出発とはと尋ねるラウドに後ほどとエアリアが牢から出るよううながした。隣の牢の鍵も開けられ、黒髪がイリィに肩を貸して出した。 「殿下…その傷は…」 エアリアが先に出て行こうとしたラウドの背中を見て震えた。黒髪が怒ったような口調で言った。 「鞭の痕です。傷薬塗ってやるというのに、いらないと意地を張られるから。残りますよ、その傷は」 ラウドが腕を回して背の傷に触れた。 「イリィには塗ってやらないというのに、俺だけなんていやだったんだ、別に残ったっていい」 出てきたラウドの背中を見て、イージェンが笑った。 「なかなかいいじゃないか。お妃でもないと見られないのがもったいないくらいだ」 ラウドが不機嫌そうにそっぽを向いた。 王太子宮に戻ったラウドは、身体を洗い、身づくろいをして、後宮の国王に挨拶に向かった。 「父上、ご心配をおかけしました」 国王は、両手を床につけて頭を下げるラウドの手を取り、立たせた。 「立派に罰を受けたと聞いた。さぞつらかったであろう」 ラウドは再度頭を下げた。そして、茶色の木箱を差し出した。 「お返しします」 カーティアの姫に渡すはずだった婚約の印の首飾りだ。従者に受け取らせて、自分も座りながら、ラウドに椅子に座るよう勧めた。 「カーティアの姫はお気の毒なことだった。兄王ジェデル殿もさぞかし嘆かれているだろう」 イージェンが精錬したという茶を飲んだ。国王もとても気に入ってもう三杯目だった。 「大魔導師殿、変わってはいるが、なかなか気骨があるように思う、そなたはどう見たか」 国王はラウドに尋ねた。苦い茶をなんとか飲み込んでいたラウドが一旦考えてから返事をした。 「少し乱暴なやり方をしますが、厳しさの現われだと思います。とても情けがあり思慮深い人柄です」 国王が満足そうにうなずき、リュリク公やヴァブロ公も同じように感じたようだと言った。 「そなたの見聞を広げるためにティケアに連れて行きたいということだが、是非行ってきなさい」 否やがあるはずはない。しかもエアリアと一緒だ。こんなうれしいことはない。 「はい、是非」 戻ったらいろいろと話を聞かせたいとはしゃぐラウドに国王が目を細めた。 「王太子、せっかくの結婚がだめになってがっかりしているだろうが、気を落とさないように。また宮廷で妃候補を検討することになっているから」 ラウドはまた気持ちが沈んでいった。 父上は全然わかっておられない。 明日は早いのでと出発の挨拶を済ませ、王太子宮に戻った。旅の支度をしているとラウドの気分も晴れてきた。もう妃のことで悩むのは止めよう。どっちにしても娶らなければならないのだ。妃となる姫には優しくしなければならないが、エアリアのことを忘れることはできない。無理に忘れようとか押し込めようとすることは止めた。 リュールがようやく帰ってきたラウドに嬉しそうに尻尾を振って足元を巡っていた。
翌日朝早く、イリィ・レンがラウドを迎えに来た。荷物を馬に載せ、リュールを抱えて学院に向かった。学院の玄関広間に入るとリュールが腕から飛び降りて、一直線に走っていった。 「バァウ!」 リュールが走っていくその先を見てラウドも走り寄った。 「セレン!」 リュールが飛びつき、ラウドがリュールごとセレンを抱き上げた。 「殿下、リュールの面倒みてくれてありがとうございます」 ラウドが頬を寄せてセレンをぎゅっと抱きしめた。ふたりの間からこぼれたリュールが側に立つ仮面を不思議そうに首を傾げて見上げた。 「リュールっていうのはこいつのことだったのか」 イージェンがリュールの首根っこを掴んで吊り上げた。リュールはキャンキャン鳴いてもがいていたが、すぐにおとなしくなった。 「いい子だ」 鼻先を手ぶくろの指でちょんと突付くとリュールがキュゥンと嬉しそうに鳴いた。リュールをセレンに返してやり、ラウドに軽く頭を下げた。 「おはよう。どうだ。体調は」 具合は悪くないと返した。 「では、行くか」 イージェンはそう言うと、奥の方に向かっていく。 「行くかって…」 ラウドが振り返って後ろの玄関扉を見た。セレンがイージェンについていくので、イリィと顔を見合わせ、荷物を肩にイージェンに付いて行った。 スケェィルに入っていく。ふたりとも初めて入る部屋にきょろきょろと落ち着きなく見回した。部屋の真ん中の大きな石板の前にシドルシドゥが立っていた。当番は一週間交代なのだ。 「殿下、ごきげんよう」 シドルシドゥがお辞儀した。同じ年頃なので子どもの頃はよく遊んだが、エアリアが極北に行ってしまってから、巡回も増えて忙しくなり話もあまりできなかった。 「シドゥ、元気か」 シドルシドゥははいと返事して、イージェンに向き直った。 「イージェン様、他のものたちはみな降りていきました」 イージェンが奥に進みながら言った。 「なにか異変があったら、すぐに遣い魔を寄こせ。赤い書筒なら、遠方まで運べる」 シドルシドゥは第二特級、残る魔導師の中では一番魔力が強い。緊張した顔で頭を下げた。 奥へ続く廊下突き当たりから、地下への階段があった。イージェンがリュールを腕にしたセレンを抱えて降りていく。その後に続いた。急に広いところに出た。ひやりと冷たい。 「これは…」 ラウドが見回した。イリィも声もなく見つめている。広い洞窟のようなところに大きな船が置いてあった。 「船か、どうやって海に出るんだ」 ラウドが首をかしげた。このような大きな船が海に出られるような大河は王都からはもちろん近くにも流れていない。 「こいつは空を飛ぶ船だ」 イージェンが振り向いた。ラウドが目を丸くして息を飲んだ。船の横腹から舷梯が出ていた。斜めの板を登り、大きな船倉に入った。食料の袋、野菜の籠や樽がいくつも置かれていた。 「おはようございます、殿下」 船倉の奥にいたエアリアが頭巾を落として挨拶した。ラウドがぷいと横を向き、ご苦労とそっけなく言って通り過ぎた。 エアリアが少しむっとした顔でセレンにラウドを船室に案内するよう言った。セレンがあわててラウドを追いかけ、案内した。 「ここが殿下のお部屋です」 イリィは隣の部屋で、ふたりは荷物を置いてセレンと艦橋に向かった。艦橋は扉が開いていて、イージェン、サリュース、エアリア、そして見知らぬものがふたりいた。 艦橋は操舵管が中央にあり、前面と両脇が大きなガラス窓になっていて、木の壁に囲まれ、前にごく小さな窓があるだけの軍船とちがって開放的だった。 「殿下、おはようございます」 サリュースが胸に手を当てて頭を下げた。ラウドが応じてから、ちらっと見知らぬふたりを見て、尋ねた。 「そのものたちは…」 いいかけて、思い出した。 「そなたたち…もしかして、カサン教授といた…」 ヴァンとリィイヴが緊張した。まさか覚えているとは思わなかった。イージェンが感心した。 「覚えているのか、カサンと一緒にいたマシンナートたちだ」 ラウドがうなずいた。王族は、ヒトの顔と名前をすばやく覚えるよう訓練されるのだが、ラウドは飛びぬけて物覚えがよかった。 「俺と友だちになったために、マシンナートたちに殺されそうになった。それで連れてきたんだ」 ラウドがふたりをまじまじ見て、尋ねた。 「カサン教授は大丈夫なのか」 ふたりは答えようがなかった。困って下を向いた。イージェンが代わりに答えた。 「カサン教授は殿下をたぶらかしてエスヴェルンをカーティアのように混乱させようとしたんだ。ヴィルトがバレーを消滅させたときに巻き込まれたか、あるいは逃げおおせたかはわからんが、気にすることはない」 ラウドが少し暗い顔でうなずいた。イージェンが操舵管の前に立った。 「出発だ」
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