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作品名:異能の素子 作者:本間 範子

第78回   《外伝》イージェンと銀環の月(下)-(4)
 翌日から赤ん坊の世話で忙しかった。ティセアは何時間かおきに乳を含ませるだけでしんどいようだった。何日か経っても汚物のついたおむつを取り替えたりする下(しも)の世話ができなかった。
 イージェンが川に洗い物をしにいくと出て行った後、赤ん坊が下を汚して泣いているのがわかった。
「どうしよう…」
 小水だけでないのは鼻を突く臭いでもわかった。そのうち、イージェンが帰ってくるだろうから、それから替えてもらおう。そのままにしていると、赤ん坊は一度泣き止み、それからすぐにまた泣き出した。それからしばらく泣き続け、疲れてぐったりとなってしまった。さすがに心配になってきた。ギィッと扉が開き、イージェンが帰ってきた。
「イージェン!赤ん坊が…」
 青ざめた顔でいうのでイージェンが木桶を落とし、駆け寄った。
「どうした!」
 抱き上げ、すぐにティセアを見た。
「下が汚れているだけだ、でも、ずいぶん時間がたってる。どうしてすぐに替えてやらなかった」
 イージェンには訳がわかっていたがあえて問い詰めた。ティセアが下を向いて消え入りそうに言った。
「その…きたない…」
 汚物の臭いなど吐きそうになる。まして汚れた尻など触ったりできない。イージェンがティセアの肩を小突いて押しやった。ぬるま湯を桶に入れてもってきて、おむつを外して尻いっぱいに広がっている汚物を拭き、ぬるま湯に付けて尻を洗った。
「見てみろ、糞つけたままほおっておくから、尻が赤くなってるぞ」
 見てみろと言われてちらっと目を向けた。たしかに赤くなっていた。敷物もぐっしょりと濡れてしまっていた。乾いたものに替えて、寝かせた。ティセアが抱き上げようとしたところをイージェンが手を叩き払った。
「あっ!」
 痛かった。怒っている。こんなに怒られたのは初めてだった。
「赤ん坊は誰かに世話してもらわないと死んでしまうんだぞ。俺がいるときはいい、だが、いないときはおまえが世話をしなくては」
 ティセアが震えた。
「でも…さわれなくて…」
「おまえは城で従者にでも尻を拭いてもらってたのか」
 ティセアが恥ずかしくて赤くした顔を伏せて首を振った。
「おまえは死んで腐りかけてた子どもを抱きしめてやっていたじゃないか。あの子を抱きしめることができたおまえに、赤ん坊の下の世話くらいできないわけはない」
 ティセアがはっとして薄く濡れた目を上げた。イージェンの目は静かで怒っていなかった。赤ん坊のベッドの縁を握った。
「…すまない、ほおっておいて…今度からきちんとするから…」
 許して…と泣くティセアを背中から抱きしめた。
 ティセアが毛布を折りたたんで厚くして置いた椅子に腰掛けた。イージェンがティセアの銀の髪を梳いてひとつにまとめ、きれいに編んでやった。終わってから椅子に座り、書物を広げて読みながら言った。
「赤ん坊の名前、決めないと」
 ティセアが少し考えていたが、赤ん坊のほうに目をやった。
「できれば父上の名前をつけてやりたいが…」
 キリオスの名を残したいという気持ちはあるが、身分がわかってしまうかもと思うとためらいもある。そのことを言うと、イージェンが書物をめくりながら返した。
「いいじゃないか、この国から出てしまえば、そんなこと気にしなくていい」
 ティセアがうれしそうに笑った。

 翌日からティセアは最初もたもたしながらもおむつ替えをし始めた。なにかも始めてのことをふたりは力を合わせてひとつづつこなしていった。
二の月も終わり、三の月に入って、雪解けが始まった。ふもとではすでに春が訪れ、山の上にも遅まきながら芽吹きが始まっていた。キリオスは月足らずで生まれたにもかかわらず、よく乳を飲み、元気に泣いて、ひとつきでぐんぐん大きくなっていった。

 ふもとの村では日陰に残るくらいで雪も解け、川沿いに花も咲き出した。裏の畑を耕していたジャルジャの母親をジャルジャが母屋に来るよう呼びに来た。ラガンが偉いヒトたちを連れてきて、聞きたいことがあるので連れて来いと言っているらしい。母親がジャルジャを叩いた。
「余計なこと、いったんじゃな!」
 ジャルジャがすまなそうに頭をかかえた。
「ラガン様相手にごまかしたりできんよ」
 母屋に行くと、ラガンのほかに軍人がふたり、灰色の外套をすっぽりかぶった男がいた。青白い顔で母親をじろりと見た。魔導師のようだった。ラガンが母親に椅子に座るよう示した。母親が座り、上目遣いで軍人たちを見た。ラガンが尋ねた。
「おふくろさん、前の月に旅のものの子どもを取り上げたって言ってたよな。そのものたちのことをこの方たちに話してくれ」
 産婆は女の方が誰かわかっていた。男が名前を呼んでいたし、銀髪の麗人のことは知られていた。
「どってことない旅の夫婦ですよ。若そうでしたが、それ以外はよくわかり…」
 途中で軍人のひとりがテーブルを叩いたので、産婆がおびえて口を閉じた。
「正直に話さないと、処罰するぞ。おまえの息子も一緒にな」
 産婆が恐ろしくなって震えながら椅子から降りて頭を床に付けた。
「おゆるしください、話しますから、息子だけは…」
 魔導師がゆらりと産婆の前に立った。

 ひとつきが過ぎたので、ティセアは少しずつ水仕事をしだした。食器は小屋の水桶で洗うが、服や敷き物などは川で洗濯する。天気のよい日、おしめを洗いに川に下りてみた。雪はまだまだ残っていたが、川へ下りる道はイージェンが踏みしだいていたので降りやすかった。雪解け水は手を切るように冷たく、ときおり手を息であたためながら、洗濯した。チチチッと小鳥の声が聞こえてくる。
「…春だな…」
 春になると城は花で一杯になり、小鳥や山の鳥達がたくさん集ってきて、民と共に春の訪れを喜ぶ賑やかな祭りをして…母は早くに亡くなったが、厳しくも優しく気高い父や忠義に厚い側近たちに囲まれてなに不自由なく過ごしていた。
「父上…このまま父上や民の恨みも晴らさず、州の復興もせずに…わたしひとり隠れ生きて…」
 それでいいのかとも思う。ラスタ・ファ・グルアの名を失い、このままイージェンと他の国に逃げて。でもいいと思わなければ、この先、生きていけない。
「もう…忘れよう…」
 春の風に銀の髪がゆっくりと揺れた。
 洗濯して小屋に戻るとイージェンがキリオスを抱いて日なたで日に当たっていた。キリオスに歌を聞かせていた。
「…眠れ、眠れよ、わが子よ。いとしきわが子よ。いと澄みしき天空、いと清やけき大地、いと広き大海、すべてがそなたの眠りを妨げまじと静まり、すべてがそなたの眠りを守らんとす。眠れ、わが子よ、微笑みつつ、眠れよ…」
 美しい歌詞と滔々とした歌声にしばし耳を奪われた。気づいたイージェンが洗濯物の木桶を下に置いたティセアにキリオスを渡した。ティセアがすやすや寝ているキリオスの頬に口付けてから尋ねた。
「今の歌は…」
 イージェンが洗濯物を枝の間に渡した綱に干した。
「母が歌ってくれた子守唄だ。古い歌だ」
「そうか…教えてくれ、わたしも歌ってやりたい」
 イージェンがうれしそうにうなずいた。
 部屋に入ってから、イージェンは地図を広げて、ティセアに見せた。
「この山を越して隣国に入ろうと思ったんだが、この峠の向こうは切り立っていてとても降りられない」
 ティセアがその切り立った場所を指で示した。
「その昔、大魔導師がこの地の災厄を鎮めるために山の一部を消したと言われているところだ。隣国に行くには、ふもとに下りて山を迂回するしかない」
 イージェンが難しい顔をしたが、決断した。
「そろそろ猟師やきこりが山に入ってくる。ここを返さないといけない。山を降りよう」
 崩した崖の道も直し、小屋も原状に戻すことにした。
 翌日からイージェンは周囲に作った石の貯蔵庫や馬小屋、雪囲いを壊し、出発の準備をした。崩した道の石や土を退かして、通れるようにした。
 出発の前日、イージェンは荷物をまとめ、買った本をきれいに棚に置いた。全部はもっていかれなかったので、ほとんど置いていくことになった。
「きっと、種火をつけるのに使われてしまうだろうな」
 苦笑していたが、寂しそうだった。夕飯の後、ティセアが皿を洗っている後姿をイージェンが見つめていた。
 この小屋で最後の夜。
 片付けたティセアが前掛けで手を拭きながら言った。
「茶、入れるか?」
 テーブルで入れた茶を飲んだ。
「今日で…ここも最後だな」
 ティセアが小屋を見回した。イージェンも見回した。
「ああ…ありがたかったな、ここを使わせてもらえて」
 イージェンが急に椅子から立ち上がった。少し身構えたティセアの身体を軽々と抱き上げた。
 身体が熱く荒々しくなっても、ずっと我慢していた。ティセアの身体のことを考えて。だが、もうこれ以上求めずにはいられない。
「ティセア…」
 ゆっくりとベッドに運び、静かに横たわらせた。自分もその横に身体を寝かせて、指先でティセアの髪を梳いた。
 ティセアがイージェンの肩に手を置いた。
「ティセア…好きだ…」
「イージェン…」
 どちらかともなく顔を近づけ、唇を求め合い、重ね合った。
 イージェンは好きな女との口付けだと、こんなにも気持ちのよいものなのだと感激した。口付けでこんなによいのだから、抱いたら…きっと…。
 最後の夜。春まだ浅い山の夜空には、一の月が銀色に輝いていた


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