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作品名:無限の素子 作者:本間 範子

第57回   第一章 異端の少女《エレズィエト》(45)
 レニウスは、その走り去るモゥビィルを目で追っていたが、エンジュリンが見ないようにしているのに気が付いて、おいと肩に手を掛けた。
 振り向いたエンジュリンの顔は、悲しみに濡れていた。美しいとすら言えるほどに整った面立ちが、憂いを帯び、涙すら浮かべている様子に胸が締め付けられた。
……なんて顔してるんだ、こっちまで。
 せつなくなってくる。
 わざとやれやれと呆れてみせた。
「たかが女に振られたくらいで、そんな顔するな」
 エンジュリンがはっと目を見張り、恥ずかしそうに顔を少し赤くして長い睫を伏せた。涙がすうっと頬を流れ、あわてて指先で拭っていた。
「で、どうするんだ」
 レニウスは心配だった。アスィエが好きだから、ここまでついてきた。それは口実だと思っていたが、振られて消沈している様子に、やはりそのためではないかと思えてきたのだ。
「どうするって」
 エンジュリンがわからない様子で首を捻った。
「アスィエ様に振られたからには、もう俺たちに味方する意味はないだろう?」
 三者協議会に戻るかと遠回しせずに尋ねた。まともに返事するわけはない。だが、エンジュリンは動揺すると顔に出る。トゥドは『魔導師』は平気で嘘をつく、ヒトを欺くくらい平気だと言っているが、エンジュリンに限っていえば、むしろ、嘘をつくことのできない、優しく素直な性格なのではないか。それも欺く術とやらならば、自分はその術にかかっていてもいい。
 エンジュリンはあきらかに戸惑っていた。休憩所にいた作業員たちが近寄ってきて、作業助手をしているインクワィアのティフがおずおずと話しかけた。
「そろそろ作業、しませんか」
 作業工程どおりに進めないとまずいですと言われて、エンジュリンがいつものように穏やかな眼に戻って応えた。
「作業遅らせて申し訳なかった。続けよう」
 ボォウドの横に置いた耳覆いを付け、小箱から出ている細い紐の先を差し込んで、ふわっと浮き上がり、たちまち天井まで飛びあがった。

 中央研究棟に戻ると、玄関広間で清掃作業していたワァカァたちが、引き立てられてきたロイエンを見て、青ざめ、一斉に広間の隅に固まった。アドレィがその連中を睨みつけ、その中のひとりを呼んだ。
「おまえは清掃班の班長だろう、班員の管理もできないのか」
 こいつが持ち場を離れたのに気が付かなかったのかと叱りつけた。
「すみません、気が付きませんでした」
 必死に頭を下げて謝った。ロイエンにオゥトマチクを奪われた黒つなぎが蹴り飛ばした。
「やめてください、俺が悪いんですから!」
 そのヒトは関係ないと言うと、アドレィがロイエンの背中に向けているオゥトマチクの銃口をぐいっと押し付けた。
「関係ある、おまえの管理を怠った」
 ワァアク上の失態だと厳しく断じて、階段を登れと突付いた。
「お願い、乱暴しないで」
 アスィエが心配そうに見上げ、後に続いた。アドレィはかまわずロイエンの背中に銃口をぐいぐいっと押し付け、先を急がせた。
 さきほど、アスィエがトゥドと会った部屋は、おそらくは基地指令官室と思われた。扉の前でアドレィが小箱で呼びかけた。
「トゥド様、ロイエンを連行しました」
 数秒ののち、扉が開き、アドレィがロイエンの腕を掴んで、引っ張って入室した。黒つなぎは外の扉横に立ち、アスィエがそれをちらっと見てから扉を通った。
 机に座っていたトゥドが立ち上がり、三人が近付くのを待った。
「まったく、最後の機会だったのにな」
 トゥドが眉間に皺を寄せ、肩で大きく息をついた。アドレィが『最後の機会』の意味がわからずに戸惑ったが、表情には出さずに報告した。
「側にいながら、ロイエンの違反行為を防げませんでした。申し訳ありません」
 首を折って失態を詫び、ロイエンを監禁しますと掴んでいた腕を後ろ手にねじ上げた。
「ぐうっ!?」
 ロイエンは腕を捩じ上げられ、苦痛で顔を歪めたが、すぐに観念して顔を伏せた。
「すいませんでした、俺……魔導師にアスィエを取られたくなくて」
 トゥドがフンと鼻を鳴らして腕を組んだ。怒っているのだと知り、アスィエがトゥドの側に駆け寄って、腕にすがりつき、眼に涙を浮かべた。
「おじさま、ごめんなさい、わたしのせいなの! だから、ロイエンを許して」
 だが、トゥドはいつものような優しさをすっかり捨てて、すがりついてくる腕を振り払い、睨みつけた。
「違反を許せだと? 甘えるのもいい加減にしろ」
 アスィエが初めて見るトゥドの冷たい態度に硬直した。震えながらようやく強張る唇を開いた。
「そんな……甘えてなど……」
 いませんとの語尾が消え入るような小声になり、顔を伏せた。トゥドが険しい眼で睨みつけたまま、手元のボォウドを叩いた。畳まれていた窓の遮蔽幕がゆっくりと広がり、室内が暗くなって、入口から見て右手の壁に埋め込まれていた大きなモニタが光り出した。そのため、部屋はまったくの暗闇というわけではなく、姿や顔の判別はついた。
「あの素子がなんで何度もおまえに近寄ろうとしたと思う?」
 アスィエが息を飲んで顔を上げた。
「そ、それは、エンジュリンが……わたしを好きだから……その……」
 身体に触れたいからではとは恥ずかしくて言えなかった。トゥドがははっと笑い飛ばし、アスィエの首に掛けた鋼鉄の輪を掴んでぐいっと引っ張った。急に引っ張られ、首の裏に痛みが走り、よろけた。
「おじさま、痛いわ」
 アスィエはトゥドがこんな乱暴なことをするようなヒトだとは思っていなかったので、あまりの豹変振りにすっかりおびえてしまった。
「やめてください!」
 ロイエンが捩じ上げられているのもかまわず身体を振った。
「まさか、本気で素子が好きだの嫌いだのでここまでついてきたと思っているのか、滑稽だな」
 今から理由を教えてやると、アスィエの首環を掴んだまま、ボォウドをまた叩いた。

壁のモニタが一度暗転し、パッと光って、何かが映し出されてきた。
 灰色の人造石の壁に囲まれた部屋の真ん中に、二十代はじめくらいの年頃の男女が三人、寄り添うように座っていた。長いオゥトマチクを構えたものたち五人が回りを囲むようにして立っていた。三人とも、アスィエと同じ鋼鉄の首環をしていて、怯え震えている。その中のひとりにアスィエが気付いた。
「……お父さ……ま?」
 おそらくは若い頃の父リィイヴ。五年前最後に見たときとあまり変わっていない。残りのふたりのうち、ひとりは若い女、枯れた草のような色の髪、目鼻立ちがはっきりとしている。もうひとりは、体格のよく、作業ワァカァ風な様子で、女の手をしっかりと握り締めていた。低く鋭い男の声が響いてきた。
「あの三人をどうする気だ!」
 別の男の冷たい声。
「アリスタを残して、外に」
えっとロイエンが息を飲んだ。
アリスタ……アリスタって……。
もしや、自分の母親?
枯れた草色の髪。自分と同じだ。
長身オゥトマチクを持った五人はリィイヴとワァカァ風の男の腕を握って立たせようとした。
『やめろ!』
『ヴァン!』
 アリスタがヴァンと呼んだワァカァ風にしがみつき、ヴァンもアリスタを抱きしめて離れようとしなかった。
ひとりがヴァンの頭をオゥトマチクで殴った。そして無理やりアリスタから引き離して、部屋から連れ出した。
「イージェン!」
 リィイヴの悲痛な叫び。
「リィイヴ!」
 先ほどの低い男の声。そして、灰色の部屋にはアリスタがひとり残された。恐ろしさに強張った顔は涙で汚れていた。
ロイエンはモニタ画面を食い入るように見つめた。
きっと、きっとそうだ。あれがかあさんなんだ。
「アリスタ!」
 ヴァンの声に、アリスタは部屋をおどおどと見回している。
『ヴァン!たすけて!』
 その叫びが終わるや、次の瞬間。
 バァアアアーン!
「ぎゃあぁぁぁぁぁっ!」
 ヴァンとリィイヴが悲鳴を上げた。
 同時にアスィエとロイエンも悲鳴を上げ、あまりの恐ろしさにロイエンは腰を抜かし、アスィエは気を失いかけて、ぐらっと身体を揺らした。トゥドが首環から手を放すと、アスィエはそのまま床に倒れた。


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