夜になって、崖の窪みで夜露をしのぐことにした。獣避けに焚き火をつけ、干し肉と堅パン、茶を煮て夕食を取った。女はあまり食欲がないようで、茶だけ飲んだ。深いため息をつき、焚き火を見つめた。イージェンが、堅パンをガリッとかじった。 「どこか行く当てはあるのか」 女は首を振った。肩を抱くようにして震えた。山の中なので、冷えてきた。イージェンは毛布を取って、投げた。 「使え」 女は毛布を外套のように掛け、包まった。 「俺はトゥル=ナチヤから来た。名前はイージェン」 女が伏せていた顔を上げた。かすかな焚き火の光が当たっていた。 「わたしは…ティセア。ラスタ・ファ・グルア自治州の領主キリオスの娘だ」 あの軍人が戦姫と呼んでいた。領主の娘で剣術が達者だからだろう。 「関わらないほうがいいといった意味がわかっただろう」 イージェンが薪の小枝を火の中に投げ込んだ。 「わからん、俺はこの国には三日前に来たばかりだ」 ティセアが茶を飲み干した。 「今年のはじめにこの国、イリン=エルンの軍が、ラスタ・ファ・グルアに攻め入ってきた。長い間自治を許してくれていたのに、おととしから関税を値上げしたり、塩や薬の輸入量を規制したりして、統合を迫ってきていた。でも、まさか武力行使するとは…」 ティセアの杯を持つ手が震えた。 「父は戦死し、わたしは…」 そこまで話して口を閉じた。イージェンは干し肉を食べ終えて、茶を継ぎ足した。 「鉱山の利権がどうのと街で話していた。そういう争いはどこにでもある。今まで自治を許していたことが珍しかったのかもしれん」 イージェンが茶を飲み干して立ち上がった。 「俺は外で寝る」 そう言って窪みの外に出て行った。
朝から小雨が降っていた。ティセアは、ほとんど寝られなかった。命を助けてくれたとはいえ、見知らぬ男と一緒では不安だった。 …なにを今更… 自嘲気味に唇を歪めた。腹に手を当てた。 あんなことまでしても守りたかった民たちが無残に殺されて、このようなありさまで、もう生きていたくもなかった。 「休めたか」 急に頭の上から声がした。ふっと見上げる。イージェンが濡れそぼって立っていた。返事をしないでいると、水の筒を差し出した。受け取り飲んだ。 「この雨は激しくなってくる。ここより雨をしのげるところに移らないと」 自分の外套をティセアの頭から被せ、首のところを紐で締めた。馬に乗り、滑りやすそうな下りの道を巧みに操って、しかも素早く進んでいく。ティセアは昨日のように背中にしがみ付いていた。 …いったい、この男、なにものだ。まだ若そうだけれど、剣も馬もかなりの腕だ… 国や学院に追われているということは、反乱に失敗した軍人か。軍人にしては、崩れた感じがする。匪賊や盗賊のたぐいかもしれない。 途中でまた上りの道になった。道といってもせいぜい獣が通るような道だった。それほどの名馬には見えなかったが、ふたりも乗せながら、あざやかに登って行く。ようやく少し広くなっているところに出た。低い木の中に小屋があった。 「きこりや猟師が泊まる小屋のようだ。あそこを借りよう」 まるでそこにあるのをあらかじめ知っていて、たどり着いたとしか思えなかった。イージェンは、降りてから馬に顔をつけた。 「よしよし、よくがんばったな。いい子だ」 鼻を撫で、声を掛けた。馬がうれしそうにいなないた。小屋は広くはないが、暖炉があった。薪も少しあり、すぐに火を点けた。昨夜も思ったが、かなり良質の火打石のようだった。 「まるで魔導師が精錬した道具のようだな。城にも同じようなものがあって、一回で火が点くのでとても助かっていた」 ティセアが感心した。イージェンがぷいと横を向いた。 「付け方がいいだけだ」 暖かい光と熱で濡れた身体を乾かした。イージェンは据え置きの鍋を洗ってきて湯を沸かした。手ぬぐいを湯に浸し、堅く絞ってティセアに渡した。 「顔を拭け。さっぱりする」 熱い手ぬぐいを顔に当てた。気持ちよかった。 外の雨音が激しくなってきた。夕方イージェンが麦粥を作ってよこした。 「少しは食べたほうがいい」 ティセアは首を振った。 「このまま…飢え死にしても…」 イージェンが拳で床を叩いた。激しい音がして床の板が割れそうだった。 ティセアが黙って下を向いた。イージェンがティセアの手をとって椀を乗せた。 「食べろ、自分のためにじゃない、腹の子のためにだ」 ディセアが険しい顔で見上げた。 「な、なぜ…それを…」 イージェンが真っ赤な顔で目を逸らした。 「そ、それは…おまえが…腹をかばっていたので…もしやと」 そのまま小屋を出て行ってしまった。母となった身体が知らず知らずに腹をかばっていたのかもしれない。それに少し目立ってきていたこともある。 …どうしたらいい、この子のこと… このまま逃亡してどこかに紛れて生き延びることができるのだろうか。どうやって生きる糧を得たらいいのか。頼るものなどどこにもいない。腹が膨れてきて動けなくなったら、遠からず飢え死にすることになりそうだ。だから、今ここでわずかに食しても無駄なこと…。 暖かい粥の湯気が鼻に届いた。急に腹の虫が鳴いた。ティセアは聞かれたりしたら恥ずかしいと思わず周りを見回したが、イージェンはいなかった。何度も鳴く腹の虫が次第に腹の子の泣き声のような気がしてきた。 ティセアは匙を取って口に運び出した。
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