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作品名:誘拐 作者:真山 

第3回   3. 脱出
 スラム街の奥にある廃棄された工場。男に連れられて、少年はそこに到着する。昼過ぎ頃だろうか。それまでの間少年は男とホテルにいた。何をしていたわけでもないが、二人で部屋にいた。そして時間が来ると、男は少年を連れてホテルを出て昨日のようにバスに乗り、その後歩いてここにたどり着いたのだった。その間二人は、何も言葉を交わさなかった。
 工場の中に入る。何もない工場、廃材だけが転がっている。
 男は、入り口のところに少年を立たせると、工場の中に入って行く。少年は男の後姿をじっと見つめている。
 男は奥にある脚が折れた木製の机の上に置いてあるカバンのところに行くと、それを手に取った。そして、少年を振り返る。
 なんだろう?
 男が少年のところに戻ってくる。
「これで俺の仕事は終わりだ」カバンをちょっと持ち上げて男が言う。
「それが報酬?」
「そうだ、これと引き換えに、お前がここに残る」男が言うと、少年はうつむいた。自分の左手首は鎖に繋がれ、その先は工場入り口の扉についている錠に繋がっている。
 男が少年の前に屈む。そして、少年のことを見つめた。
短い沈黙。男は少年に何も話しかけなかった。少年の脇をすり抜けると、来た道を引き返して行った。少年はうつむいたままだった。
男は一度立ち止まり、少年を振り返る。
「…じゃあな」それだけ言うと再び歩き出す。
少年が男を振り返ろうとしたとき、工場の奥から、人の足音が聞こえた。
誘拐犯だ。少年は緊張して、少しの間体が動かなくなる。
「やっと来たな」そのとき工場奥から声がした。少年は声の方に視線を向けた。そこには坊主頭の男が立っていた。そしてその坊主頭の後ろに、人影が集まってくるのが見えた。その数は次第に増えて行く。
少年は体が震え出した。
「君と会えるのを心待ちにしていた」坊主頭はそう言うと、少年の方に近づいて来る。
こっちへ来るな。
少年はそう言おうとしたが、恐怖のせいで声が出てこなかった。坊主頭が近づいて来る。少年は今度こそ後ろを、男を振り返ろうとしたが、振り返る前に坊主頭とその仲間に取り囲まれてしまった。坊主頭が、少年の前に立ちはだかる。少年は坊主頭を見上げた。彼は少年の三倍近く背があるように見えた。
「怖がることはない、仲良くしよう」
「いやだ、誰があんたなんかと仲良くするものか」
 そう言った瞬間、少年は男に腕を捕まれる。
「君は人質だ。だが、言うことを聞いていれば危害を加えたりはしない。約束する」
「離せ!」少年は叫び、男の手を振り切ろうともがき、手足をめちゃくちゃに動かして、坊主頭の腕を殴り、足を蹴る。しかし、男はびくともしない。男は少年の腕を持ち上げ、少年を宙吊りにする。
「離してよ」
「元気のいいガキだ」男はそう言うと、少年の頬をひっぱたいた。
「おい」そして、後ろにいる者を呼ぶ。「行くぞ」
 少年は焦る。逃げなくては。この男たちに捕まったら、おしまいだ。力の弱い自分では、きっと歯が立たない。逃げ出すことは出来ないだろう。
 そのとき坊主頭が少年の腕の鎖を外そうとする。少年は空いている方の拳に渾身の力を込め、坊主頭の顔面を殴りかかる。しかし、その手は坊主頭によって簡単に掴まれてしまった。
「なかなか威勢のいいガキだ。だが、いつまでもつか」
「離してよ、離して」
「忠告だ、大人しくしていろ」
「するものか」少年は、頬の痛みを感じながら、男たちに睨まれる恐怖に怯えながらもそう言った。けれど、体の震えは止まらない。自分は捕まってしまった。自分は、力でこの連中には勝てない。逃げ出すことも出来ない。もうおしまいだ、そう思った。
 助けて…。
 少年は心の中で、誰にというわけでもなく、そう言った。
 助けて、誰か…。
 少年は、後ろを振り返る。はるか遠くに、豆粒くらいの大きさになった、男の後姿があった。男は白い影となって、ゆらゆら揺れているように見える。
「待って…」少年は口の中でつぶやく。
「何だ?」
 聞こえるはずがない。近くにいる坊主頭でさえ、聞き返してきたくらいの小さな声だった。
「待って!」
 少年は拳を握り締め、今度はそこら辺中に聞こえるくらいの大きな声で叫んだ。
「僕も連れて行って」
 少年が二言目を叫んだとき、坊主頭も少年の視線の先を追って男を視界に捕らえたようで、その姿を見つけて坊主頭は顔をしかめる。男はこちらを振り返っていた。
「いいでしょう?そのお金と一緒に、僕も連れて行って。僕を屋敷に連れて行ってくれたらお金を払える」昨日の夜、ベッドに横たわりながら考えたことだ。
「誘拐の仕事はもう終わったんでしょう?それなら、今度は僕がクライアントになる」
 だから僕を家に帰してくれ。
「お前、何馬鹿なことを言っている」少年が言うと、坊主頭は低い声で笑った。子供の依頼など、あの男が聞くとは思わなかったのだろう。
しかし、男は立ち去らない。少年のことをじっと見つめている。
「仕事なら、あなたの首がとぶことはないでしょう。お願い、依頼を受けて」
 連中は少年の言葉に笑い声を上げて笑っていた。誘拐を手伝った男に、何を言っているんだ、そう言って笑った。
「お願い」
「泣くなよ」しばらく間があって、男は言った。
「泣いてないよ」しかし、少年の目からはポロリ、ポロリと涙が落ちて来ていた。少年は涙をぬぐう。
自分を誘拐した男に助けを求めるなど、悔しい。男は、自分を脅してばかりいた。嘘をついたら思い切り殴られた。
けれど、男はここへ来るのを一日伸ばしてくれた。火事に怯えたら手を握ってくれた。この連中と違って、大勢で自分を取り囲んで脅すような卑怯なことをしなかった。
行かないで…。
依頼を受けて欲しい。お金もちゃんと払うから。
「いいよ」すると男が言った。「その依頼、引き受けよう」
「何だと?」そう聞き返したのは坊主頭だった。
「僕を家に帰して」
「あぁ、引き受けよう」男はそう言うと少年の方に向き直る。その口元には笑みが浮かんでいた。
「あんた、裏切る気か!」
「俺は元々あんた達の仲間ではないよ。それに悪いが、聞いたとおり、俺はそいつの依頼を引き受けることにした。もう次の仕事だ」
「貴様…、出来るものならやってみろ!このガキを奪えるものならやってみろ」
 奴を捕まえろ!坊主頭が怒鳴る。二人を取り囲んでいる男たちの半数近くが、男に向かって走り出して行く。
 まずいことになった、少年はそう思う。駆け出した男たちは手に物騒な物を持っている。しかし、男はバッグを持ってつっ立っているだけだ。
「逃げて!」
 連中の先頭を走っている者が、男に飛びかかろうとした瞬間少年は思わず叫ぶ。男の頭めがけて刃物が振り下ろされる。少年は思わず目を瞑りそうになるが、そのとき、突然視界から男の姿が消える。刃物は空を舞い、それを振り回した者は地面の上に激しく転倒した。
 次の瞬間、男は連中の輪の中にいる坊主頭と少年の前に、まるで鷲が獲物を狙って急降下するように下りてきた。
坊主頭を含めたそこにいた連中はあっけに取られて目を見開いて男を見ていた。少年も、目を見開いていたが、しかし、あまり驚いている様子はない。少年は目を瞑りそうになった瞬間、男が地面を蹴ってとび出すのが見えた。そして少年には、男のこの瞬発力と跳躍こそが、彼本来の力のように思えたのだ。
「依頼料は確かに受け取った」そして男はバッグを坊主頭の目の前に突き出すと、微笑んで言う。そして人差し指で少年を指差した。「このガキも貰っていく」
「貴様―…」
坊主頭が何かを言いかけた瞬間、男は坊主頭の少年を掴んでいる手を取り、坊主頭の懐に入ったかと思うと坊主頭を投げ飛ばす。そして、坊主頭がどの方向に飛んでいったのか誰も見定めないうちに、男は、坊主頭の手が離れて工場の床に尻餅を付きそうになる少年の手を取ってその身を引き寄せ、左肩に金の入ったバッグを、右肩に少年を担いだ。その数秒後に工場内の鉄壁に男がぶつかり、鈍いが音が聞こえる。
連中は、何が起こったのか分からなかったようだが、背後で坊主頭が壁に叩きつけられた音を聞き、一斉にそちらを振り返った。壁際では坊主頭が身を横たえていた。男はその様子を見て笑みを浮かべる。少年も何が起こったのか分からなかったようだが、坊主頭が倒れているのを見ると、怯えているのか、震えていた。
「何をボヤっとしている!捕まえろ、ガキとあの男もだ!」やがて坊主頭は頭を振りながら立ち上がり、そう叫ぶ。男は坊主頭と目が合う。坊主頭の目は、怒りのせいかギラギラしているが、男は逆に笑んでいる。坊主頭の声に、彼の周りに集まった男たちは我に帰り、二人に襲い掛かる。その瞬間男は天井に向かってジャンプする。男の体は、バッグと少年を担いでいるにも関わらず風船のようにふわりと宙を舞い、二階のバルコニーの手摺りに音も無く舞い降りた。少年は二階分の高さを飛んだことに驚き、心臓の鼓動が速くなっていた。
「追え!逃がすな」坊主頭が興奮したように怒鳴る。連中は男のいるバルコニー目指して走り出す。
男は、そんな連中を一瞥すると、バルコニーの手摺りから後ろの窓の窓枠に飛び移る。少年は震えながらも必死で男の体にしがみついていた。
「降りるぞ」
「え?」
「しっかりつかまっていろ」
「大丈夫!」
男は窓から飛び降りた。
 またふわりと体が浮かんだと思うと、重力によって勢い良く地面に吸い寄せられる。
 男は、一度宙返りをして、地面に着地する。
 落ちた先に、先回りした連中の何人かが待ち構えている。
 まずいな。
 男はそう思う。
 この人数を相手に出来るとは思えなかった。15人以上はいるだろう。
 強行突破だ。
 男は着地と同時に走り出す。
 振り落とされる刃物をかわし、掴みかかってくる奴を体当たりで跳ね飛ばす。
 しかし、中にいた連中も外に飛び出して来て、連中の数が増えて行く。いくら相手をしてもきりがない。
振り切れそうにないから、男は大きくジャンプして、斜め後ろにある廃ビルに飛び移る。
「待て!」下で連中がわめき立てる。
 誰が待つものか。
 男は少年とバッグを担いだまま、その廃ビルを通って、工場を脱出した。


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