闘技士の控室に入ったサリナスは、黒い下帯を渡されて戸惑っていた。 「こんなみだらな格好でするのか」 ガルディンは鈍い金色の外套を手にしていた。対戦相手の小僧の裸を見せたいから合わせてだった。賞金主の要望なのだ。サリナスが眼を細めた。 「まさかその相手とは」 イラリアという女世話役のところの小僧だという。あの異形の少年に違いない。 「あの者とは戦いたくない」 自分の手で汚したくなかった。 「何言ってるんだ、大金がかかってるんだから、勝って奥様取り戻さなくては」 ルロイがぎゅっとしがみついた。 「おとうさん」 おかあさん帰ってくるよねと眼を輝かせていた。親子三人でまた暮せるようになるのだ。今日昨日見知ったばかリの者に遠慮はしていられないと思い切ることにした。
獣の檻についていったリギルトは、裏方の連中に混じって出し物を見ていた。棚状になっている歓客席は、かなり埋っていて、大盛況だった。 「うわあ」 大山猫が、大きな木組みの球に乗って鞭の合図で球を転がしていた。 「かわいいなあ」 リギルトが手を叩いて喜んだ。他にも真っ赤な服を着た子どもたちが球乗りしたり、棍棒を投げ上げて受け取ったりと、雑技が披露され、歓客たちも歓声を上げていた。そでに戻って来た檻の中の大山猫にポォムのかけらを差し出した。 「あ、噛みつきますよ」 操っていた男が注意した。だが、ゆらっと近づいた大山猫は、ゴロゴロと喉を鳴らしてポォムのかけらを舌で受け取って、うれしそうに食べた。男が驚いていた。気性が荒くなかなかヒトに慣れないのだ。 「いい子だな。球乗り、上手だったよ」 おとなしく頭を撫でられている。 「なんて名前?」 リギルトが尋ねると、男が、ルゥゴですよと答えて、檻を奥に引いていった。ルゥゴは振り返るようにして、リギルトをずっと眼で追っていた。 下働きの女が葉っぱに包まれた何かを配り出した。出し物一座への振るまいのようだった。リギルトを一座のものとまちがえたらしく、ポンと渡していった。包みを開くと、干し肉をはさんだパンだった。 「わあ、やったあ」 パクッとひとロで食べてしまった。 「そろそろ始まるってよ」「元自治州の部隊長だし、面白い試合になりそうだ」「相手のやつも気の毒にな、恥かくだけだろ」 地響きのような太鼓が鳴り出した。闘技場の中央に小柄な男が立ち、さっと手を上げた。太鼓がピタッと鳴りやみ、満杯の客席が静まり返った。 「来場の方々、ようこそ、おこし下さいました。いよいよ本日の大一番! 南の最強剣闘士サリナスに挑戦するのは、北の美剣士工ンジュリン!」 南と北の両側から外套で身体を覆った大柄な男たちがでてきた。その途端に數声や嬌声が上がった。ゆっくりと歩み出て来て、かなりの間合いを開けて、止まった。 「手加減はせぬ」 サリナスが低く呟いた。エンジュリンが、南囗でにこにこ笑いながら見ているルロイに気づいた。 「子どもに見せるのか」 険しい眼でにらんでいた。ふたたび、ドォンドォンという太鼓の音が始まり、ふたつ、みっつと増えていって、最後は五つの太鼓から大音響が響き渡った。 口上の男がさっと手を上げると、ふたりが同時に外套をバッと取り、ひらっと後ろに流した。まぶしい日の光の下に、ふたつの鍛え上げられた裸体が晒された。 「きゃぁぁ!」「おおぅ!」 悲鳴を上げた女たちが恥ずかしそうに手で顔を覆いながらも、指の間から、覗き見ていた。 サリナスの身体には、修練や戦争で出来た傷が無数にある。実戦を経験していない兵士でも、修練で傷のひとつやふたつはできる。だが、目の前の少年は、滑らかな石のようにきれいな肌で、傷ひとつなかった。 ……ろくに修練もしていない若造か…… それとも、貴族の子弟か。話したときは、なかなか眼にも鋭さがあって、そこそこの腕と見たのだが、これでは話にならなかった。 ふたりとも腰の剣をすらっと抜き、構えた。太鼓がドドドドドッと乱打され、口上の男が空を切るように手を振り下ろした。太鼓が止まり、観衆も静まり返った。 睨みあう。 サリナスは、ガルディンからなるべく試合を長引かせるよう言われていたが、最初の一太刀で決めてしまおうと思っていた。しかし、この絶妙な間合いと離れていても感じる強い気に戸惑っていた。 ……できる…… 最初に動いたほうが不利だと思った。しかし、睨みあうだけのふたりに観衆がざわついてきた。 「おい、早くやれ!」「なにしてるんだ!」 野次も飛んできて、口上の男が太鼓を叩かせた。ドンドンと催促するような乱打で、サリナスが意を決して、走り寄りながら上段から振り下ろした。とたんにおおっとどよめきが起こった。 エンジュリンがその剣刃が頭に到達する前にさっと身体を低くして、かわし、後ろを取ろうとした。だが、サリナスもすばやく身体を回した。 「かなりの腕だな」 エンジュリンが剣を水平に構えて、じりっと右回りに足を踏み出した。 「若造が、偉そうに」 ぎりっと歯噛みして、サリナスは左回りに足裏をするようにして動き出した。足指がじりっと砂を捕らえたとき、再びサリナスがエンジュリンに打ちかかった。その剣を刃で受け止め、払い、ふたりは激しく剣をかち合わせた。キンキンと鋭い刃が当たる音が響く。 その様子を北口の端に立って見ていたマレウスがつぶやいた。 「あの小僧、ただ者じゃない」 サリナスは、元はグエリニ自治州の州軍部隊長で、指揮官としても有能だったし、剣術の腕は相当なものだ。そのサリナスと互角に戦っている。剣もかなりの業物だった。マレウスは、今はこんな場末で身をやつしているものの、以前はウティレ=ユハニの貴族の館で仕事をしたこともある研ぎ師で、値打ち物の剣をたくさん見ていたのだ。 はらはらと見ているイラリアの側にいたラトレルは、早く負けろといらいらしていた。手加減しても、明らかに力の差がある。 「おまえは強い、充分分かってるから、もう負けろ」 エンジュリンに勝てる相手などいるわけがない。去年くらいから、『師匠たち』でさえ、勝てなくなったのだ。 かち合わせること、二十、三十を越えたが、互いに一歩も引かない。 ……殺すつもりでないと、勝てない…… まだ子どもの年のようだ、殺したくはないが仕方ないと、意を決したサリナスが一度引き下がり、殺意を込めて、ふたたび打ちかかった。その剣先をさらっとかわし、自分の剣を振り上げた。 「うっ!?」 手に衝撃が走り、次の瞬間、サリナスの剣は、地面に突き刺さっていた。手に痺れが残っていた。 「おおっ! サリナスが!」 負けるとはとどよめきが広がった。エンジュリンが剣を腰の鞘に納めると、女たちの嬌声が湧き起こった。 「きゃぁあ! すてき!」「エンジュリンさまぁ!」 サリナスががくっと片膝を折った。途中から力の差を感じていたとはいえ、こんな若造に負けるとはと衝撃を隠せなかった。 口上の男が歩いてきて、エンジュリンの腕を掴んであげた。 「勝者!」 歓声と怒声が沸きあがった。 「おい、なんでそんな小僧相手に負けるんだよ!」「ちくしょう、大損だっ!」「ばかやろう!」 サリナスに賭けていたものたちの非難の中、サリナスがよろっと立ち上がって、突き刺さっていた剣を抜き、南口に下がって行った。 南口には、ルロイが真っ赤な眼をして立っていた。 「おとうさん、負けちゃったの……」 サリナスがうなだれ、すまないと眼を伏せた。 「ルロイ、かあさんは……帰ってこられなくなった」 楽しみにしていただろう、自分も負けるはずはないと思い込んでいた。夕べのうれしそうな妻の顔がサリナスの胸をえぐる。ルロイがわああっと泣き伏した。 「おとうさんの嘘つき! おかあさん、帰ってくるって約束したのに!」 ガルディンが抱き起こそうとしたのを振り払って走り去っていった。 「旦那……」 ガルディンが気遣って声を掛けようとしたが、サリナスが首を振った。
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