リィイヴは、あまり眠れなくて、夜明け前から目が覚めてしまっていた。イージェンに話すのにあのことを思い出したからだろう。有力な大教授の教え子であった教授は、結局罪を問われなかった。病棟送りになってから父も母も一度も会いにこなかった。壊れて数値が落ちたゴミだからだろう。それを悲しんだり恨んだりする気持ちもとっくに失せていた。それでも、傷つけられたことは身体も心も忘れていないのだ。 東の海から朝日が昇ってくる様をじっと見ていた。日が昇ってしばらくしてから後ろから声を掛けられた。 「おはようございます」 振り向くと、エアリアだった。 「おはよう」 朝食の用意を手伝ってほしいと言うので、困った顔で返した。 「ぼくはいいけど、また殿下のご機嫌を損ねるんじゃ?」 エアリアがむっとした。 「別に殿下のご機嫌を取るために仕えているわけではありませんから」 リィイヴがうなずき、自分の気持ちを素直に言った。 「君がいいなら、手伝うよ、ぼくとしては君と一緒にいられるのはうれしい」 エアリアが唇に笑みを浮かべてうなずいた。厨房に行くとセレンが鍋に水を入れていた。 「おはようございます。師匠がエアリアさんに船長室に行くようにって」 朝食はもうほとんど準備してあり、お湯を沸かして茶を入れるだけになっていた。 「イージェンが作ったの?」 セレンがこくっと首を折った。リィイヴが少し残念そうにエアリアに言った。 「すぐ行ったほうがいいよ」 エアリアが軽くお辞儀して小走りに立ち去った。入れ違うようにして食堂からイージェンが戻ってきた。 「おはよう、リィイヴ」 挨拶をして手伝うと言ったが、イージェンは手を振った。 「いや、もう出来てるから、ヴァンを起こして食べに来い」 ヴァンを起こしに行くと、まだぐっすりと寝ていた。すうすう寝息を立てている。 「ヴァン?起きて」 ヴァンが肩を動かして、目を開けた。 「もう朝か…」 寝たりないようだった。顔を洗ってから食堂に行った。すでに食べ終わったらしいラウドが出て来るところに出くわした。ラウドがふたりを見た。リィイヴとヴァンが緊張して頭を下げた。 「おはようございます、殿下」 ラウドが軽く顎を引いた。 「おはよう」 悠然と立ち去る後ろ姿を見て、ヴァンがため息をついた。 「やっぱり、なんか威厳があるっていうか…持って生まれたってやつなのかな」 リィイヴが目を細めた。 「資質と環境かな」 イリィやサリュースもやってきて、みなで朝食を済ませた。 イージェンとリィイヴで片付けをしていると、サリュースが顔面蒼白であわてて駆け込んできた。 「おい!殿下になんてことさせるんだ!」 リィイヴを押しのけて、イージェンの襟首を掴んでゆさぶった。 「あのようなことまでさせるなど、陛下になんて申し上げればいいんだ!」 イージェンがサリュースの手をはたき退けた。 「おまえは、ほんとに融通が利かないヤツだな、陛下に一から十まで報告するのか」 サリュースがまた不愉快なことを言われて顔を歪めた。 「いやならやらなくていいと言ったが、殿下はやると言ったんだ。おまえがとやかく言うことじゃない」 サリュースが戸惑った。 「殿下はやると言われたのか」 イージェンがうなずき、皿を棚に片付けながら言った。 「明日はおまえの当番だからな」 サリュースがこわばって後ずさった。 「うそだろう、このわたしにもやれというのか」 イージェンのにやっと笑った顔が浮かんできた。 「目録はできたのか。エアリアは手伝っている余裕はないぞ」 夕べ騒いで罰に三十冊覚えることを命ぜられたと言っていた。一冊、三百頁以上、ぎっしりと書かれている。同じようなことをヴィルトにやらされたが、瞬間に記憶する能力がないと難しく、サリュースはエアリアほどには能力がなかった。エアリアならばできるだろうが、かなりの集中力が必要だ。後で無作為に抽出した頁を空で言わせるのだろう。いじわるな罰だ。 心配どおりにやりたい放題だ。船長室に向かいながら、総会がどうなるか心配になってきて、鬱々とした気持ちになっていった。
ラウドは船倉の汚水水槽に掛かっている梯子の上に上がり、みんなの船室から回収した用桶の中身を空けていた。口元を手ぬぐいで覆い、袖をまくって、ゆっくりと丁寧に流していた。覆いをしても汚臭が鼻を突く。牢屋でこの臭いのために散々吐いた。慣れはしないが、そのおかげでなんとか耐えられていた。 さすがに屎尿処理をやれといわれたときは驚いたが、イージェンの指示には従いたかった。もっといろいろと教えてほしいと思った。 ヴィルトは未来の国王としての教養や知識、心構えについて厳しく熱心に教えてくれた。王族貴族は、知識と組織を駆使して、民の暮らしや国土を守るために力を尽くさなければならない。安定した生活を保障されている反面、その責任は重いはず。奮起を促したり法を守らせるために強権を示して脅したりはするが、権力は民と国のために使うもの。そのように教えられ、ラウドも深く理解していた。だが、ラウドは王族や貴族と民とは、生まれ、立場、さだめは違っていても、身体や心がそれほどに違うわけではないということをもっと知りたかった。飲み食いしたり、泣いたり怒ったり、愛したり憎んだり、なんら変わるところはないとラウドは感じていた。イージェンはヴィルトとは違った形でそうしたヒトの営みや性(さが)について、教えようとしてくれているのだと感じた。ヴィルトを慕っていたのと同じようにイージェンも敬慕すべき存在と思うのだった。 空にした用桶を水槽の横にある大きな洗い桶に水を入れ、ささらで中を洗った。洗い終えた用桶を重ねて、船尾の甲板に持ってのぼった。飛ばないように取っ手を縄で縛って手すりにくくりつけて乾かした。セレンがリュールとやってきた。 「殿下、手伝います」 「いや、もう終わった」 リュールがラウドの背中に飛びついた。笑ってそのままにしていると、船室からイージェンがやってきた。乾かしている用桶をじっくりと見てからセレンの頭に手を置いた。 「明日はサリュースにやらせる。殿下ほどきれいに洗えればいいがな」 ラウドが笑い出した。 「サリュースに?それはいい!」 イージェンが船首の方に首を巡らせた。 「そろそろ、海に出るぞ」 セレンの目が輝き、船首に向かって走り出そうとして、思いとどまり、外を見ないようにしておそるおそる歩き出した。 「セレン、あのせいで高いところが苦手になったのかも」 ラウドがもうしわけなさそうに言った。イージェンが尋ねたのでプレインの一件を話した。 「そのことか、それはこわかったろうな。殿下も生半可な知識でテクノロジイを扱う恐ろしさがわかっただろう。だが、そのプレインはたいしたものではない。マシンナートたちはもっといろいろなテクノロジイを隠し持っている」 ふたりはセレンの後を追って船首に向かった。途中でセレンが手すりにしがみついているので、ラウドが手を握って連れて行ってやった。船首側に着くと、目の前は青空いっぱいに広がっていて、ところどころに白い雲が浮かんでいた。さらにへさきに近寄り、先を見た。 「あれは…海か」 日の光を受けてきらきらと輝く水のひろがりが見えてきていた。その広がりがどんどん大きくなっていく。しばらく見つめていたが、イージェンがセレンにヴァンたちのところに行くようにとラウドから離した。 「三人で手習いをしてろ。昼すぎには海の上に出る。そうしたらまた見に出て来い」 書物や書写を知らないリィイヴとヴァンに慣れさせるために、三人で手習いさせようということだった。 セレンがうなずいてラウドの肩にしがみついているリュールを受け取って船室に入っていった。ラウドには艦橋の窓を拭くよう言った
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