「お電話変わりました。私は、前田の上司の、岡本と申します。」 「はあ、あの、前田がお世話になっております。」 「あのう、あなたは、前田の婚約者だとか?」 「はい。そうです。それで、急用ができまして、連絡をつけたいのです。申し訳ございませんが、今、前田が携帯している会社の電話番号を教えていただけませんでしょうか?」 「はぁ、そう、仰られましても。あの、婚約者というのは、本当ですか?」 「そうです。来月、挙式を控えています。直属の上司の方でいらっしゃいますよね?招待状が行っているはずですが。」 「…よくわかりませんな。当社におります前田秀和は、既婚者です。何かのお間違えだと、思いますが。」 「えっ?」 「念のため、瀬戸様の連絡先をお聞きしてもよろしいですか?本人にこちらから連絡をとりまして、何か心当たりがあるようでしたら、連絡させますので。」 岡本の声を遠くに聞きながら、公子は、自分の携帯番号と自宅の電話番号を告げた。 「連絡は、ついたの?」 悲痛な顔で、母が聞いた。公子は、呆然と突っ立っていた。 「既婚者って、会社の上司って人が言ってた。」 「…やっぱり。昭島さんが言った通りね。」 「えっ?」 「ホテルから、入金がないから、前田さんに連絡したら、何かの間違いだと、自分は既婚者で、瀬戸公子なる女性とは、それを承知で付き合っていたつもりだ。正式な婚約はした覚えがないって、そう、言ったそうよ。はい、これ、ホテルからの請求書。」 母に渡された請求書。挙式用の320万円。 「あの、キャンセルでしたら、キャンセル料をいただくだけですので、50万円、ということになりますが。」 昭島が悲痛な声で言う。 当然だろう。料理も衣装も写真も、ないのだから。 「結納をしないっていうの、こういうことだったの?今時の習いのはずじゃなかったのね。」 母は、泣いていた。 公子は、硬直していた。 結納はなかった。婚約指輪もない。でも、既婚者とは聞いていない。結婚を、承諾してくれたのではなかったか。式場にも行き、昭島とも何度か一緒に会ったのに。どういうことなのだろうか。 そういえば、寿退社をしたって電話をしたとき、 「いよいよ本格的だね。じゃ、目標は達成できたんだ。よかったね。お疲れさん。」 そう言って、笑ってくれなかったっけ。 そう言えば、一方的に公子が喋り、公子が準備を進めていただけのような気がする。携帯を弄りながら、着信履歴に秀和からの電話は1本もないのを、じっと見ていた。 公子は、昭島を振り返る。昭島は、悲痛な面持ちで顔を伏せていた。上司は、時計を見ていた。 母は、下がっていた。
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