ってきてください」
 「わかった」
 近藤看護師は開錠を中断し、医務室へ戻った。
 伊野の様子が気になり、坂本班長は現場へ戻った。彼が現場に戻ると、已然寺川が人工呼吸を続けていた。
 「伊野はどうだ?」
 坂本班長が寺川の後ろから声をかけた。
 「変わりません。呼吸も脈もありません」
 背を丸めたままで寺川が答えた。
 (報告します。医師の到着は15分後。医師の到着は15分後になります。現場の状況を報告してください)
 監視室から無線が入った。
 「こちら現場、囚人は変わらず心肺停止。囚人は心肺停止」
 (看護師は到着しましたか?)
 「まだだ」
 坂本班長は独房から出て廊下を見るが、近藤看護師の姿は無い。
 「くそっ、ご老体が」
 坂本班長は、自分が医務室にAEDを取りに行き、看護師を現場に急行させればよかったと悔やんだ。彼は自分を蔑みながら、近藤看護師の到着を待つ。
 伊野の脈拍停止を確認してから、もう3分が過ぎている。
 やっと廊下の先に彼女の姿が見える。
 坂本班長は駆け寄り、AEDを受けとり、彼女を急がせる。
 ようやく近藤看護師が現場に到着した。
 坂本班長はすぐにAEDの準備を始める。
 近藤看護師が寺川の背をたたき、代わるように言った。
 寺川は後ろに下がり、近藤看護師が伊野のバイタルサインを確認する。彼女は眉をしかめた。
 「心停止から何分?」
 近藤看護師が尋ねた。
 「5分ほどかと」
 寺川が答えた
 「AED!」
 坂本班長が手伝い、伊野の胸とわき腹にシートが張られる。
 「離れて!」
 伊野の体が跳ねる。
 会話が止まる。
 誰もが無言だ。
 鉄格子の向こうから監視灯が射し込む。その光が白黒の縦じまの線を成し、対象の形を断続的に曖昧にする。現実的な明るさに乏しく、古い記録映画のように希薄。
 伊野の体が何度か跳ねる。
 その様子を見つめる坂本班長の目は虚ろで、徐々に現実感を失っている。彼の思考は現在から遠のいて、数日後まで飛んでいた。そこで彼は伊野の死の責任を取らされ、マスコミに晒され、愛する妻子が自殺して、老いた両親と心中した。
 近藤看護師と寺川が言葉を交わしているが、坂本班長の耳には入らない。
 やがて医師が到着し、伊野の死亡確認がされた。
[1〆]


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