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作品名:無限の素子 作者:本間 範子

第4回   序章 異形の少年《ディフェラン》(4)
 『一八七』という控室に入ったサリナスを小柄な中年男が待っていた。
「旦那、いい知らせだぜ」
 ガルディンという名の闘技士の世話役だった。ガルディンによれば、明日特別の懸賞金がかかった試合があり、それに出られることになったというのだ。
「ほんとうか」
 ガルディンがもちろんと言い、ルロイを食卓の椅子に座らせた。
「闘技料はいつもと変わらないんだが、勝てば、金貨二十枚もらえる」
 えっとサリナスが息を飲んだ。ガルディンがへへっと笑った。
「欲しいだろ、金貨二十枚」
 サリナスがむっとした顔を逸らした。だが、その金、どうしても欲しかった。ガルディンが豆のスゥウプを飲み出したルロイの頭を撫でた。
「ルロイ、おふくろさん、明日の夜には帰ってくるぞ」
 ルロイがスプゥンを落として、サリナスを見上げた。
「ほんと? おとうさん、おかあさん、帰ってくるの?」
 ルロイが椅子から転げるように降りて、サリナスにしがみついた。サリナスがまだ勝てるとは限らないのにとガルディンをたしなめた。
「旦那が負けるわけないだろ?」
 ルロイがサリナスの袖をひっぱって揺すった。
「おかあさん、帰ってくるんだね!?」
 サリナスにもこんなところに流れてくるような腕のものたちに負けはしないという自負がある。帰ってくると息子に告げた。
「約束だよ、ぜったいだよ!」
 目を細めてうなずいた。ルロイがうれしさのあまり、泣き出していた。
 夕飯の後、ほどなくしてルロイが寝入った。
 後をガルディンに任せて、サリナスが闘技場を出て、北地区の外れに向かった。三階建ての大きな建物が見えてきた。入口に大きなガラスのフードの灯りが下がっていた。たくさん見える窓には赤いカーテンが掛かっていた。サリナスは裏手に回って、忙しく動き回っている婆をひとり捕まえた。
「エトリアを呼んでくれ」
 婆がびっくりして首を振った。
「会いたきゃ、正面に回って金払って部屋に上がりな」
 客ではないとサリナスが銀貨を握らせた。婆が金を受け取りながら、ほんとはだめなんだよとぶつぶつつぶやきながら勝手口から入っていった。少しして出てきた。
「半時くらい待ちな、今客が付いてるから」
 サリナスがぶるっと震えてうなずき、勝手口近くの木の下で待った。
 半時過ぎた頃、婆が布を被った女を連れてきた。サリナスが近付くと、女が二、三歩下がった。素早く腕を掴み、抱き寄せると、女が身体を振った。
「いけません、汚れています……」
 サリナスがぎゅっと力強く抱き締めた。
「汚れてなどいない」
 女が泣き震えた。
「エトリア、明日の夜までの辛抱だ」
 エトリアが涙で濡れた顔を上げた。
「明日の夜、身請けに来る」
 エトリアが目を見張った。
「ほんとうですか? ほんとうに……あなたとルロイのところに戻れるのですか」
 サリナスが顎を引いた。うれしいですと泣くエトリアをまた強く抱き締めた。

 時溯り、サリナスがルロイを連れて修練場を出た後ー。
 修練場から研ぎ場に戻ったエンジュリンをマレウスが呼び止めた。
「その剣、どこで手に入れた」
 エンジュリンが自分の腰の剣にちらっと目を落とした。
「ウティレ=ユハニの王都で拾った」
 マレウスが呆れてはっと息をついた。
 かなり見事な造りの剣だ。落ちているなどありえない。盗んできたのだろう。
「なるほどな、手癖が悪くて逃げてきたというところか」
 もう一度貸せと手を出したので、渡すと、すらっと抜き払い、しげしげと見つめた。
「密で粗のない鋼だ。ここで造られる鋼は五大陸一だが、それよりも美しい」
 何枚もある磨き布の中から、一番上等な鹿皮を出して、磨き出した。すっかり磨き上げて、鞘に納め、返してきた。
「その剣を振るうにふさわしい腕があればいいが」
 そうでないと剣が泣くと言って、また研ぎ作業に戻った。
しばらくその作業を眺めていたエンジュリンが、研ぎ場の入口にリギルトが立っているのに気付いた。
「夕飯できたから、運ぶんだけど、兄さんも手伝ってよ」
 早く食べたいと涎を垂らさんばかりに逸ってエンジュリンの腕を引っ張った。
 厨房に行くと、『五五八』と書かれた札の棚に料理が何品か載っていた。木箱を借りて、控室に運んだ。
 ひとり留守番をさせられていたラトレルが、ぶすっとふくれっつらで食卓に突っ伏していた。
「わたしを置き去りにして」
 ふたりで街を見てきたんだろうと拗ねていた。
「別に面白いものはなかった」
 ごくありふれた市場だったと言いながら、退こうとしないラトレルが座っている椅子をガンと蹴った。
「邪魔」
「わあっ」
 ラトレルが椅子ごと後ろにひっくり返った。空いた食卓に木箱を置いた。ラトレルが立ち上がり、エンジュリンに詰め寄った。
「乱暴だな!」
 にらみ合うふたりが同時に扉に顔を向けた。扉が開き、イラリアが入ってきた。
「さあ、前祝い、前祝い」
 上機嫌で席に付くようにうながした。おろおろとふたりを見ていたリギルトが頼んだ。
「早く席について、食べようよ」
 エンジュリンがすっと席に付き、ラトレルが倒れた椅子を戻して座った。イラリアが三人の杯になみなみと酒を注ぎ、自分の杯も満たした。
「乾杯!」
 イラリアがぐいっと飲み干した。三人も同時に杯を空けた。
皿の上には、山鳥の香草焼き、ゆで卵が添えてある。苦瓜といり卵の炒め物、生の人参と芹菜を棒状にしたもの、岩塩を付けて食べるとうまいのだ。芋のシチューと黒麦パンもあった。たしかにそこそこの腕らしく、まあまあの味だった。酒瓶も三本あり、イラリアはかなりいける口らしく、ぐいぐいあけていた。酔いも回ってきた頃、隣に座っていたエンジュリンのすぐ横に椅子を付けて、しなだれかかっていた。
「あんたたち、兄弟みたいだけど、全然似てないねぇ、母親がみんな違うのかい?」
「いや、育ったところが同じで、師匠が同じなので兄弟なんだ」
 そうかいとうなずいたものの、もう上の空でエンジュリンの膝の上に手を置いた。
 エンジュリンが自分の皿に盛ってあった山鳥の肉をリギルトの皿に移した。
「ありがと、兄さん」
 リギルトがおいしそうに食べている様子を見て微笑んだ。
「まったく、弟には甘いんだから」
 ラトレルがパンをちぎってシチューに付けて食べた。
 急にイラリアが艶っぽい眼でエンジュリンを見上げた。
「ところで、もう女は知ってるのかい」
 エンジュリンがいやと首を振った。イラリアがぐいっと身体を押し付けてきた。
「じゃあ、あたしが男にしてあげるよ」
 ラトレルとリギルトがぎょっとして肩を引いた。エンジュリンは驚きもせずに、空になっていたイラリアの杯に酒を注いだ。
「兄さんより先では、兄さんがまた拗ねるから」
 遠慮しておくと自分の杯にも注いだ。イラリアが杯を空にして、すっと立ち上がり、ラトレルの首に腕を巻きつけて顔を近づけた。
「なっ!」
「だったら、年の順に相手してあげるから、待ってな」
 お兄ちゃんからしてあげるからねと口付けしようと迫ってくる。ラトレルがあわてて顔を逸らした。
「やめろ!」
 仰け反ったとき、さきほどのように椅子ごと後ろにひっくり返り、イラリアが乗りかかってきた。
「うわっ!」
 頭を少し打ってくらっとなり、すぐに押し退けることができず、唇が重なりそうになってしまった。ラトレルが大きく目を見張った。イラリアが急にぐったりとなって、ラトレルの身体の上に倒れた。
 ラトレルがはあはあと息を上げて、涙目で天井を見上げていた。エンジュリンとリギルトが席を立って、覗き込んだ。
「『使った』な」
 エンジュリンが言うと、リギルトがうなずいた。
「うん、『使った』」
 ラトレルが真っ赤な顔で起き上がった。
「き、緊急事態だ! 止むを得ずだ!」
 エンジュリンがイラリアを両腕で抱き上げ、リギルトが扉を開けた寝室に運んだ。
「命の危険はなかったんじゃ?」
 掛布を掛けて、後ろ手で扉を閉めた。ラトレルがうっと言葉に詰まってから顔を逸らした。
「兄さん、いつも女のあしらいなんて軽いもんだって言ってたくせに、ずいぶんとうろたえてたな」
 エンジュリンがいじわるを言った。リギルトもうんうんと同意すると、ラトレルが反論できずに話題を反らした。
「だいたい、おまえが何にでも首を突っ込むから、いつもおかしなことになるんだぞ!」
 前回の師匠の指令で向かった或る自治州でも、役人の娘が池に落とした指輪を捜させられている村人に同情して、三人で池をさらうことになった。『使うな』と言われているので、簡単には捜せず、大変な思いをしたのだ。
「その前だってっ、むぐぅっ」
 エンジュリンが黒麦パンをラトレルの口に押し込んだ。
「兄さんの分だ、残さず食べろ」
 口いっぱいに押し込まれたパンで喉を詰まらせてしまい、水代わりに酒を何杯か続けて呷ると、急に酔いが回ったらしく、身体をぐらっと揺らして、食卓に突っ伏した。
「ううっ……」
 ぐらぐらすると呟いて、目を閉じてしまった。リギルトも腹いっぱい食えてうれしいなぁと残りの料理を平らげ、酒瓶も空にして、椅子の上で舟を漕ぎ出した。
 エンジュリンが、リギルトの荷物の袋から丸めた毛布を出して床に敷き、大柄なリギルトを軽々と両腕で持ち上げて、そっと横にして、外套を掛けてやった。ラトレルも横にしてやって、外套を掛けてやり、自分は羽織って部屋を出た。
 通路は遠くに小さく光りが見えるだけで、近くには灯りもなく、ヒト気もない。だが、エンジュリンの眼には、『使う』までもなくはっきりと見えている。
 厨房に向かい、勝手口を捜した。終夜開いていて、外で食事をしたり遊んできたりして深夜に帰ってくるものたちも勝手口を使っている。厨房で夕飯を受け取ったときに、聞いておいたのだ。そのため、咎めるものもなく、闘技場の外に出られた。


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