前方に、赤提灯が見えた。こじんまりとした居酒屋で、サラリーマンがごった返していた。ツイと、島田が先に入り、カウンター席に並んで座った。手馴れた様子で島田が注文する。逸美は、偏食がないので、島田に任せた。 「…へへ、俺は、本気で探したんだぜ。」 「そーみたい、ですね。」 逸美は、怒っているかどうか心配そうに覗き込む島田に、微笑んだ。 「半年で、随分、変わったな。ごとちゃん。」 「そうですよ。いつまでも、嫌われ者じゃあ、生きていけませんから。今は、自分のことに一生懸命になることにしてるんです。会社のためじゃなくって。」 「はは、そりゃあいい。で、一生懸命に自分のこと、可愛がってるか?」 「はい。多分。…あの、ですね。友達が出来たんですよ。」 逸美は、何故か涙が出る。 「今度は入る会社の人たちで、私が、入社するの、待っててくれてるんです。社員旅行にも、来月行くんです。歓迎会も、してくれるって…。」 逸美の声が震え、涙が止まらず、嗚咽しながら言う。 「ごめんなさい。」 島田は、優しい目を向け、黙って前に視線を落とした。 「おまちっ。えー…ハツの塩焼きと、タコ酢と…イモのお湯割り2つですねーっ。」 運んできた店員が、チラと嗚咽している逸美を見て、小さい声でメニューを告げて、そっと置き、そっと去った。逸美は、それを見て笑いながら泣いていた。 島田は、黙って箸を割り、顔にハンカチを押し当てている逸美に代わって、小皿に刺身醤油を入れたりしながら、逸美に、焼き鳥の串を差し出した。 逸美は、泣きながら、イモ焼酎を飲み、焼き鳥を頬張った。 泣いている間に、注文していた大量の料理が並ぶ。逸美は、食べながら泣いて、笑って泣いて、ようやく、揚げ物が冷めた頃に泣き終わった。 「へへへ、すみません。」 「おう。」 島田は、空になったカップを持ち上げて、店員に合図をした。 「へい、イモの湯割りで?」 島田は指を2本立てて、頷く。 「私、まだ、半分も飲んでませんよ。」 「いーんだ。お祝いなんだから、熱いヤツ、飲めよ。」 「へいっ、おまちっ。」 店員が、泣き止んで笑っている逸美を、少しほっとしたような顔で見て、逸美にニコッと笑う。 「どんっどん、注文してくださいよぉっ。」 逸美は、ニコニコして、箸をすすめる。 「俺は、ごとちゃんに会うまではさ、怒ってたんだ。会社のやり口をさ。…でも、会ったら、ごとちゃんが、黙って辞めたの、わかるような気がする。…って、わかった風なこと言って悪い。」 逸美は、グビッと熱い焼酎を飲んで、頷く。 「ずーっと前から、限界だったんです。で、あの、資料作ってたお陰で、今の仕事にありつけたっていうか。事務員を少し超える仕事が出来たって言うか。」 「あーあの資料なぁ。凄いもんだよ。あれは。だてに16年、ただ使われていた奴じゃあ、あの仕事はできない。ごとちゃんの、16年間の真剣勝負を、俺は見たと思ったよ。」 「そんなっ、そんな大層なもんじゃないですよ。」 島田は、懐から名刺を取り出した。部長の肩書きがあった。 「へえ、昇格したんですね。半年前に、課長になったばかりだったじゃないですか。ずーっと主任だったし。凄い、出世ですね。」 「そう喜ぶなよ。これは、ごとちゃんのお陰なんだ。」 「私の?」 「うん。」 島田は、焼酎をなめた。 「俺は、三浦部長を見返して、あんたを助けたいと思ったんだ。頑張ったら、課長になった。皮肉だろ。俺が課長になったら、助けたい相手がいつの間にか、寿なんて、悪戯けた理由で、追っ払われてたよ。本当の経緯を知るには、もちっと上に行って、見るもん見る必要があった。それだけだよ。」 「見るもん見る?」 「そう。本田が、ごとちゃんに出した辞令だよ。誰が、どうやってあんたの退職願を偽造して、あのごとちゃんを一番評価していた社長を騙したかをさ。…ま、でも、今のごとちゃん見たら、そんなチンケな話、聞く価値もなさそうだ。」 「三浦常務でしょ?」 「…何で知ってた?」 「わかりますよ。表でいい顔して、裏でリストラできるくらい器用な人って、あの会社にはあの人と岡田部長くらいでしょ。私の後輩たちがバイトと退社になってるって、島田部長に聞いたとき、全部、わかりましたから。」 「…そっか。」 「本田人事部長が、仕組めるほど有能なら、私、16年間も、あの会社に居れませんでしたよ。」 「そりゃあ違うよ。」 「…優しいんですね。島田さん。ずーっと。みんなが私を避けて、追い出すくらい憎んでたのに。島田さんだけだった。普通に接してくれてたの。会社にいるときは、気づかなかったけど、出たら、わかりました。はは、会いたかったですよ。会えるとは、思ってませんでしたけど。」 島田は、グビッと焼酎を飲んだ。 「ここは、なかなかいい店じゃねーの。肴もうまいし。酒も、誠実だ。」 「そうですね。」 「また、来るか?」 「…。」 逸美は、河馬のような島田の顔を見た。島田は、逸美の目を覗きこんでいる。 「出るか?」 ほぼ、空になった皿を眺めて、島田が言う。あれだけ焼酎を飲んだのに、しっかりした足取りで、店を出る。 「ご馳走様です。」 「は、いや。…歩くか。俺は、酔いを醒まさなきゃ。」 「はい。」 並木道を並んで歩く。 「酒、けっこう強いじゃねーの。ごとちゃん。初めてだなぁ。二人で飲むのっていうか、飲むことも、かなぁ。若い頃以来じゃねーの。・・・みーんな、いなくなっちまったなー。」 「私、随分20代の頃は、結婚式にも招待してもらって、行ってましたよ。」 「本当だなぁ。…へへ、一番美人だったごとちゃんが売れ残るとは思わなかったぜ。」 「売れ残りましたよ。しっかりと。」 「ははは、忘れてるだろ?俺、十うん年前になるかなぁ、ごとちゃんに、だぁれも貰い手がなかったら、俺の嫁さんにしてやるって言ってさ、大笑いされたんだぜ。けっこう、本気だったのによ。」 逸美は、遠くを見た。 そういえば、ずっと、覚えていた気がする。入社2年目のことだった。 人の気持ちに気付くのに、15年も要すなんて。 逸美は、涙を浮かべ、笑う。 「そーだったですか?」 「あ、ほら、忘れてる。ひどいなあ。」 島田は、しっかりした足取りで歩く。半歩後ろを逸美は歩きながら、島田の広い肩をじっと見ていた。 「あー、俺、帰るゎ。」 ズキン 背中が急に寒くなる。島田が斜めに振り向いて、寂しそうな色を浮かべている逸美にちょっと照れ笑いをした。 「また、行っていいか?」 逸美は頷いた。島田も、頷き、背中越しに右手を上げて、駅の方へゆっくり歩き出す。
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