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作品名:異能の素子 作者:本間 範子

第77回   《外伝》イージェンと銀環の月(下)-(3)
 白々としてきた外がさらに明るくなってきていた。さっきまで痛んでは引きの繰り返しだったが、引きの間隔が短くなってきて、間断がなくなった。腹の水はかなり出てしまったようで、股や太ももが濡れて冷え、さらに身体の熱を奪っていた。
「イージェン…うっ…」
 ひとりにしないで、帰ってきて。
 背中が反り返るほどの痛みが腹と股に集まってくる。堅いものが身体を貫いて降りてこようとしていた。
「うぁあっ!」
 息が荒くなって涙が出て来る。腰の骨がギシギシと音がするほどにきしんできた。敷布をちぎれるほど握り締め、唇を噛んだ。
「ティセア!」
 扉が開いた。
「イージェン!」
 手を伸ばして起き上がろうとした。年取った女が一緒だった。荷物を床に置き、ティセアのズロースを脱がし、イージェンに言った。
「湯をたくさん沸かすんだよ、たくさんな」
 すぐに暖炉の火も強くし鍋を掛け、外で大きな鍋で湯を沸かし始めた。中の鍋の湯が沸いたので、たらいにあけてベッドに持っていった。産婆に言われたらしく、ティセアが息を深くしたり浅くしたりして、赤黒い顔でうーんと唸りながらいきんでいた。産婆がイージェンを追いやるような仕草で手を振り、暖炉の前に行った。
「着いた時もう頭が出ていた。いつから出ているのか。あまり長くこうだと赤ん坊も母親ももたん。どっちかを助けるとしたらどっちにするんだい」
 イージェンが目を見張った。
「そんな…どっちかなんて…」
 ベッドの上で懸命に産もうとしているティセアを見た。
「どっちも…どっちもだ。どっちかなんて…だめだ」
 産婆が肩で息をした。
「いちおう覚悟しとけ。湯を運び込んで」
 水浴び用の大きなたらいに湯を張り、運んだ。
「寒いだろうが、外に出ているんだよ」
 外に出て、また雪を鍋に入れて湯を沸かした。馬がブルルッと啼いた。馬小屋に入れるのを忘れていた。つなぎにいきながら、馬の鼻をさすった。
「無事に産まれてくれ…」
 焚き火の前に戻って立ったり座ったり落ち着きなくうろうろしたりしてしまった。『耳』がティセアの苦悶の声を拾っていた。堅く目をつぶった。なにかにすがりたい気持ちでいっぱいになった。
イージェンは祈る神を持たない。母はグルキシャルの聖巫女だったが、破戒者だ。もしグルキシャルの神が本当にいるとしたら、自分を許さないだろう。だから、母に祈るしかなかった。
 …かあさん、お願いだ、ティセアを助けてくれ…
 朝の光が強くなり、煌きの氷粉がまばゆく光っている。その光に向かって祈った。
『ああぁぁぁっー!』
 中からティセアの悲鳴が聞こえてきた。イージェンは扉を叩いて叫んだ。
「ティセア!ティセアァァッ!」
『ウンぎゃーッ。ウンぎゃーッ。ウンぎゃーッ』
 中から泣き声が聞こえてた。イージェンが叩いていた拳を止めて固まった。しばらくして扉が開き、産婆が顔を出した。
「なんとか、無事産まれたよ」
 その両肩を強く握って前後に振った。
「ティセアは!無事なのか!」 
 産婆が仰け反りながらうなずいた。あわてて中に入り、ベッドに駆け寄った。
「ティセア!」
 ベッドの上で汗を噴出し疲れ切ってはいたが、ティセアは微笑んでいた。その腕にふたりで作った産着に包まった小さな身体を抱えていた。
「イージェン…おまえの言ったとおり…男の子だった」
 淡い茶色の髪が生えていて堅く両手を握り締めている。薄紅色の丸い頬。厚いまぶたを閉じて、ふにゃふにゃと泣いていた。イージェンはティセアの頬に触れた。
「よくがんばった。よく…」
 イージェンは言葉が続かずただティセアの頬や髪を撫で、手を握った。ティセアが赤ん坊を差し出した。
「抱いてくれ」
 イージェンがおそるおそる腕に抱いた。腕に小さな鼓動が伝わってきた。暖かく、心地よい。いとおしいもの。
…守らなければ。何があっても。
 そおっと指先で小さな拳に触れ、頬にさわった。産婆が椅子に腰掛けて言った。
「乳を含ませな。それと、あたしに白湯でも出しとくれよ」
 イージェンがあわててティセアに赤ん坊を渡し、汚れた布とたらいを外に出してから茶を入れた。茶碗をテーブルに置き、深く頭を下げた。
「ほんとうに…ありがとう、感謝する」
 茶を飲んだ産婆が一瞬飲むのを止め、一気に飲み干して、もう一杯くれと言った。飲んだことのないような上等の茶だった。
「気に入ったのなら、茶葉を持っていってくれ」
 おかわりを入れて、茶葉の袋を差し出した。産婆がすぐにふところにしまいこんだ。
「母親には最初白湯飲ませて、今夜は薄いスープを一杯、明日から腹によいものを食べさせてやれ」
 二、三日したら、豆やチーズ、肉をよく煮てやるように、水仕事はひとつきはさせないようにと言いつけた。
「まだ寒いからな、身体が冷えないようにするんだよ、母親も赤ん坊も」
 産婆を送ってくると言いにティセアと赤ん坊の近くに寄った。乳を飲ませていた。
「み、見るな!」
 ティセアが顔を赤くして背を向けた。イージェンがあわてて顔を逸らした。
「す、すまん!産婆さんを送り届けてくるから」
 鹿皮の上着を持って外に出た。産婆に着せてやった。産婆が驚いて眼を泳がせた。
「こんな立派な…」
「いいんだ、俺が作ったやつだし、もらってくれ」
 汚れた布と腹から出たものはよく焼いて土に埋めるように言った。
 申し訳ないと思ったが、行きと同じようにまた術を掛けた。ぐったりしたところを馬に乗せて、ふもとまで運んだ。家の近くで術を解き、馬から下ろした。行きと同じように帰りもいつの間にか着いていたので、産婆が首を傾げていた。あらためて礼をいい、手に金の袋を握らせた。
「見合うかどうかわからんが、できるかぎりの礼だ」
 産婆が袋の中を見て、ますます驚いて見上げた。
「こんなに…」
 イージェンが素早く馬上に上がり、走り去った。その後ろ姿に産婆が怒鳴った。
「後でいいから、村長のところに赤ん坊を連れて行って、『石板』に乗せるンだよ!」
「おっかさん!」
 息子のジャルジャが家から出てきた。母親が朝方旅のものという男に連れて行かれたと聞いてあわてていた。
「無事だったのか、今探してもらおうと、ラガン様にお願いしてきたところだった」
 ラガンは村長の息子でこの辺り一帯の警邏隊隊長だった。産婆がむっとして家に入っていった。
「よけいなことするんじゃないよ。別にさらわれたわけじゃなかったんだし」
 鹿皮の上着と金の袋を見せた。
「こんなにもらったんだよ、ラガン様にはなにもなかったっていっといで」
 ジャルジャが困った顔で出て行った。
 
 小屋に戻ったイージェンは、途中まで作りかけていた赤ん坊の小さなベッドを急いで作り上げた。敷物を詰めて赤ん坊を寝かせた。一度ティセアをベッドから下ろして敷物を外し、板をきれいに拭いてから、替えの敷物を敷いて、まだ出血があるので、ティセアの腰の部分に布を置いた。
「どうだ、痛くないか」
 ティセアがちょっと顔を伏せた。
「まだ痛いが…大丈夫だ」
 イージェンはたらいと洗物をもって、崖下の川に向かった。ほとんど凍っているが、氷の下は少し流れがあった。氷を割り、水を汲んで洗った。汚れた布と腹から出たものを焼き、灰にして土に埋めた。
 夜には干し肉で出汁をとった薄いスープを作り、ぬるい茶を入れてやった。茶を飲んでいると、赤ん坊が泣き出した。
「よしよし、どうした」
 ティセアが抱いて少し揺すったが、口をあけたりしめたりして泣いている。イージェンが火桶をベッドの側に持って来た。
「その泣き声は腹が減ってるんだ。えっと…その…乳をやれば…」
 途中で頬を赤くして言いにくそうに言って暖炉に戻って行った。
イージェンは暖炉の火を絶やさないようにして火の番をし、ときどき火桶の炭の様子を見ていた。
 寝ていた赤ん坊が急にぐずりだした。ティセアが飛び起きた。
「どうした、まだ腹が減っているのか」
 ついさきほど乳を含ませてやった。よく吸い、すやすやと寝ていたのに。顔を赤くして泣いている。
「下が汚れたんだ」
 イージェンがおむつを替えた。汚れものを木桶に入れて、ぬるま湯で濡らした布で股間を拭いてやってからきれいなものを当ててやった。背中を敷物につけながら、ティセアがそれを眺めていた。
「よくわかるな、わたしにはわからん…」
 急に泣き出した。イージェンが急いで赤ん坊をベッドに寝かせてティセアの横に座った。
「どうした、身体が痛むのか」
 首を振り、顔を逸らした。
「赤ん坊がなんで泣いているか、わからない。母として劣っているのかも」
 イージェンが枕元に置いてある手ぬぐいで涙をぬぐってやった。
「俺はその…少し『勘』がいいから…おまえもすぐにわかるようになる。顔とか口元とか、泣き声の感じとか見ていれば」
 ティセアが眼を開けた。
「そう?わかるようになる?」
 か細い声で尋ねた。
「ああ、だから劣っているなんて考えるな」
 ティセアが手を伸ばしてきた。その手を掴み、しっかり握って掛け毛布の中に入れた。ティセアはどこか寂しそうな顔で眼を閉じた。


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