すっかり雪で周囲が銀の世界となり、吹雪いている時以外は、ときおり木の枝に積もった雪が重みで落ちてたてる音が響くだけだった。鳥や獣の声も静まり返っている。 イージェンは昨日狩った鹿の皮をなめすといって出て行った。イージェンは実になんでも出来る。狩りもして、干し肉や燻製肉を作ったり、食べられそうにない木の実も食べられるように丁寧に煎ったり煮たりする。皮をなめして長靴や外套、敷物を作る。服のほころびなどもつくろってしまうし、今は赤ん坊の産着を作っていた。 ティセアは作りかけの産着を手にした。なんとか針に糸を通して布に指した。以外に堅く、力任せに指した。 「いつっ!」 布を突き抜け指を刺してしまった。指先を口に入れ、傷から出た血を舐めた。 「わたしはなにもできないな…」 城でして来たことは、父の後を継ぐための政務や財務の学問と剣術、馬、せいぜいリュゥト(弦楽器)を弾くくらいのものだ。生きるための術などなにも知らなかった。 喉が渇いたので水を小鍋に移し、暖炉の火に掛けた。茶を煮出そうと、茶葉を探した。棚の奥の袋に入っているかと見てみると、大きな黒い袋が出てきた。イージェンの荷物だった。口が開いて中に書物があるのが見えた。 「ずいぶんと立派な装丁だな…」 取り出して見た。 「こ…これは!」 背表紙の文字は読めない文字、中もまったくわからない。 「センティエンス語…」 センティエンス語は魔導師専用の言語である。まさかというよりやはりという気持ちが強かった。ただのヒトではないというほど、なにからなにまでできすぎていた。 「魔導師…それも間違いなく特級…」 魔導師には魔力を持つ特級と魔力は持たないが道具や知識で特級の補佐をするものとがいる。イージェンが特級ならば、全て納得がいく。あのヒトならぬ素早さ、隊長を切り裂いた力、火打石も砥ぎ石も、全て魔力で精錬したものだ。 「トゥル=ナチヤから来たと言っていた…」 国と学院に追われていると。急いで元に戻し、棚を閉めた。 夕方イージェンが帰ってきた。鹿皮のなめしは明日までかかると言った。 「腹が冷えないように胴巻を作ってやる」 夕飯を食べ終わって、外から薪を運んできてから、暖炉の前に座るよう手招いた。このところ、毎晩寝る前のひととき、イージェンはティセアを足の間に座らせ、左の手のひらを腹に押し付け、右の手で書物を開いて、朗読していた。 「今日は第十五章だ」 腹の子に聞かせているのだという。滔々とした朗読は、歌うが如く滑らかだ。途中でティセアがうとうとと眠くなって寄りかかってしまうこともしばしばあった。 「天空よりの雨は、時季をわきまえて降り注ぎ、 春の命の芽吹きの助けを忘れず、夏の暑きを和らげるを忘れず、 秋の実りの鮮やかさを忘れず、 冬には大地を眠りへと導く雪と変わる。 いわく、雨の時季の《理(ことわり)》…」 ゆっくりと腹を擦りながらたっぷり三頁はある文章を何べんも繰り返して聞かせていた。 「イージェン…」 途中でティセアが見上げた。読み上げるのを止めて、見下ろした。 「どうした、眠いのなら寝ていいぞ」 「こんな難しいものを聞かせても…」 イージェンが寂しそうな顔をして本を閉じた。 「寓話でも買ってくればよかったな」 軽々と抱き上げてベッドに運んでいった。横にしてやって毛布を掛けた。 「ティセア…」 ベッドに腰掛けて、腹に触れた。 ティセアが身体を起こし、見つめた。 「結局、ここで冬を越すことになったな」 ティセアが眼を伏せた。 「何人か生き残って投降した父の部下たちもみな死んだだろう。民たちも殺されて、他国に縁者もいない。独りきりになってしまった。この子を産んだあと、どうしたらいいか…わからない…」 頬を赤くして唇を震わせていたイージェンが口を開いた。 「俺が…この子の父親になっては…だめか?…」 ようやく絞り出したというような苦しそうな声だった。ティセアは顔を逸らし、答えなかった。イージェンが黙ったままのティセアに不安そうな顔をした。 「きっとこの子のいい父親になるから。なってみせるから」 もうすぐ産まれ落ちる子には、確かに庇護するものが必要だ。自分だけでは育てられない。ひとりではなにもできない姫の身。 「おまえとこの子と…俺と三人で、どこかで静かに暮らそう。城にいるような贅沢な暮らしはできないけれど、けしてひもじい思いはさせない。誰かが追ってきても、俺がどんなことをしてでもふたりを守る。だから…」 イージェンなら、きっと守ってくれるだろう。特級魔導師なのだから。庇護者としてこれほど頼りになるものはいない。 それに…。 ティセアは顔を逸らしたまま、腹に置かれた手に手を重ねた。 「…わたしの…いい夫にもなってくれるか」 涙で潤んだ眼でイージェンがティセアを抱きしめた。 「ああ…もちろんだ」 ティセアがイージェンの胸に顔を付け、身体を預けた。 「ティセア…好きだ…」 喜びに震える声で何度もティセアの名を呼んだ。 ただ守っていければいいと思っていた。従者か護衛兵のように。ティセアと腹の子と。でも、最初に見たときから、魅かれていた。無残に殺された子どもを抱いて泣く姿。気高く美しかった。身体が熱くなっても、ティセアを求めなかったのは、身ごもっていたからというだけでなく、ティセアの気持ちが自分にないのにまるで世話をする対価のように抱くのが嫌だったのだ。 今抱きしめているティセアの気持ちは自分に向いている。イージェンはそう感じた。ティセアは自分を好きになってくれたのだ。うれしくてたまらなかった。 今までずっと苦しいばかりで辛かったが、イージェンは始めて生まれてきてよかったと思った。
きれいに仕上がった鹿皮の胴巻をしたティセアが産着作りを習いはじめた。少しは母らしいことをしたいので教えてくれと頼んだのだ。 「この赤い糸の上を縫うんだ」 イージェンが赤い糸で見本を作ってくれた。その上から縫っていくのだが、なかなかうまくいかない。まっすぐな赤い縫い目の周りを白い糸がのたくっているようになっている。 途方にくれて膝の上に置いた。気づいたイージェンが白い糸を抜いて、もう一度渡した。 「一針ごと、ゆっくりとやればいい。おれたちの子がこれを着るところを思い浮かべて」 ティセアがうなずいた。イージェンが別の布を縫ってみせ、それを真似してまたやってみた。少しまっすぐに赤い糸の上に乗るようになった。 「上手になってきた。やればできるだろ?」 うれしそうに銀の髪をなでるイージェンに、ティセアが恥ずかしそうに下を向いた。
吹雪の夜も煌きの粉に光る朝もこの山の中は氷のように冷えている、だが、ふたりの白い小屋は暖かさに満ちていた。 いつのまにか年が変わっていた。イージェンはこの雪深い中、ふもとに下りたようだった。書物と絵本、紙の束、布、ティセアに服などを買ってきた。 「隣国のスキロスに流感が流行っていてかなり死者が出ているそうだ」 スキロスはこの山を越えたところにある。薬を買ってきたと棚に置いた。 「この先の氷穴で氷がとれるから、もってくる」 そう説明して翌日から昼間何時間か外に出ていった。流感に効く薬を調薬しているのだろう。おそらく高く売れるに違いない。ティセアは素知らぬふりをして、産着やオシメを縫っていた。このごろは腹の子も大きくなってきて、動きも鈍くなってきた。三の月の初めが産まれごろだ。あと二ヶ月。イージェンは男の子だという。なんとなくそう思うとごまかしていたが、魔導師には産まれる前にわかるらしいと聞いたことがあった。だから、きっと。 「男の子…か…」 父が生きていたら喜んだだろうか。それとも仇の子として疎んだだろうか。なぜなら、この子の父親は…。 「いや、この子はイージェンの子だ…」 あたたかい白湯で口を潤してまだ吹雪いている窓の外を見た。
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