リィイヴは厨房を出て、船底ではなく船尾に向かっていた。船体はほとんど揺れも感じないほど安定していた。船尾から下に下がろうと梯子か階段を探した。船尾のほうの甲板では、ヴァンたちがせっせと拭き掃除していた。螺旋の階段を見つけて降りていった。底に降りるに従って、しんと静まり返っていく。本来あるべきものは見つからなかった。 「探し回ってもプライムムゥヴァはないぞ」 背中からいきなり言われ、驚いて後ろを振り返った。 「イージェン…」 嗅ぎまわるようなことをして、咎められると思った。緊張したが、付いてくるよう言われ、後に従った。船底はほとんどヒトや物資を乗せるための仕切りをした倉のようだった。 「床を拭け、夕方まで時間がない」 堅く搾った雑巾を投げてよこされた。言われたように拭き始めた。イージェンも熱心に拭いている。ふたりは黙々と拭き続けた。 何時間か経ったころ、イージェンが声を掛けた。 「そろそろ厨房に行って夕飯作る手伝いをしろ」 「わかった、行くよ」 雑巾を木桶に入れ、階段を見つけて上がっていった。 厨房に行くとエアリアが戻っていて、支度を始めていた。リィイヴを見て、ちょっと頬を赤らめた。 「何手伝えばいい?」 野菜を洗うよう言われ、水を桶に移した。芋や緑草を洗い、籠に入れていく。芋の皮を剥いてくれと庖丁を渡された。途方にくれ、すまなそうに言った。 「ごめん、やったことないんだ」 エアリアが手を止め、リィイヴの手から芋と庖丁を取った。 「こうやるんですよ」 芋の皮に刃をあて、芋を回しながら刃で皮を剥いていく。丁寧で早かった。ふたつやって見せた。ふたたび庖丁を受け取って真似してみた。だが、そんなにするするとはいかない。皮もエアリアのように帯のようにはならず、少しずつしか剥けなかった。苦労している様子を見て、エアリアが言った。 「それで充分ですよ、きちんと剥いてあれば」 うなずいたリィイヴがなんとか残りの芋を剥いた。野菜を茹で、燻製肉を薄切りにして盛り付けていく。麦の粥に滋養のあるバァイルの実を散らし、捏ねた小麦で薄い皮を作りパリパリに焼いて添えることにした。 食後に食べるようにと果物の皮も剥いた。芋よりも難しく、滑って指先をかすった。 「つっ!」 「大丈夫ですか!」 エアリアがリィイヴの指に触れて見ると傷はそれほど深くはないが血がにじんでいた。その指の上に手をかざした。白く淡い光が出て、切り傷がふさがった。痛みもなくなっている。驚いて指先を何度も見直した。 「…ありがと…」 エアリアが小さく首を振り、食器を出してくれるように言った。 食器と出来た料理を食堂に運びこんでいった。食堂の窓から外を見るとすっかり日が暮れていた。大きな夕日が西の山に落ちていくのが見えた。リィイヴが見とれているのに気づいた。 「珍しいですか、夕日」 リィイヴが窓に寄った。 「何度も見てるよ、二年くらいテェエルにいたから。でも…格別だ」 リィイヴは、夕飯が出来たとみなに報せにいった。戻るとイージェンが食堂で料理を見ていた。食堂に入ってきたリィイヴやヴァンたちに言った。 「エアリアの料理はうまいぞ。こいつの料理を毎日食べられるやつはしあわせものだ」 配膳していたエアリアがつんと顔を逸らした。 「師匠(せんせい)、わたし調理師じゃありませんけど」 イージェンが小鉢に入れた粥に手ぶくろの指を入れてかき回した。 「誰が仕事でと言った。亭主に食べさせてやるに決まってるだろう」 「師匠!」 エアリアが真っ赤になって厨房に駆けて行った。リィイヴとヴァンがやれやれといった顔を見合わせた。イリィを従えて来たラウドが不機嫌そうに窓際の席に座った。 「いい味だ、たくさん食べろよ」 セレンの頭を撫で、リュールにやるからと粥の小鉢を持って食堂を出て行った。セレンが皿や小鉢をラウドのテーブルに持ってきた。 「殿下、どうぞ」 ラウドが隣に座るよう手招きした。 「イリィ、セレンの分、もってこい」 イリィが立とうとすると、エアリアが盆を持って近寄ってきた。 「どうぞ」 セレンの分を置いてお辞儀し、サリュースと一緒のテーブルに着いた。ラウドが水の杯を掲げ、立ち上がった。みなも杯を持ち、立った。 「旅の無事を祈って」 ラウドが水を飲み干し、みな続いた。ヴァンとリィイヴも周りに合わせた。ヴァンが粥をすすり、パリパリの焼き皮をかじった。 「たしかにおいしいな、昨日食べたやつとは違う」 リィイヴも燻製肉にかけているたれがおいしいと思った。ふと見られているような気がして顔を上げた。ラウドが鋭い眼で睨んでいた。ヴァンも気づいたほど露骨だ。ひそひそと小声でヴァンが言った。 「リィイヴ、おまえ、なんか殿下に睨まれるようなこと、したのか?」 リィイヴが首を傾げた。みな、きれいさっぱり平らげた。 ヴァンとリィイヴが後片付けすることになった。ヴァンが洗い物で汚れた水を桶に入れた。 「この水どうするんだ?」 リィイヴが蓋をして取っ手の片方を持ち、もう片方をヴァンに持つように言った。 「船倉に汚水を溜める水槽があるみたい。そこに入れておいて、後で外に流すらしいよ」 帰りにきれいな水を持って上がることになっていた。 「浄化とか消毒とかしないんだろうから、俺たち平気かな」 抗生物質はない。感染症などになったらとヴァンがちょっと心配そうに桶を見た。二年間テェエルで暮らしていたとはいえ、トレイルでは衛生的に過ごしていたのだ。 「イージェンがあのお茶を飲んでいればおなかを壊すことはないって言ってたし、もし病気になったら、治してくれるよ」 船倉の水槽の蓋を開け、中に捨てた。その横にある別の水槽から水を汲んだ。厨房まで運んで一息ついた。 「毎日こうかな」 ヴァンが水を飲んでため息をついた。リィイヴももらって飲んだ。 「身体動かしているほうが、何も考えなくてすむんじゃないかな」 ヴァンが苦笑した。扉口から顔が覗いた。セレンだった。足元にはリュールがいた。いつも肩から提げている布鞄を前にして何か言いたげにしていた。 「どうしたんだ?」 ヴァンが腰を折ってセレンの顔をのぞきこんだ。セレンが布鞄から銀の包みを出して、ヴァンに差し出した。ショコラァトだった。 「これ、お姉さんにもらったんですけど、ぼく、食べないから、ヴァンさんにあげます」 ヴァンが震えた。セレンがヴァンの手のひらに置いて、リュールと一緒に早足で去っていった。ヴァンがショコラァトを両手で包み込んで大きな身体を折り曲げて泣くのを堪えた。 「リィイヴ、俺…アリスタに…会いたい」 リィイヴが腕を取って立たせた。 「ぼくも…会いたいよ」 ヴァンは何度もうなずいて、リィイヴの肩に抱きつくようにして部屋に向かった。 リィイヴは、部屋は別だったが、寝るまで一緒にいてやろうとヴァンの側にいてやった。甲板掃除はかなり疲れたらしく、ヴァンはベッドに横になるとすぐに寝てしまった。しばらく寝顔を見ていたが、部屋を出た。 すぐ部屋には入らず、甲板に出た。月は新月らしく見えなかったが、星が降ってくるほど満天に輝いていた。甲板に寝転がって見上げた。視界に影が入った。起き上がって見た。 「イージェン…」 イージェンが横に腰を降ろした。 「今夜は月は出てないが、その分星がきれいに見えるな」 向けてきた仮面を見つめ返した。 「おまえ、インクワイァだな」
|
|