猫になったみたいに、男は屋根の上を次々に飛び移る。工場を抜け出してから、男は民家の屋根の上を飛び移り、郊外に向かっているようだった。少年は、ただ男にしがみついていた。やがてスラム街を抜ける。 「ここまでくればいいだろう」男はそう言って、少年を背から下ろした。少年は目を開ける。辺りはいつの間にか薄暗くなっていた。そこは見覚えのない場所で、どこかの駐車場のようだった。少年は、あまりのことがあったせいで、放心状態だった。男がここは昨日泊まったスラム街の外れにあるホテルがあるところよりも、もっとスラム街から離れたところにある駐車場だと言ったのが、遠くから聞こえた。 「よく頑張ったな」男はそう言って少年の前にしゃがみ、少年の頭を撫でた。 「ありがとう」 「うん?」 少年は、頭がぼうっとしてうまく考えられないながらも、頭の片隅で言いたいと思っていたことを口にした。 「ありがとう、助けてくれて」 「お前が賢いのと…勇気を持って行動したからだよ」男はそう言うと少年の手を取り、優しく握った。 あの時お前が俺を呼び止めなかったら、俺はあのまま立ち去っていただろう。けれどあの時、なぜかは分からないが、俺は歩を止めてほっとしていたんだ。ほっとしたのは、お前だけではなかったんだよ。男は少年にそう言った。少年が男にもたれかかると、男は震える少年の肩の上に手を置いた。 そのうち一台の車が二人の所へやって来る。青いオープンカーだ。男の視線がそちらに向く。 「よう、シオ」車を運転している青年が、声をかけてくる。「迎えに来た」 「あぁ」 「何だ?その子供…」青年は少年を見ると顔をしかめる。 男は少年を放し、立ち上がる。 「戻る前に、寄って欲しいところがある」 「もしかして、そのガキ、ターゲットじゃなかったか?」青年のターゲットという言葉に少年が振り返る。青年が目を見開く。確かに写真で見た少年の顔だった。ここから東にある大都市に住む金持ちの息子で、今回の誘拐のターゲットの顔写真だ。その写真には、暗いこげ茶色の髪と深い緑色の瞳、さほど高くない鼻はこの地域の住人と変わらないが、金持ち特有の品の良い笑みを浮かべ、真面目で優しそうな雰囲気を持っている少年の顔が写っていた。 「オイ、どういうことだよ?まさか、あんた失敗したんじゃ…」青年が言いかけると、男は持っていたカバンを彼の目の前に差し出す。青年が顔をしかめる。 「あんた…」 「報酬の金だ、しくじっちゃいない。こいつを連れて行けよ、新しいクライアントだ」男はそう言うと、カバンを青年の座るシートの隣に放り込む。そして新しいクライアントである少年の手を引き、助手席に座らせる。青年はますます顔をしかめるが、男はお構い無しだった。 「定員オーバーだよ」 「なら、歩いて帰るよ。お前は、こいつの家までの道、分かるな?」男は片目を細めて聞いた。 「歩いて帰れるわけがないだろう。クライアントって、何かの依頼を受けたのか?このガキを降ろすつもりはないのか?」 「ああ、こいつを家まで送り届けるという依頼を受けた」 男の返事を聞いて青年は舌打ちする。依頼を受けただって?上からそんな話しは聞いていない。それは男の勝手な判断だった。仕事の依頼とはみなされない。それなのに少年を連れて戻って来たのは男の気まぐれだ、気まぐれに付き合うのは好きではない。それに、少年を家に帰したりしては、あの誘拐を依頼してきた連中が後で文句を言って来るではないか。 青年は、隣に座る少年をちらりと見る。少年は下を向いていたが、青年の視線に気づき顔を上げる。不安そうな顔だ。しかし、このガキがどうなろうと、正直自分には関係ないと青年は思う。 「安心しろ。お前のことはちゃんと送り届けるから」男は青年を差し置いて少年に言う。 青年は男の方に向き直り、男を睨んだ。男は口元に笑みを浮かべている。 「まったく、あんたは…」青年はそう言うと、また舌打ちした。このガキがどうなろうと自分には関係ない、けれど、連れてきてしまったなら、放り出して行くよりもこのまま帰してやりたい気がした。青年はカバンを車から放り投げる。 「何をするんだよ」 「この金を貰いたくないね。誰かが拾うだろう」青年はシートに座り直し、少年をカバンの置いてあった場所に座らせ、何食わぬ顔でエンジンをかける。 「連中の依頼はキャンセルしたも同じだ。連中と後でもめるのはごめんだ、金を拾うなよ」 「お前、変わっているな。貰ってしまえばいいんだ。奴らの金など、どうせ汚い金だ。貰えばいいんだ」男はそう言いながら助手席に乗り込む。しかし、男はバッグを拾いに行く事はしなかった。 「これ以上は変な気を起こすなよ。厄介ごとはごめんだ」青年はそう言うと、車を発進させた。
眠っていたのだろうか。気づいたら、自分の家の、自分の部屋のベッドの上だった。 母さんも、父さんもいた。妹もいた。家族に囲まれていることに、今ひとつ現実味を感じなかった。母さんは泣いている。なぜだろう? きっと、少年が無事に帰って来たことが嬉しいのだろう。 そうか、僕は帰って来たんだ。 「もう大丈夫だ」 「うん…」 父の声。 「無事でよかったわ…」 母の声。 「お兄ちゃん」 そして、妹の声 無事だったんだ、僕は…。 少年は周りの人たちの声を聞きながら、また眠気に襲われる。 「シオ…」眠りに落ちる前、少年がつぶやく。 「シオ?」父が顔を近づけてきて聞き返す。 「いえ…、何でもありません」少年は、無意識のうちに口からにこぼれ出てきたその名を飲み込む。男の名前がシオという確証はないが、おそらく間違いないだろう。青いオープンカーに乗ってやってきた男の仲間の青年が、その名を口にした後、少年がいることに気づいて焦った顔をしたからだ。男の名を自分に聞かれて、焦ったのだろう。 少年は、男の名を言うのはもう少ししてからでいいと思った。男のことは、今はまだ言いたくなかった。 「8番街の西にある廃工場を捜査してください。そこに誘拐犯たちがいました」 そして誘拐の主犯のことを告げた。大勢で自分を待ち構え、取り囲んだやつら。やつらはまだあそこにいるような気がした。早く捕まえて欲しいのかもしれない。 父が少年の肩に手を置き何かを言っているようだが、よく聞こえなかった。母と妹の声も遠ざかって行った。 少年は夢の中に沈みかけながら、自分を誘拐した男を思い出す。 男は、自分のことをどうして帰してくれたんだろう。自分は金を払っていなかった。 男は誘拐が本業ではないと言っていたけれど、それも仕事の一部のようだった、そんなこと早く辞めてしまえばいいんだ。 彼は、無事だろうか? きっと彼は捕まらない。 もう二度と会うことはない誘拐犯を、彼といる間に起こったことを、少年は現実と夢の狭間で思い出していた。
|
|