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作品名: 作者:津那

第4回   秘書の正体
 今まで、逸美は美幸の挨拶に対し、事務室内など男性社員や役員の前以外では、無視し続けていた。更衣室で会うものならば、ジロリと睨み、美幸が出て行くまで不貞腐れた。それでも、美幸はいつも丁寧に挨拶をし、自分の用事を睨まれながらやっていた。
「お疲れ様です。」
 逸美が、小声で、美幸に答えた。美幸はいつもと変わらず、淡々と用事を済ませ、更衣室を出て行く。普段着に着替えた美幸は、スニーカーにパンツ、コットンのジャンパーを羽織った地味なオバサンに変わる。更衣室の前で、弾けるような声が沸く。オバサン同士、一緒に帰ってるようだった。
 逸美は、声が聞こえなくなってから、更衣室を出た。
 美幸が、逸美の昨日まで机を並べていた後輩に混じって、岡田と談笑している。他の男性社員もいた。
「凄い変身振りだね。」
「今から、スーパーの特売があるんです。」
 後輩が言う。
「え?君達もスーパーの特売に行くの?」
「そおですよー。だって、少しでも安いほうがいいなじゃいですか。」
「へえ、自炊してんだ。」
「明津さんに、教わって、最近、頑張ってるんです。」
「うふふ、長く続くといいねぇ。」
「だって、私達、明津さんみたいなお母さんになりたいですもん。」
「ははは、そりゃぁ、頑張らないと。」
 私語を禁止なんて言ったくせに、岡田は他の男性社員と一緒で、後輩をからかいながら、大口を開けて笑い、楽しそうだ。
 きちんとした通勤服を着こなしている逸美を、岡田は、ちょっと眩しそうに見た。その視線を察し、男子社員は消え、女子社員は顔を強張らせて、去って行く。
 岡田一人が立っている廊下を、ハイヒールの音を響かせて、逸美は颯爽と通り、
「お疲れ様です。お先に失礼致します。」
 頭を下げた。
「お疲れさん。」
 岡田の声は、さっき、事務員と談笑していた声や口調とはガラリと変わり、今日一日聞き続けた声に戻っていた。
 岡田がパタンと、部屋に入る音を、逸美は背中で聞きながら、綺麗に化粧をして、スプリングコートを翻して、会社を出た。
 駅まで歩き、電車に乗って帰宅する。
 どこにも寄るところはない。
 ずーっと、こういう生活。振り子のような通勤。
 どこかで、素敵な男に声を掛けられ、そのまま、デートをする。いつでも準備OKにしているけれど、ほぼ40分で、自宅にしている古いモルタルアパートに到着してしまうのだ。
 カレンダーをチェックして、毎月1日に映画に行く。第2日曜日は美容院の日。外食の日、ドライブの日。いろいろと、自分で立てたスケジュール。忠実に守り続けている。同行者なし。邪魔者なし。

 数日、めまぐるしい仕事を続けながら、逸美はだんだん慣れて来た。慣れれば、仕事を必死でこなすとき、誰のことも気にならず、頭に来ることがない。それがわかって、気楽になった。
 食べ物を零す幼児の世話をするような、後輩の後始末から解放されていることに気付く。逸美に悟られないように、こそこそと男性社員たちと飲みに行く約束を交わすのを、気付いてしまうとき、トイレに行って戻ってこない後輩の代わりにとった内線電話の向こうで、逸美とわかるとギョッとしたように切る。内線には、番号が表示されて相手がわかるのに、無言で切られる。そういうことを常時、ぐっと我慢していた。
 この部屋にいて、没頭する仕事があり、煩わされることはないのが、こんなに楽だったとは。
 逸美の仕事のスピードと正確さ、緻密さは、会社が望んだ通りの成果を上げるようになっていた。
 同時に、わかってきた、美幸の能力。
 この会社のことは、逸美の方が熟知していたものの、16年続けた事務員から外れてみると、美幸の入社時と変わらないことがわかった。そして、今の業務からすれば、美幸の方が、仕事は上を行くのがわかる。
 
 週明け、ロッカーに今までの事務員の制服が消え、美幸と同じデザインの真新しいスーツが掛かっていた。隣で、化粧をし終えた美幸の横で、逸美は躊躇しながらスーツに着替える。
 髪は降ろしているよりも、美幸のようにシニヨンを作るほうがいいとは思いながら、髪留めを持っていなかった。
 スッと、美幸が、真新しいシニヨンと、真珠のピンを差し出し、いつものように微笑んで、
「どうぞ、よろしかったら。使いませんか。」
 逸美は、それを受け取った。礼を言おうとして、美幸の首筋にうっすらと残る、桃色の痣を見た。キスマーク。
 逸美は、腕を突き出して
「ごめんなさい。気に入らないわ。」
 美幸は、微笑みを浮かべたまま、つき返されたそれを、黙って受け取り、バッグにしまうと、部屋を出て行った。
 逸美は、いつも通り、髪をとかして整えた。
 岡田は、制服を変えた逸美を褒めた。
「明津君に、準備をさせていたが、やっと届いたようだね。」
 逸美は、顔を上げた。聞いていなかった。シニヨンとピンを受け取らなくてよかったと思う。
 苛々も、仕事に没頭すると消えて行く。

 岡田の指示は的確で、仕事のペースはどんどん速くなり、社内の資料作りもペースが掴めればサクサクと仕上がって行く。
 疑心暗鬼だった、他部署からの聞き出し調査は、岡田の根回しのお陰か、逸美が準備した調査票が的を得ていたのか、着々と進む。
 3ヶ月ほどたったある日、ふと、気付くと、美幸の制服が事務員服に変わっていた。スーツは、逸美だけとなっていた。
 逸美は、社内会議に岡田に同席することはなくなり、資料整理に没頭できた。
 それから、半年後、ついに、資料は完成した。
 逸美が16年間の業務を、凝縮したような完成度だった。


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