派遣社員と正規社員の違いは日常業務には大差ないと思っていたが、日増しに重要書類の取扱いが増えて行く。手堅い逸美の仕事は以前と変わらず高い評価を得ていた。 大きく違うことは、逸美の周囲には笑顔の仲間がいることだった。この笑顔を保つためには、なんだってやれる。お茶汲みもコピー取りも掃除もちょっとした雑用は、忙しい手を持っていても、機敏に立ち回った。笑顔を浮かべて雑用もてきぱきとこなす逸美の心には、島田の存在が大きくなっていた。 いつか、島田に会える。会って、またあの店で呑もうか。 それをチラと考えるだけで、笑顔は自然と出てくるのだった。 当然、この会社にも局はいた。 眉間に皺を寄せ、仕事をこなす手際は新幹線並みの速度と正確さを誇る。ただし、彼女は、席を立ち上がる瞬間に、眉間の皺がとれるのだ。電話に出る瞬間に、内線には1オクターブ、外線には2オクターブ高い声を出して、丁寧に応対するのだ。それだけで、彼女の周囲に人が集まった。2児の母であり、下の娘さんにもうすぐお孫さんが生れるとか。逸美は、局を敬意の眼差しで見詰めていた。 歓迎会もしてもらったし、社員旅行にも行った。 新しい職場にすっかり馴染んだ頃、島田が逸美のアパートの下に手持ち無沙汰に立っていた。 「よお。けっこう、早いお帰りじゃねーの。」 島田は冷たくなった自分の手にハアッと息を吹きかけた。 「お久し振りです。」 「おう。元気そうだな。」 「どうぞ。」 逸美は、笑顔でエレベーターの前に立った。島田がのそりと後ろに立つ。島田のコートの下のスーツが、いつになく張りがあるのを逸美はチラと見ていた。 逸美の部屋に島田を招き入れた。 島田は、部屋をさり気なく見回す。 シンプルで飾りっ気の薄い部屋。だが、島田がいつ来てもいいように、湯飲みと茶碗と箸だけは揃えていた。それから、芋焼酎。この前の赤提灯で島田が選んだものを手に入れて。 「寒いなあ。風邪、ひかなかったか?」 島田の声は表情と同じ、どことなく硬く強張り、無理やり自然に振舞おうとしているのがわかる。 何かあった? 逸美の心の中に、島田が別の女性と結婚すると言っても、平気な素振りで祝いを述べる決意も出来ていた。これから島田との間に男女の進展があるのでは、などという甘い希望は持たぬように戒めた。ただ、会えると思えるだけ。それだけで満足しようとしていた。逸美は、自分を制御する術も身につけていたのだ。 島田は、うまいと言いながら、逸美の淹れた茶をすするが、黙っていた。 「…会社で、何か?」 「あ、いや。…そうじゃない。」 島田の顔が益々強張る。逸美は、黙って島田の入っている小さな炬燵で向かい合って座った。 「…嫁さんに…」 「えっ?」 「嫁さんに、来いというヤツは、いないのか?」 島田が上ずった声を出し、慌てたように付け加えるのを聞いて、逸美は胸がドキドキした。 「いえ。いませんよ。相変わらずそれだけは。」 逸美は、息を整えながら、ゆっくりと自然に微笑んだ。島田もつられて微笑む。 「そ…うか。」 逸美は、空になった島田の湯呑に、茶をゆっくりと注ぐ。島田は、スーツのポケットをまさぐっていた。逸美が島田の前に茶を淹れた湯呑を置いたとき、島田は、逸美の前に濃紺のベルベットで出来た小さい箱を置いた。宝石店でもらう貴金属の入れ物。島田が睨むような目で、逸美の目を見てから、熱い茶をガブリと飲んで、うっ、っと顔を顰めた。逸美は、箱を開けた。逸美の誕生石のサファイアがダイヤで囲まれた中に煌々と輝いていた。 「……俺で、良ければ。だがな。」 逸美は、島田の顔を息を飲んで見つめる。島田の顔は泣きそうに歪んでいる。 「気の利いたことは言えんが、ずっと、俺の気持ちは変わってない。…ごとちゃんは、俺にとって、初めて会ったときと同じ、一番の美人だ。」 逸美は俯いた。涙が溢れる。 多分、有名宝石店の店員の薦めるままに買ってきた指輪だろう。逸美にとっても、島田にとっても、非現実的なほど豪奢な指輪が、小さな安物の炬燵の上で輝いている。逸美は、泣きながら、笑った。そして、涙に濡れた顔を上げて、島田の困り果てたような顔を見て、また、笑った。 「…嵌めてもらえますか?」 島田が、ぎこちなく膝で立ち、サファイアの指輪を指に持ち、逸美の傍に回って来る。逸美の薬指に少し窮屈で、関節から先が入らない。うろたえる島田に、逸美はしがみついた。島田は、そのまま逸美をしっかりと抱きしめた。 「嫁さんに、なってくれ。」 「はい。」 二人は小さく笑い出す。 「指のサイズなんて、知らなくて。直しますって言われてるんだ。今度、一緒に店に行こう。結婚指輪は、ごとちゃんが選んでくれ。俺、この指輪を買うのに半日もかかったんだから。」 逸美は、笑いながら頷いた。
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