黒い雨が降っていた。 ボロボロの布を体にまとい、僕はあの人を待っていた。 しばらくするとあの人がやってきた。 まだその幼い体には赤い血がついていた。 僕を見つけるとその人は泣きそうな顔をした。 そして僕をしっかりと抱きしめた。 耳元で何か言ってる。 だけど雨の音でよく聞こえなかった。 そのうち雨もやんで、黒い雲から明るい日差しが見え始めた。 あの人が顔を上げた。 そしてあどけない笑顔で僕の頭を撫でた。 ―僕はいつのまにか、その人のことを「母さん」と呼んでいた。
「ゴホッ…ゴホッ…」 母さんとエレベーターで別れた後、僕は再び洞窟内を歩き始めた。キクさんや師匠もいた。きっと母さんが無謀な事をしようとしても止めてくれるだろう。 母さんと別れるのはつらかった。だけど僕にはもう生きる気力がなかった。だからせめて―ノゾミが死んだ所で命を断とうと思った。 毒ガスが地下に充満し始めた。鼻や口を押さえないと耐えられそうにない。目を開けるのもつらい。 それでも僕はあの場所に向かう足を止めなかった。あの残忍なショーが行われたあの場所へ。 部屋にはまだ明々と蛍光灯が照らされている。πの術が解け、赤いクリスタルが流動する血へと変わり、地面は赤い海のようになっている。 「…ゴホッ」 毒ガスが体内に侵入し細胞の機能を止めようとしているのがわかる。もう長くは持たないだろう。 壁に手をおいてふらつく体を支えながら、僕は倒れている機械犬の傍までやってこれた。その隣に座りこみ、機械犬の体を撫でてやったが反応がない。体も冷たいからもう死んでいるのかもしれない。 この機械犬のおかげでここまでたどり着けた。その感謝をこめて、僕はそっと機械犬を両腕の中へと持ち上げた。大型犬なので重かったけどなんとか胸の中へ顔を入れることができた。 「君も…大切な人を失ったんだね…」 機械犬の顔を優しく撫でてやる。反応はない。 「僕も行くよ…君と一緒に…ノゾミの所へ…」 毒ガスが体内を周り始めた。呼吸が徐々に苦しくなる。 僕は機械犬をしっかりと抱きしめて、静かに両目を閉じた― ―微かだが、機械犬が鳴いた気がした。
―ここは? 目を開けると僕は呆然と立ち尽くしていた。両側には険しい崖がそびえたっている。大きな岩が崖の上から落ちてきたのか地面に埋まっている。 「―よう。ここに来た人間はお前が初めてだな」 声がした。少年のような、大人のような、まるでその中間にいるような不思議な声だ。 「ここだよ。ダンテ」 顔を上げてみると、ベッドのような岩の上に仮面をつけた男が立っていた。仮面は真っ白で口や目といった穴が1つもなかった。 警戒していると、仮面の男は腰につけた剣を抜いた。 「さあダンテ。俺と戦おう」 「…あなたは…誰だ?」 「そんなことどうでもいいじゃないか。俺はお前と戦いたいんだ」 「…どうして?」 「どうして? さあ? そんなことはお前が考えればいいじゃないか」 仮面の男は剣を抜いたままベッドのような岩から地面へと降りた。 本当にこの人は僕と戦うつもりだろうか? なんのために? 様々な疑問が頭の中をめぐりながらも、腰につけてある剣を抜いた。 「そう。それでいい」 仮面の男は満足気に頷いた。 「…ここは…どこだ?」 「ここは世界だよ。鏡の中の世界だ」 「? 鏡の…中…」 「ウサギが鏡の中へと入っていったろう? ウサギを追いかけていたお前は鏡の前で何を見た?」 なんだろう? クイズかな? 「…ウサギ」 「ブゥ―。ダンテは馬鹿だね。鏡にうつるのは自分自身じゃないか」 「………」 「さあどんな自分がうつってた? どんな顔をした自分がうつってた? さあ答えろよ」 仮面の男が一歩前へと歩む。僕は後ずさる。 「…驚き」 「ブゥ―。またまた不正解だ。ダンテはまだまだお子ちゃまだなぁ」 「じゃあ何がうつってたんだよ」 「3枚の鏡さ」 「?」 「1つの鏡は世界をうつす。もう1つの鏡は自分自身をうつす。そして最後の鏡は…」 仮面の男の顔が歪んでいく。その顔は懐かしくて愛しい顔。 ―決して忘れてはならない顔。 「―ダンテ」 ノゾミの顔がそこにあった。 「うわあああ!!」 ダンテは大声で叫ぶと、ノゾミの顔をした仮面の男に向かって剣を振り下ろした。 キン!! 大きな火花が飛び散った。仮面の男は微動だにもしなかった。 「いいぞダンテ! もっと力を入れろ!」 「やめろぉ!!」 ダンテはがむしゃらに剣を振り回した。仮面の男はダンテの剣を避けず、すべて自分の剣で受け止めている。 「いいぞ! いいぞ! もっとだ!」 「やめろ! やめろ! その顔をやめろ!」 「どしてだい? つらい事を思い出すからかい? 悲しい事を思い出すからかい? それとも…」 キン!! 仮面の男がダンテの剣を止めた。ダンテの顔は涙でくしゃくしゃになっていた。 「―情けない自分自身を思い出すからだろ? ノゾミは自らの命をもって仲間達を護ったのに。君はビビッて震えてた―」 「…ううっ」 「恐くて恐くて仕方がなかった。頼りになるキクやカンタロウがいない。自分を護ってくれるママがいない。君はね―」 「………」 「―1人じゃなにもできない弱虫君なんだ」 ダンテの涙が地面に落ちていく。何粒も何粒もとめどなく落ちていく。 ―ノゾミは勇気を持って『十の獣』達に立ち向かったのに…僕は何も出来なかった。あんなにノゾミを護るって口で言ったのに…。何も出来なかった。 「ダンテ…」 仮面の男がダンテの耳元で呟いた。 「子供だからって自分自身に言い訳するのなら…この世界では生きていけないぞ。―世界はとても残酷なのだから」 「…うわぁ!!」 ダンテは歯を食いしばると仮面の男に剣を打ち込んだ。 「じゃあどうすればいいんだよ!!」 仮面の男はすでに元の姿に戻っている。ダンテはそれでも容赦なく仮面の男の剣に自分の剣を打ち込む。 「僕に力がないのなら!! 大切な友達を護れないのなら!! 弱虫になるのなら!!」 ダンテの剣が何度も何度も打ち込まれる。 「どうすればいいんだよ!!!!」 キン!!!! 「はあ…はあ…」 呼吸が荒いダンテの剣を止めながら、仮面の男はそっと…静かに囁いた。 「…復讐だよ」 「…えっ?」
「―復・讐・に・身・を・委・ね・ろ―」
「…はあ!!」 クロサギは施設から出ると大きく深呼吸した。ようやくあの惨劇の館から脱出する事ができたのだ。生への実感を体中で感じることにする。 「生きてるって素晴らしい」 ポキポキと首を鳴らすと周りを見回した。この出口は隠し通路だ。幹部連中が自分達のためだけに用意した脱出経路である。 当然、天才である俺の前では通用しなかったわけだがね。 木々がさわやかな風を送ってくる。赤い木の葉が何枚か目の前を掠めていく。空は真っ青で雲1つ見当たらない。 クロサギは落ちてきた赤い木の葉を素早く掴むと、鼻歌を歌いながらクルクルと回し始めた。 「ふん…ふふんっと。さて。これからどうしたものか…?」 クロサギの背筋にゾクリとした悪寒が走った。後ろに誰かが立っている気配がしたのだ。振り向くとそこにはダラリと首をたれている大型犬を抱えて、男の子が1人立っていた。 「うわあ!」 クロサギは思わず後ずさった。すると地面につまずいて尻餅をついてしまった。 「そっ…その赤い目…」 男の子の両目は血のように赤かった。 (まさか…S級犯罪者か!? 嘘だろ…せっかく逃げてきたのに…。あの帝軍達は何をしてるんだ) その子供はクロサギには目もくれないで歩き出した。 「ちょ…なんだお前…?」 クロサギはもう一度よく男の子の目を覗き込んだ。 薄っすらと目の奥に何が見える。右目の方だ。 (? …なんだ? 何か記号のようなものが見えるが…) 「ねえ」 「はっ、はい!」 急に話しかけてきたのでクロサギは飛び上がった。 「手伝ってよ。お墓をつくるんだ」 「? 墓? その犬のか?」 「うん。この犬のおかげで助かったんだ。体に設置されてある呼吸器マスクを僕につけてくれた。そのおかげで僕は助かったけど…」 男の子はそれ以上何も言わず。太い木の傍の地面を掘り始めた。 「…なんだ。スダチのソニックじゃないか。緊急用の酸素マスクが出てきたわけか」 「スダチ? ソニック?」 「ああ。スダチはお前が出てきた施設の研究員で、そいつが飼っていた機械犬の名前がソニックだ」 「…ソニックって名前があったんだ」 男の子は名残惜しそうにソニックの顔を撫でていた。 「…君の敵はとってやるから…安らかにお休み」 「………」 ソニックの墓を造り終えると男の子は手を合わせた。 「…お前の名前はなんていうんだ?」 「ダンテ」 「その目はどうしたんだ? 元からそうなのか?」 「違う」 「じゃあ『赤眼化』したのか?」 ダンテがS級犯罪者のような異様な雰囲気を漂わせていないので、次々とクロサギは質問を始めた。だが、途中でダンテは立ち上がり、どこかへと歩き始めた。 「なっ!? ちょっと待てって!? お前はなんなんだよ」 「もう何者でもないよ」 ダンテは颯爽と歩いて行く。 「…どこに行くんだ」 ピタリとダンテの足が止まった。
「―取り返しに行くんだ」
「へっ? 何を?」 「………」 それ以上何も言わず。 ダンテは深い森の中へと姿を消していく。 クロサギはしばらくの間呆然とその姿を見守っていたが。 やがて急いでダンテの後を追い始めた。
―こうして獣達に運命を弄ばれた 1人の少年の旅が始まった―
『赤い雫・ダンテの旅立ち:完』
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