「…結婚、してくれないか?」 信二は、サラリと言った。公子は、振り向いた。 「結婚してくれ。僕の家は、瀬戸さんの知っての通りだ。だが、親父が倒れたからじゃない。お袋に言われたからじゃない。僕が、君と夫婦になりたいんだ。」 信二は、真剣な顔をしていた。 公子は、手を休めず、黙っていた。 「…考えていて欲しい。返事は、急がなくていい。」 客が入って来る。レジを通って出て行く。 信二は、奥へ仮眠に行く。公子は、いつものように一人で店番をする。考え事をしていても、公子はよどみなく動けるようになっていた。 信二の言う結婚が、どういう意味を持つか、公子はよくわかっていた。労働は、嫌いじゃない。華やかな生活じゃなくてもいい。自分の時間もいらない。公子に頼りたい両親と、血のつながりはないが、目の中に入れても痛くないくらい可愛い子供達と、家族のつながりができれば、公子は、幸せだと思う。 ずっと、封印し続けた希望だった。待っていた言葉だった。 親父が倒れたからじゃない。お袋に言われたからじゃない。僕が、君と夫婦になりたい。 信二の言葉は、ベッドの睦言でもなく、寿退社のための結婚ごっこでもなく、現実そのものだ。 秀和に感じた、踊るような恋心は、信二には抱いていない。だが、信頼という言葉が、信二と公子の間にはあった。信二が、店の経理を任せたときに、既に公子を信頼していた。 公子の心は、既に決まっていた。 だが、公子は、信二に1日休みをもらった。公子が休んだ日、公子の母が嬉々として代理を買って出た。一度、店員さんになってみたかったという母に、信二の母はニコニコとしてレジに並び、信二も一緒に休みをとった。 公子は、初めて信二の車に二人で乗った。 高速を使って、高原へのドライブ。ほんの20kmほどの距離だが、郷里に帰りながら、車を持たない公子にとって、新鮮なものだった。 「本当は、一人で考えたかったんだろうけど、店で、仕事しながら、結婚を申込むなんて、瀬戸さんにいい返事もらえないような気がしてね。」 公子は、笑った。 「デートもしたことがないのにね、いきなり、で、ごめん。」 信二は、ハンドルを捌きながら言う。 「紅葉の季節は終わっちゃったね。」 落葉した木々を見て、信二が残念そうに言う。 「予定より、少し足を伸ばそうか。僕が一番好きな場所に、案内するよ。名前はあるんだろうけど、あまり知られていない沼があってね、白樺が周囲に生えてるんだ。沼に白樺の幹が映えてきれいなんだよ。少し、山の中を歩くことになるけど。いい?」 「はい。大丈夫です。」 二人とも、ジーンズにスニーカーといった軽装をしていた。 車の中で、信二は逃げた先妻の話を公子に聞かせた。赤ん坊の孝太を置いて、離婚届の自分の欄にだけ記名して、出て行ったという。 「男がいたこと、僕は知ってた。」 「止めなかったんですか?」 「どうして、止める?もう、心は離れていた。彼女は、自分の産んだ子供達に、乳房の形が変わるのが嫌だと言って、母乳を与えることを拒んだ女だった。」 「でも、愛していたんでしょう?」 「愛?わからないな。そんなもの。男がいるとわかっても、僕は嫉妬すらしなかったからね。」 「愛して、結婚したんでしょう?」 「確かに、僕は彼女に夢中だった。その時、確かに愛していたと思う。だから、酒屋もコンビニにして、いっぱい働いて稼ごうと思った。だが、男と女の愛なんて、すぐに冷めるよ。」 「信ちゃんとコウちゃんのことは、愛してるでしょう?」 「そうだ。愛してるという言葉は、子供に対してならば、確かに存在するよ。」 「…じゃあ、私には?どうして、私と夫婦になりたいなんて。」 「そうだなぁ、色々、考えたよ。若い頃のような、麻疹みたいな、思いじゃなくて、その、手放したくないって気持ち。信じたい人なんだ。君は。そして、僕は、君を守りたい。一緒にいて、苦労を共にして、生涯ずっと守りたい。君となら、夫婦になれる気がして。」 公子は、運転している信二をじっと見た。信二が、公子を見て、照れくさそうに微笑む。 「愛してるから、結婚してくださいって言うほうが、簡単だね。」 「…私でよかったら、あなたについていっていいですか。」 「ああ。ついて来てくれ。苦労はさせるが、僕を信じて、ついて来てくれ。一緒に、幸せになろう。」 公子は、前方に広がる白樺並木を見て、大粒の涙を浮かべていた。
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