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作品名:赤い雫 作者:牛を飼う男

第18回   汚泥からの挨拶(3)
「ケルピーって知ってます?」
 なぜ後輩がその幻獣を知っているのか。なぜそれを自分に言ったのか。それは未だにわからない。
「幻獣のこと?」
「そうです。水魔と言われていて馬のような姿をした悪魔なんですよ」
 後輩が私から受け取ったプラスチックのケースに汚泥を入れていく。あとで水質分析するからだ。その行為の最中に普段無口な後輩が急に話しかけてきたのだ。
「それがどうしたの?」
「いえ、たいした意味はないんですが…時々恐いんですよ」
 ケルピーというのは馬の姿をしていて、水の中に住んでいる。出会った旅人を水の中へと引きずりこむという。
 私は後輩の意図がわからず理由を聞いてみることにした。
「何が恐いの?」
「この汚泥の中からそいつが出てこないかが…です」
 不思議な事を言う男だなと私は思った。確かに、汚泥は茶色く透明じゃない。だけどそんなところからケルピーが出てくるとも思えない。
「何かそれってケルピーのイメージが壊れるわね。こんな臭いところから出てくるなんて」
「…そうですね」
 後輩は作業が終わるとケースのフタを締めた。
 私はてっきり後輩の軽い冗談かと思い、彼の笑い声が聞こえてくるものだと思っていた。でも、後輩はそれ以上一言もしゃべらなかった。
「…それでは…先に行きます」
 また後輩は無口な男へと戻っていった。
「…さてと、あとは…」
 ミステリアスな後輩のことは置いておいて、私は作業に戻ろうと踵を返した。
「ん?」
 唐突にどこからか音がした。それは何かが壊れるような音だったような気がする。
「なに?」
 音がした方向へと歩いて行くと、『汚泥貯留層』と書かれてある看板が見えた。確かこの先には薬品タンクがあったはずだ。
 タンクの傍まで行くとまた何かの音が聞こえた。本当は自分の仕事の範疇ではないのだが、気になるので錆びついた鉄の階段を上り、タンクの中を見てみることにした。
 タンクの上にある鉄の小さな扉を開くと、暗く、濁った水が視界の中へと入ってきた。このタンクから1つの汚泥が5つに分けられることとなる。
 中は薄暗くて何があったのかよくわからず、諦めかけた時、汚泥から何かが浮かび上がってきた。最初は何かのゴミが中に入り込んでしまったのかと思った。しかし、徐々に姿を現していくそれはゴミではなかった。
 木馬だ。
 木馬がタンク内の汚泥から姿を現したのだ。私の耳に後輩の声が聞こえてきた。
『ケルピーって知ってます?』
 その木馬の上には後輩が乗っていた。あいかわらず変化のない声で私に話しかける。私は懐かしさ以上に、愛おしい気持ちで心がいっぱいになった。
 私は涙を流しながら言った。
「…帰ってきたんだね」
 あの日、後輩は増水した川に流されていってしまった。私はどうすることもできなかった。なぜなら、私はその時1人だけだったからだ。
 後輩の手に赤い花が握られていた。その花を私へと差し出す。私はそれを受け取ろうと手を伸ばす。
 そしてそのまま、タンクの扉はパタリと閉められた。


 A地点にたどり着いたソネットとキクはようやくハンドルの場所を見つけ出した。
「あったあった。まったく、どうしてこんなわかりにくい所にハンドルが設置されてるのかね」
 キクがハンドルを回そうと手に力を込めた。しかし、ハンドルはまったく回らない。
「これは…きついわ…ソネット!」
 キクは応援を頼もうとソネットを呼んだ。
「………」
 ソネットは何も応えなかった。未だに黒いダークなオーラ―が体を支配しているようだ。実際キクの目にはそれが見えていた。
「…ったく、ショックがちょっと長いっつーの…」
 キクはどうしたものかと考えた。
「そうだ。ねえソネット。ダンテの父親ってどんな人?」
 キクはとりあえず話題を変えてみることにした。
「え? 父親?」
 ソネットが反応した。
「そう。だってソネットって髪の毛茶色だし、瞳だって黒いじゃん。ダンテは髪の毛銀色だし、瞳も銀じゃん。どうみたって似てないよ。父親似?」
「…ううん。父親にもあの子は似てないわ」
 ソネットの小さな丸い玉をつけたピアスが微かにゆれた。
「へえ〜珍しいね。どっちも似てないだなんて。じゃあさ。父親ってどんな人? カッコよかった?」
 キクは女子学生のようにウキウキしながら聞いてきた。ソネットはちょっと困った顔をしながらも口を開いた。
「そうね。彼は貴族で、金持ちで、紳士で、誰にも優しくて…」
「なんだ。良い父親じゃん」
 キクは拍子抜けしたように言った。
「…残忍で、残酷で、醜くて、卑しくて、汚い卑怯者」
 キクはギクリと体を震わせた。ソネットの表情がいつのまにか冷酷な鬼女へと変化している。それは昔見た般若に似ていた。
「ソネット…」
「だから…したの」
「えっ?」

『―その完璧な息子を私によこしなさい―』

「だから…殺してやったの」

 2人の間に生暖かい風が通り抜けていく。キクはソネットに何を言っていいのかわからず、黙って立ち尽くしている。しばらくして、ソネットは「フッ」と笑うと、キクの傍にあるハンドルを握った。
「回しましょ。早くしないとダンテ達が心配だわ」
「えっ…ええ…」
 キクはバツが悪そうな顔をしたが、今は仕事に集中しようとハンドルを回し始めた。


 ダンテはタンクの中で故障の原因を探し始めた。タンクについている鉄のハシゴに足を引っ掛け、右手にはノゾミからもらった松明を握っている。油断して足を滑らせれば、一気に汚泥の中へと落ち込むことになる。
 タンク内では白いペンキのような物でbPと書かれている所があった。よく調べてみるとそのbフ下に汚泥が通る通路があるようだ。
 周りを調べてみると他にもbニ書かれている所がある。どうやらbP〜bTまであるようだ。
ギギッ…
 急に何かが軋む音が聞こえた。ダンテはビクリと震える。
「…何だろう?」
 音の方へ松明を向けてみるとbPと書かれてある通路が閉じようとしている。どうやら誰かがハンドルで操作しているのだろう。
 ダンテは恐らくソネット達だと直感で思った。
(ということは、順番からいって、僕らのはbSの所かな…)
 松明を向けてみるとbSにある門が少し他のbニ違って汚泥の中へと浸かっている。タンク内の壁にも明らかに動かされた跡があった。
 ダンテは剣を取りだすと、その門を上から叩いてみた。すると少しは動くものの錆びついて固まっているのか完全には閉じない。そこでダンテは何度もその門を上から力任せに叩いてみる。松明も持っているので落とさないようにしないといけない。
(思った以上に大変だな…)
 「カンッ! カンッ!」という大きな金属の音を聞きつけて、心配になったのか、ノゾミはタンク内へと顔を向けた。
「ダンテ! 大丈夫?」
「うん!」
 ダンテはノゾミを心配させまいと大声で答えながら、作業を続ける。そのうち門は抵抗を止め、「ギィ」という音を最後に汚泥を閉じた。
「よしっ…これで」
 ダンテは剣をしまうと上に戻ろうとハシゴに手をかけた。
「…えっ?」
 スゥっと手の力が抜けた。危うく汚泥の中へと落ちそうになった。
「なっ…これ…は」
 急に頭がガンガンと痛くなり始めた。体も痙攣を起こしている。何よりも息苦しくて仕方がない。
「…まさか…」
 昔母さんから聞いたことがある。こういったタンク内では酸素が欠乏しやすい。酸素は21%空気中にあり、18%以下になると酸素欠乏症という症状が現れ始めるのだ。
 ダンテは急いでタンクから出ようとハシゴを握り締め、視線を上に向けた。

「嫌! やめて!」

 タンクの出口からノゾミが叫んでいる。どうしたんだろう?
 ダンテは思考の回らない頭でぼんやりとノゾミを見つめている。ノゾミはなおも叫び、ダンテの体に繋いであるロープをグイグイと引っ張ってくる。
「ノゾミ…大丈夫だよ…」
 ダンテは微笑もうとしたが無理だった。すでに意識が混濁し始めている。このまま倒れたいという欲求に負けそうになる。
 そんな意識の中で、ダンテの足元から異様な声が聞こえてきた。

『かえり…たい…かえり…たい』

 それは木馬に乗って、赤い目を爛々と輝かせていた。


「!?」
 A地点で汚泥の道を通り抜けたソネットとキクは、甲高い悲鳴を聞いた。どうやらその声はノゾミのようだ。咄嗟に2人はカンタロウ達に何かあったのだと判断した。
「ダンテ!」
 キクよりも早くソネットが今来た道を引き返し始めた。
「ちょ! ソネット!」
 キクはそれを止めようとしたが、ソネットはすでに向こう側を渡り終え、カンタロウ達のいるD地点に向かっている。
「あの馬鹿! 自分の子供の事となるといつもああなんだから!」
ビュ
 キクも後を追おうとした時、空気が切り裂かれる音が耳に入った。
「!?」
 キクは素早く身をかわした。金髪の髪の毛が何本か切り裂かれた。キクがいた地面に透明なツララが突き刺さっている。
「この術!? まさか!?」
 キクは剣を構えると、ツララが飛んできた方向をなぞった。
 
パチパチパチパチ…

 薄暗い場所から拍手が聞こえてきた。複雑に絡み合った管の上に誰かがいた。それは不気味な図形が描かれた包帯を顔にまき、大きな赤い目でキクを見下ろした。
「―さすが帝国軍第4類、私等犯罪者の間では通称『死帝』といわれていることだけはあります。たいした反射神経ですね。こんな薄暗い所でよくあの攻撃をかわすことができました」
 それはまたパチパチとキクに向かって拍手した。
「しかもその金髪の髪…あのA級犯罪者を倒したキクさんではありませんか?」
「…そうよ。すっかり有名になっちゃったわね」
「ケケ…そうですか…なるほど…あの方にそっくりだ」
「? あの方?」
 それは立ち上がると両手を肩の所まで上げた。それは手を広げたともいえる。
「自己紹介しときましょうか? 私の名前は―」
「―知ってるわ」
 キクは剣を右肩に乗せ冷笑をうかべた。

「人の名を持てぬ者、S級犯罪者『イボガエル』」

「これはこれは光栄ですねぇ…以後お見知りおきを…」


『汚泥からの挨拶(3):了』


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