勝つとは思っていなかったイラリアが、北口に戻ってきたエンジュリンを喜んで迎えた。 「あんた、顔がいいだけじゃなくて、剣の腕も凄いねぇ!」 これからいくらでも稼げるよとうれしそうに抱きついた。エンジュリンを見に来ていた下働き女や侍女たちがやっかんで眺めていた。 「なによ、あの年増、べたべたしちゃって」「ほんと、いやらしいったら」 ひそひそと話している。エンジュリンがきょろきょろと見回した。 「リギルトは」 さあとラトレルが疲れたようなため息をついた。 「まったく、あれほど言ったのに」 支度部屋に戻って身拭いし着替えていると、お祝いがいくつも届いた。果物や干し肉、酒やらと送り主はほとんど女のようだった。 「これは、今晩、大変だよ」 夕食の誘いもたくさん来ていた。 「それは行かない」 エンジュリンがお祝いの品の添え状を見ながら言うと、ラトレルが襟首を掴んだ。 「行かないじゃなくて、行けないだろう」 そして、ぐいっと頭を引き寄せて、耳元でこそりと言った。 「今夜こそ、調べて、街から出るんだ」 「そんなにあせらなくても」 なかなか面白いとのんきなことを言って、ますます怒らせていた。 「お祝いは、下働きに運ばせるから、控室に移って休もうね」 イラリアが、夕べの控室よりもよい部屋になったと喜んでいる。そこに、身なりがよい金持ちの従者らしき男が書状を持って来た。箱から出した書状を受け取ったイラリアは、すぐに開封して返事が欲しいと言われ、開いてため息をついた。 「どうした」 エンジュリンが上から書面を覗き込んだ。 「懸賞金は直接渡すから、取りに来いって」 使いの男について来ることと書かれていた。署名はない。 「いったいどちらの方だい?」 イラリアが尋ねたが、男は答えられないと首を振った。 「そんな金はいらないだろう、行くな」 ラトレルが止めた。イラリアも戸惑っているようだった。エンジュリンがラトレルを手招いて、部屋の隅で話した。 「あの男、城のものかもしれない」 えっとラトレルが眼を泳がせた。 「そうなのか」 エンジュリンが、ああと瞳を目端に流した。男が書状を入れてきた書箱に自治都市領主の紋章が刻まれていたのを見逃さなかった。 城に入れるかもしれないから付いていってみると顔を上げた。 「リギルトと中ノ島を探ってくれ」 『扉』が閉まっているかどうかの確認だけでもいいからと言われて、ラトレルが危うさを感じながらも、了解した。イラリアの側に戻ってきたエンジュリンが書状を丸めて懐に入れた。 「行ってくる」 イラリアが心配そうな顔をした。 「『一七』に移ってるから、戻ったら、乾杯しようね」 エンジュリンが口元に笑みを浮かべて、リギルトにたくさん食べさせてやってくれと頼んで従者の後に付いて行った。 イラリアがさてとと下働きの男を呼んで、お祝いの品々を『一七』の部屋に運ぶように頼み、厨房に料理と酒の注文をしてくると出ていった。 ラトレルは、リギルトを探しがてら、荷物を取りに部屋に戻った。リギルトは部屋に戻っていた。 「エンジュ兄さんは?」 賞金主に呼ばれていったと説明した。どうやら城のものらしいというので、リギルトも心配そうに荷物をまとめた。 「今夜は飲みすぎるなよ、調べに行くんだからな」 きつく言われて、リギルトがぷぅとふくれて、ぶつぶつつぶやいた。 「自分のほうこそ」 聞きとがめたラトレルが、なにっと振り返ったので、リギルトが首をひっこめた。
支度部屋を出て、一階まで下りてきたところで、走ってくるルロイに気が付いて、抱きとめた。 「どうした」 泣き顔のルロイが見上げて、身体を振った。 「離して、嫌いだっ! みんな、嫌いっ! おかあさん、帰ってこないよぅ!」 抱きとめたルロイから、母親との間を引き裂かれた悲しみと希望を奪い取られた絶望が流れ込んできた。 「ルロイ」 後ろからガルディンが追いかけてきていたが、エンジュリンの手を振り払って、走っていった。ガルディンを呼び止めた。 「どうしたんだ、母親が帰ってこないって」 ガルディンが対戦相手の小僧と気が付いて、気まずそうに頭をかいて、試合の賞金で娼館に売り飛ばされた母親を身請けすることになっていたのでと話した。 「サリナスが妻を娼館に売ったのか」 ガルディンが首を振った。 「グエリニが侵略されたときに、旦那が戻れなくなって、その間、奥様、食うに困って金を借りて」 その後はお決まりの道でしてと頭を下げて、ルロイの後を追っていった。 「馬車を待たせているので、急いでください」 背中から従者が声を掛けた。エンジュリンが小さくなっていくルロイの背中から眼を外した。 闘技場の裏ロには二頭立ての馬車が停まっていた。乗るよううながされて、乗り込んだ。窓には厚い力ーテンがかかっていた。ゆっくリと動き出した。馬車は東に向かっているようだった。それから、ぐるっと街の外周を回るようにして北に向かった。行き先を知られないようにごまかしているのだろうが、エンジュリンには無駄なことだった。 城門を通って、城の中に入っていくのは気配でわかった。しばらく城内を進み、ようやく馬車は建物に囲まれた中庭に停まり、扉が開いた。隣りに座っていた従者が先に降りて、頭を下げて、エンジュリンが降りてくるのを待った。まだ建って五、六年ほどか、真新しい壁や柱、植え込みはほとんど幼樹だ。城の仕様からして、「奥」と呼ばれる領主一族の住いの区城ではないかと思われた。庭から石造りの廊下に上り、二階に案内された。 陽が傾いて来ていた。通された部屋で少し待つように言われ、椅子にかけていると、別の従者が茶を入れにやって来た。出された茶は、王族などが飲む高級なものだった。もう少し入れ方がうまければよいのにと、従者の後姿を見つめた。 少し待つようにと言われたが、たっぷりひとときは待たされた。すっかり夜になり、べランダから見える空には星が瞬き始めていた。ようやく案内して来た従者が戻って来た。どうぞこちらへと更に別の棟に連れて行った。 部屋の前には護衛兵が二人立っていて、従者が手を振ると兵が扉を両側から開いた。中は続きの間になっていて、やはり護衛兵が二人控えていた。腰のものを渡すよう手を差し出すと、エンジュリンがためらいもなく、帯を外して渡した。従者が奥の扉を押し開け、エンジュリンを入れた。居間のようで、大きな円卓が中央にあり、杯や皿が乗っていて窓を背にして椅子に腰掛けているものがいた。 薄緑の胸元が大きく開いた部屋着を着て、黒髪を背中に垂らした二十代半ばくらいの女だった。 ずば抜けて美しいわけではないが、それなりには整った顔立ちだった。だが、険のある眼尻で気が強そうだった。 左側にひとつ椅子があり、女が指示すと、従者が椅子を引いてエンジュリンを座らせた。硝子の杯に深赤色の酒を注いで、お辞儀し、部屋の角に控えた。女は、薄紅の唇を開いた。 「まさかそなたが勝つとは思わなかったわ」 負けたとしても、呼ぶつもりだったけどと、口はしを上げて杯を掲げた。エンジュリンも杯を持った。 「あなたの名は」 女が黒い瞳を細めた。 「わたくしはスティシア」 スティシア・ラキャテシオン。自治都市ラキャテシオンの領主の妻だ。亡国イリン=エルンのラキャテシオン大公の姫で、敗戦ののち、西方の自治州アヴムに亡命、この地が自治都市として独立する際に婿を迎えて、その男にラキャテシオンの家名を継承させたのだ。 スティシアは杯の縁に口をつけて、ぐいっと飲み干した。エンジュリンが飲まないのを見て、飲みなさいと命じた。エンジュリンが少し口をつけて、杯を卓上に下ろした。 「見れば見るほど奇妙ね、両眼の色が違うなんて」 でも美しいと恍惚とした表情を見せた。
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