夢がかなったのか。 なんど挑んでも本気で戦わなかったエンジュリンが、自分を魔力で退けた。あれは本気だ。 でも、なんでそれが、あんなわがままでわからずやの異端女のためなんだ。 くそっ! くそおっ! 好きだとっ、あんな、あんな異端女が好きだとっ! 悔しくて涙が溢れてきた。身体中が痛み、指一本ぴくりとも動かない。このまま海の中で死ぬのか。 エンジュリンの最後の叫びが耳の奥に蘇ってきた。 ……俺は、魔導師じゃない、俺は異端だ! いつも穏やかで物静かなあいつが、あんなふうに声を荒げて、叫ぶことがあるなんて。あいつ、あんな下種たちが言ったこと、気にしてんのか。 おととしの五大陸総会のとき、何人かの学院長が、三者協議会に対して抗議してきた。毎年苦労して宮廷を説得し多額の補助金を出しているのに、テクノロジイ放棄が少しも進まない、しかも、異端の始末も算譜の更新も、『冷徹なる数値』の見直しもしないままに失踪してしまった大魔導師イージェンを無責任と責め立てた。なにか不測の事態で帰還できなくなったに違いないのに、まるでなにもかも放り出して逃げたような言い方をされた。 総会が終わった後も、エンジュリンは、ランスの学院長フィナンドたち数名に囲まれて、罵られていた。 ……大魔導師として存分に働いてくれるというから、おまえを産ませたいという違反を許したのに、何もしないで姿を消してしまったではないか! おまえは異端の技で出来た子だ、おまえが魔導師を名乗るなど、汚らわしい! エンジュリンは、青ざめた顔で立ちすくんでいた。 学院長たちは思い通りにならない苛立ちをぶつけているだけだ。親父の不始末なんて、俺の知ったことか!って、言い返せばいい。でも、そう言えないのがあいつなんだ。 その後、急に姿を消したかと思ったら、『空の船』の保管庫にあった父親の眼球を持ち出して、自分の左眼を抉り、嵌めこんだ。 なぜ、そんなことをしたのか。 アートランが尋ねてもその理由を答えなかった。みんなその奇行に驚いたが、エンジュリンは、それまでと変わらない様子で仕事をし、リギルトとふざけ、ラトレルをからかっていた。だから、そのことにはもう誰も触れずにそっとしておくことにしたのだ。 「エ…ンジュリ……ン……」 痺れて動かない唇を開いてようやく声を出した。 おまえに勝つまで、俺はあきらめないっ……。かならず、倒してやる……。 すでに魔力のドームが切れているので、これ以上息も続かないが、ここで死んでたまるかと遠のく意識を引き止めようとした。 ふわっと身体が浮いた。背中からつめたくざらついた感触が伝わってくる。何かが身体を押し上げていた。 暖かい光を瞼に感じてきて、ぶわっと音がして、肺袋に新鮮な空気が入ってきた。 「あ……」 海上に浮かび上がれたのだとほっとしたとたん、意識が遠のいた。
エンジュリンと艦橋を出たレニウスは、艦底に戻る途中自分の部屋に寄るからと梯子階段を登った。茶色の硝子の認識盤に小箱を押し付けて開き、中に入った。明るくなった部屋を見回したエンジュリンが、奥の壁際のベッドに近寄り、ベッドの横の壁に指先を延ばして触れた。 「これは……」 壁に斜め線がびっしりと刻まれていた。 「5315日目……ということか」 斜め線を瞬時に数えていた。 「ああ、あの日から、毎日刻んできた」 これしないと、落ち着かなくてなと、レニウスが、腰の鞘帯から小刀を抜き、壁にみっつ、刻み付けた。 「こんなことして、なんになると思っていたが」 エンジュリンが目を細めてゆっくりと辿った。その刻傷から、レニウスの苦悩と焦燥が伝わってきた。 「十五年は長かった」 ようやく報われそうだとベッドに腰掛けて天井を見上げた。エンジュリンが翠青の瞳で見下ろした。しばらく静かな眼差しで見下ろしていたが、エンジュリンが手を差し伸べた。 「行こう」 レニウスがその手を握って、立ち上がった。 艦底にある気閘(きこう)(気密室)に向かった。艦底の訓練区画を通ると、訓練中の連中が一斉にエンジュリンとレニウスに眼を遣り、その行く方を追った。 素子が協力してユラニオゥム輸送マリィンの奪取に成功したと聞かされたが、どうにも信じられず、遠巻きにしているだけだった。 気閘(きこう)(気密室)から艦外に出た。レニウスは念のために潜水服を着て、チュゥブと水中めがねを持っていたが、水中めがねも掛けず、チュゥブも咥えていなかった。エンジュリンの魔力の球体に包まれ、まったく濡れることもなく、水圧を感じることもなく、進んでいた。 暗く冷たい北の海は、もともと魚影も少なく、水の濁りもあり、見通しはよくない。進むに従い、それがさらにひどくなっていく。もうほとんど魚の姿も海底から生えていた海藻類も見られなくなった。冷たい海水のはずだが、次第に魔力の球体の中にあっても、ほの温かさが伝わってくるような気がしてきた。 「なんか、温かいのか」 エンジュリンがぐるっと首を巡らせた。 「ああ、このあたりはすでに高熱の海流になっている。下を見てみろ」 言われたように下を見ると、あちこちの砂がぼこっぼこっと盛り上がっていて、海底から熱湯が湧き出ていた。おそらくは沸騰している。ちらっと後ろを振り返ると、濁りの中にわずかにマリィン艦外の照灯の光が認められた。 急に足元から振動が伝わってきた。前方から波動が迫ってきて、次の瞬間、海底が割れて、火柱が噴出した。 「予測より早い」 しかも規模も大きい。 エンジュリンの全身が輝き出した。その光は、熱はないが身体というよりは心に穏やかな温かみとして感じられるようなものだった。 「熱くない、この……光」 輝きからは光の粉が散っている。 「亀裂がこちらに向かっている」 大きな噴火になると翠青異形の眼を光らせた。このままだとマリィンが巻き込まれるなと振り返った。 海底が激しい揺れを起こし、光と熱の帯が亀裂を広げて迫ってきた。 「おい、大丈夫なのかっ!?」 その返事の前に溶岩が下から噴出した。周囲を溶鉱炉の中かと思われるような真っ赤な壁が囲い込んだ。 まさか、魔力のバリア、破れたりはしないだろうな。 不安になってきた。 「俺にしっかりしがみついていてくれ」 抱いていた腕を外されそうになり、あわててエンジュリンの身体に腕を巻きつけるようにしてしがみついた。 亀裂は、マリィンの下に到達した。噴出した溶岩には、大きな火山弾も混じっていて、マリィンの艦底を直撃、マリィンの巨体も大きく揺らぎ、次々に噴出してくる溶岩の勢いに押されていた。 「あれでは、外殻に損傷はなくても、中は大騒ぎだな」 レニウスに言われて、エンジュリンが、アスィエが怖がっているかもと心配そうな顔で振り向いた。 早く鎮化してしまおうと前に向き直った。 エンジュリンの身体の輝きが強まり、まるでボォムが爆発するような光が発せられた。 「わあぁっ!?」 あまりのすさまじく強い光にレニウスがエンジュリンの肩口に顔を押し付けた。もしやこのまま皮膚が焼け縮れ、肉や骨も溶けてしまい、身体が焼き尽くされるのではないかと、震えていた。 「大丈夫。もう終わった」 エンジュリンの声が響いていた。その声の穏やかさに、とたんに恐れが消えていく。おそるおそる顔を上げて、そこに広がる景色に驚き、眼を見張った。 「これは……」 澄み切った水、足元には白い灰のような砂、両脇は崖がそそり立ち、うねっている狭い谷の底で、どこまでも透明な海の中が広がっていた。さきほどまで熱と光の帯が吹き上がり、激しい地震と振動を起こしていた噴火がうそのように収まっていた。まるで嵐が過ぎ去ったような後の静かな海だった。いや、むしろ、海ともいえないほどの透明感と静寂さ。 ……これが、魔力で鎮化するって……こと…… 負の熱量など、ありうるのか。しかし、膨大な噴火の熱量を相殺する魔力を放ったということだ。 「先に進もう」 エンジュリンが背後のマリィンをちらっと見てから泳ぎ出した。
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