エスヴェルン王宮で育ったエアリアは、幼い頃、よくラウドと王宮内を探検しようといろいろなところに潜り込んでは、ヴィルトに見つかり叱られていた。牢屋にも忍び込み、ぼろをまとった虜囚たちの恐ろしい姿にふたりで泣きながら逃げ出したこともあった。牢屋のある建物の入口までやってきたとき、そんなことも思い出した。エアリアの姿を見て、入口の衛兵がすぐに扉を開けた。牢番が見咎めた。 「これは魔導師様、なんの御用で?」 たくましい身体つきの黒髪の男だった。エアリアが面会の許可書を見せた。牢番はちらっと見て、壁際にいた禿頭の大男に言った。 「殿下にご面会だそうだ」 瓶から酒をあおっていた大男が、椅子から立ち上がり、瓶をどんとテーブルに置いた。壁際に掛かっている鍵の中からひとつ掴んで、黒髪に投げて寄こした。手を上げてチャッと受け取った黒髪が薄笑いを浮かべてエアリアに顎をしゃくった。 「どうぞ、こちらですよ」 黒髪の後に続いて奥の扉の中に入っていった。そこは中庭のようになっていて、いくつもの牢屋の棟が囲んでいた。王宮内の牢屋に拘禁される虜囚は、貴族や上級の軍人である。今はそれらの牢に繋がれているものはいなかった。さらに先に進むと階段があって地下に続いている。降りていった。さらに扉の中に入っていくと、湿ったかび臭い空気がよどんだ地下牢だった。飼い葉が敷いてあるだけで寝床もなく、隅に用を足す桶があるだけだった。悪臭がしてきて思わず鼻と口元を袖で覆った。 「…こんなところに…」 手前の牢の壁に寄りかかっていた男がヒトが入ってきたことに気づいて、四つんばいで柵に寄ってきた。見上げてきた。 「…エアリア…殿?」 くすんだ顔に髭が生えていた。イリィだった。エアリアが驚いて絶句した。 「イリィ殿…」 黒髪がその隣の牢の前で止まり、施錠を外した。ギィッと音がして入口が押し開かれた。エアリアが戸惑っていると、黒髪が突き飛ばすようにして中に入れた。 「あっ!」 いきなりのことで、エアリアはよろけて床に倒れてしまった。一番奥隅の飼い葉の山が動いた。乾いた草の間から、声が漏れた。 「…だれだ…」 しゃがれた声で一瞬誰かわからなかった。しかし、草にまみれた顔が見えてきた。 「…殿下…」 エアリアが身体を起こしながら呼びかけた。 「エ…アリア…」 ラウドが半裸の姿で這い出て近寄った。エアリアに手を伸ばしかけて止めた。 「無事に戻ったんだな…よかった」 ひとりで戦場に向かわされて心配でたまらなかった。無事な姿を見て安心し、先ほどまでエアリアを想って身体を熱くしていたことが恥ずかしくなった。エアリアが頭巾を落とした。銀色の髪がはらっと肩に垂れ、前髪の間から悲しそうな目が見えた。ラウドは下を向いて見ないようにした。顔を見たら抑えられなくなりそうだった。 「殿下…ヴィルト様が…」 それ以上なかなか言えないエアリアにいらだって怒鳴った。 「仮面がどうした!」 エアリアが口をつぐんだ。言いたいことがあるならさっさと言って出て行ってほしかった。みだらなことをした後が残る姿を見られたくなかった。牢の外にいた黒髪が中を覗き込み柵に手をかけた。 「殿下は毎晩魔導師様の名前をせつなそうに呼んでおられます、お慰めしてあげたらどうですか」 ラウドは恥ずかしくて顔が火照った。エアリアが振り向いて手のひらを向けた。手のひらから風が吹き出し、柵の間から吹き出て黒髪の身体を吹き飛ばした。 「うあっ!」 尻餅を付いた。エアリアが立ち上がって冷たい眼で見下ろした。 「怪我をしないうちにここから立ち去りなさい」 黒髪がやれやれという顔で肩をすくめて出て行った。 決意したエアリアが向き直って、両膝を付いた。 「殿下、ヴィルト様が亡くなられました」 ラウドが顔を上げた。唇を震わせた。 「うそだ…」 エアリアが首を振り、眼を伏せた。 「ほんとうです。寿命が来ていて…マシンナートの都を消滅させて…力尽きたのです」 ラウドがぶるっと身体を震わせ、ぼろぼろと涙を零し、頭を振った。 「うそだ!仮面が、仮面が死ぬはずないっ!」 土の床に拳を叩きつけて子どものように泣き出した。 「わっぁあっ!」 エアリアがラウドの腕を掴もうとしたが、ラウドが振り払った。悲しみというより怒りだった。 「ヴィルト!死ぬなんて、死ぬなんて許さない!許さない!」 エアリアの両手がラウドの両腕をつかみ、堅く握った。ラウドが驚いて眼を見張った。 「お悲しみはわかります!でもそんな無理なことを!ヴィルト様が安らかに眠れないではありませんか!」 ラウドが懸命に歯を食いしばった。エアリアが手を離し、唇を噛み締めた。 「わたしだって…悲し…い…です…でも…」 泣いてばかりではいられない。魔導師としての使命がある。これからもっと大変になる。 ラウドがおそるおそる汚れている手でエアリアの肩を掴んで引き寄せた。背中に手を回し堅く抱きしめた。 「すまん…そなたのほうがずっと悲しい…よな」 育ての親でもあり師匠でもあった。自分以上に悲しいことに気づき、泣き喚いたことを申し訳なく思った。エアリアがラウドの胸に頬をつけた。汚臭も気にならなかった。 「そなたが…後継者になるのか」 ラウドの声は震えていた。仮面を継ぐことになれば、その顔は仮面で覆い、手ぶくろをしてヒトに肌を見せない姿になるのだろう。エアリアがそれを望んでいる。自分の側にいるためにもそうしたいと。側にいてくれるのはうれしい。だが。 ラウドはエアリアをこの場で抱きたくてたまらなくなった。大魔導師になったら二度と…。身体が熱くなって息が荒くなっていく。エアリアが顔を上げた。 「殿下、わたしは…後継者になれませんでした、後継者は…」 エアリアがはっと後ろを振り返り、ラウドから離れた。ほの暗い灯りの前に大きな影が立っていた。ラウドもそちらを見て声を裏返した。 「…か、仮面!?」 ゆっくりと柵の前にやって来た。 「殿下、悪いがヴィルトではない」 ラウドの眼が玉のように丸くなった。 「イージェンか?」 「ああ」 ヴィルトを失った悲しみはそれとして、イージェンが仮面を継いだことにほっとしていた。大魔導師は必要な存在だ。でも、エアリアにはなってほしくなかった。イージェンなら、きっと大魔導師として立派にやってくれる。無礼な振舞いなどでサリュースたちともめるかもしれないが、そんなことは些細なことに思えるほど、ふさわしい。イージェンが牢の中に入ってきた。 ラウドは居住まいを正し、片膝を付いて深く頭を下げた。 「大魔導師イージェン殿、王太子ラウドです」 見下ろしていたイージェンが、立つよう言い、今度は自分が膝をついた。 「王太子殿下、ヴィルトの後を継ぎ、大魔導師となりましたイージェンです。ヴィルトにはかないませんが、殿下が立派な国王になるよう力を注ぎます」 ラウドがうなずき、立つように言った。イージェンは立ち上がり、ラウドに仮面を向けた。 「覚悟しておくんだな、俺はヴィルトのように甘くないぞ」 ラウドの顔が引きつった。エアリアがちょっと苦笑して唇に手を当てたのを見て、今度はエアリアに向けた。 「エアリア、おまえもだ。俺の弟子にするから、死ぬ気で付いて来い」 ふたりはぎょっとした顔を見合わせ、あわててお辞儀した。横の牢でイリィがすすり泣いていた。気づいたイージェンが覗き込んだ。 「おまえ、カーティアで会ったな、クリンスと一緒にいたやつだろう」 エアリアが近づいた。 「王太子殿下の護衛隊隊長イリィ・レン殿です」 イージェンが後ろを振り返りラウドを見ながら言った。 「そうとう苦労してるだろうが、その甲斐はある。これからもよろしく頼むぞ」 イリィが号泣しながら何度も頭を床につけた。 こいつもフィーリと同じにおいがする。そう刷り込まれてきたのだろうが。 イージェンはそれでも素直に従って主君に尽くそうとするもののまごころを大切にしたかった。 先ほどの黒髪が釈放の命令書を持ってきて、牢から出てきたイージェンに渡した。 「ふたりとも釈放だ。明日、出発するから支度しろ」
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