あっさりと自己都合で辞意を申し出た亜由美に、丸谷は、心底ホッと胸を撫で下ろしたようだった。 学生時代から12年かん住んだアパートを片付けながら、東京に来ても、行動範囲は狭いものだったなと、改めて思うとなんだか可笑しかった。 郷里に帰る朝、東京で得た友達は、子供を連れて見送りに来てくれた。自分の中でゆっくりと過ぎた時間、彼女たちは子供の成長を通して慌しく時を重ねていっていたのだ。思えば、亜由美だって、女友達の中にいたではないか。会社の中で、一人ぼっちのような気がしていたせいで、惨めな気分に陥っていただけだ。 帰郷した郷里の駅のホームに、加藤の姿を見つけて、奇妙な気分になった。 「この電車で帰って来るって、僕の母経由で聞いてね…。」 加藤は、相変わらず素っ気無い。 「迎えに行けと、言われたんでしょう?」 「あ、いや。僕が迎えに行くからと、君のお母さんに伝えてはもらったけど。」 加藤は、亜由美の荷物を持ってくれた。 「ありがとう。」 「本当に、帰って来たんだね。」 「ええ。明日から就職活動しなきゃ。」 加藤は、自分の車のトランクに、亜由美の荷物を乗せた。 「帰って来ても、親に甘えるわけには行きませんから。董が経った事務員、雇ってくれるなら、こっちは選ばない覚悟で帰って来たんです。」 加藤に勧められるまま、助手席に座った。 「ゆっくり、探すといいと思うよ。こっちは東京より、多分、時間はゆっくり流れてる。」 加藤は、駅を発ち、慣れた運転で市街地を走る。大分、変わっていると思った。それとも、18歳までの亜由美には見えなかった景色だったのかもしれない。加藤がずっと見続けた街。亜由美は、市街地を見るふりをして、加藤の横顔をチラと見ていた。 東の言葉、片思いだって聞いていたんだけどな…、が脳裏をよぎり、亜由美はじわりと自分の甘い妄想を閉じ込めた。 どうして、迎えに来てくれたの? 素っ気無く、運転をしているとはいえ、赤信号の停車中でさえ、前方を向いているだけの加藤に、亜由美は、やはり甘い期待を閉じ込める。 黙ってしまった加藤の横で、亜由美は加藤と同じ前方を見ながら、自問自答をする。母からの郷里の情報の中には、仲良しの加藤家長男加藤敦善の話題が盛り込まれていて、加藤にお嫁さんが来ない、気配すらない、そういう話を聞くたびに、ホッとしていた自分。 もしかして、私を思ってくれているって本当だったの? 待っていてくれているの? 加藤への想いを馳せ、そしてじわりと閉じ込めていたが、彼がいる郷里へ帰ろうという気は起こらなかった。今回、リストラのターゲットになったからといって、加藤が迎えに来てくれたことを、甘く期待するのは虫が良すぎるというものだ。 律儀にも、車は自宅へ直行し、母が亜由美の帰郷よりも加藤が来たことを喜んでいるのに、少し面食らった。父までが、加藤に会いに車のところまで出て来たのだ。娘の婚約相手でもあるまいし。加藤は、実に愛想良く応対しているので驚いた。 家に荷物と一緒に上がろうとする亜由美に、 「上がるのは後よ。加藤さんと一緒に行きなさい。」 「は?」 加藤は、父と談笑していた。母の言葉に押されるようにして、加藤の車の傍に行くと、 「じゃ、行こうか、乗ってくれる?」 「えっ?行こうって、どこに?」 「水産試験場。君、また、見たいって、言ってなかったっけ?」 亜由美は、笑いを堪えて車に乗る。両親が、嬉しそうに手を振っていた。まるで、変な形だけど見合いみたい。 「今日、って、聞いていませんよ。」 「そうだっけ?」 「私の両親ったら、何か勘違いしているみたいなんです。」 「勘違い?」 「ええ、なんだか、嬉しそう。」 「そう?」 「ええ。」 「で、何が勘違いなの?」 「だって…」 亜由美は、言葉に詰まった。加藤が照れたように笑う。 車は、すぐに海に着く。水産試験場の手前で、松林の中の小さい空間に駐車して、加藤が降りたので亜由美は従った。 「ここからの景色、僕はこの町で一番綺麗に海が見える場所だと思っている。取って置きの場所だよ。」 亜由美は、前方を見た。海と水平線と、湾を囲む猟師町が見える。 「本当。綺麗。」 自分が生れた町を、こんなに美しいと思ったのははじめてだった。 加藤は、この場所から、何度もこの海と町と山の風景を何年も見続けてきたのだろう。静かで、時間がゆったりと流れていくようだ。亜由美は、温かい気分になって、ふっと溜息をついた。 「結婚を前提にね、お付き合いさせてくださいって、君のご両親にお願いしたんだよ。」 「は?」 加藤のサラリとした口調に、亜由美は上ずった声を出した。 「ずっと、好きだった。いつから好きだったのかわからないくらい前から。」 加藤のまっすぐな視線とまっすぐな言葉に、亜由美は動転した。 「忘れることも、あきらめることも、出来ないから、片思いのままいようとしてたんだけど、この前、君に会ったら、抑えきれなくなった。」 「…どうして、忘れたり、あきらめたりしようと思ったんですか?」 「君に、伝える勇気がなくて…。」 「私が、拒むと?」 「さあ…どうしてなんだろう。」 亜由美をまっすぐに見詰め、照れもせずに話す加藤の態度と言葉がアンバランス。亜由美は、それが加藤らしいと思った。加藤の言葉は真実だろう。加藤の思いに、駆け引きなど微塵もない。 「私は、東京から逃げて帰って来たんです。」 亜由美は上ずった声で言う。 「いいじゃないか。逃げても。一人で闘って来たんだ。」 加藤の声は穏やかに亜由美を包み込む。 亜由美は、加藤といると、自分の体を縛っていた鎧から開放される気分になる。 加藤は、海を見て、それから、ゆっくりと亜由美を振り返って、まっすぐに目を見つめた。 「…これからは、僕に守らせてくれないかな?」 亜由美は、空を仰いだ。 ずっと、ずっと、この言葉だけを待っていた気がする。 不器用なお魚博士の口から、ずっと聞きたかった言葉。 真っ青な空。濃紺の海。沖に浮かぶ漁船。何もない猟師町。 私はお魚博士のお嫁さんになりたい。この町で。 「はい。」 亜由美は、加藤の顔をまっすぐに見て返事をした。
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