セレンは部屋に入ってくる日の光で目が覚めた。ベッドにエアリアはいない。外に出て、井戸で水を汲み、顔を洗った。 「おはよう、セレン」 エアリアが手ぬぐいを差し出した。受け取って顔を拭きながら、見回した。イージェンの姿がなかった。 「師匠(せんせい)は…」 エアリアが悲しそうな顔でセレンの肩に手を置いた。 「セレン、イージェン殿はマシンナートたちのところに行ったの、あなたはエスヴェルンに帰るようにって」 セレンが手ぬぐいを堅く握った。 「師匠…どうして…」 ヴィルトのところには戻らないと約束させたのに、今度は帰れというのか。 セレンは追いかけたい気持ちが沸いてきて、小屋からよろよろと離れた。急に駆け出し、海に向かって行こうとした。エアリアが後ろから抱いて止めた。 「セレン…行ってはだめよ」 セレンが両手を空を掻くように差し上げた。 「師匠、どうして、ぼくを置いていくの!」 セレンは身を震わせて叫んだ。ヴィルトの元に戻れるうれしさよりもイージェンに捨てられた悲しみや憤りの方が強かった。エアリアが堅く抱きしめてやったが、震えは止まらなかった。 セレンは朝食に用意した粥も食べなかった。後始末をし、着替えをしたエアリアがセレンの手を引いて小屋から離れた。 南方海岸に到着したときに馬を預けたところまで飛んでいった。海岸からは少し内陸に入った街道沿いの宿屋だったが、エアリアが戻ってきたのを見て、主人があわてた。 「お嬢さん、大変だよ、国王陛下が変わったって!」 ようやくここまで新王即位の話が伝わってきたのだ。ところが、近くに駐留している派遣軍内部での争いはひどくなっているらしい。 「将軍が前の王様の甥らしくて、新しい王様を仇討ちで倒すって。南方大島の海賊たちも襲ってくるだろうに、もうこのあたりは大変だよ」 マシンナートたちが南方軍を壊滅させたことはまだわかっていないようだった。しかし、南方大島軍も多大な被害を受けたとはいえ、逆に復讐をしようと再戦を挑んでくるかもしれない。このたびの戦いの後処理をだれがどうするのか、他国のことながら、心配だった。馬を受け取り、セレンを乗せた。 派遣軍の争いを避けて、馬を飛ばした。エアリアは自分だけならともかく、セレンを抱えて長時間空を飛んでいく自信がなかった。抱えるのは自力ではなく、魔力なのだとわかっているが、そういった、一度にいろいろと術を掛けるような使い方がまだうまくなかった。 イージェンと同じくらいに使えるようにならなければ、とうていヴィルトの後継者になるなど無理だろう。イージェンは乱暴に見えるが、それは粗暴なのではなく、真剣さから来るものに思えていた。ヴィルトの厳しさとはまた別の厳しさだ。自分にはその厳しさが必要な気がしていた。ヴィルトに厳しくされても、赤ん坊の頃から育てられてきたこともあって、どこかに甘えがあった。厳しくされるのを待つのではなく、これからは自分から甘えを捨てなければいけない。そう心に決めながら、先を急いだ。
カーティアの王宮東の館では、マシンナートたちが各部屋に寝泊りをしていた。ユワンは以前ジェデルが使っていた部屋を勝手に使っていた。助手のひとりとそこで食事をしていた。 「シリィたちの野蛮な文化もこういうところには関してはいいかもな」 シリィとは未開人とか野蛮人という意味だ。部屋を見回しながら言うユワンに、助手は首を傾げた。 「そうですか、なんか、歪んでて、落ち着かないというか、やっぱりシンメトリィでないと」 ユワンがにこりと笑い、きれいな瑠璃色のグラスで葡萄酒を口に含んだ。 翌日、ユワンが、持ち込んだ携帯用のタアゥミナルでデェイタの整理をしていた。そこへ後宮の侍女長とやらが訪ねてきた。ユワンはジェデルの部屋で侍女長と会った。ジェデルが妹姫と夕卓を囲むので、迎えに来たというのだ。 「夕飯というのに、ずいぶん早いお迎えですね」 ワアンが席に座ったまま言った。すらりと長身でなかなかに美しい侍女長は冷静な視線で見返していた。 「しきたりがいろいろとございまして、お支度に時間がかかるのです」 ユワンが不愉快そうに顔を背けた。 「くだらないことを…」 侍女長が言い返そうとしたとき、ユワンがさえぎるように言った。 「ジェデル王がこちらに来るようにすればいいでしょう。食事なら用意させますよ」 険しい目で侍女長が口調を強めた。 「無礼でしょう、陛下とお呼びしなさい!」 ユワンが立ち上がった。 「誰のおかげで『陛下』になったのか、忘れないように」 鉄の筒をもったマシンナートに連れ出すよう指示した。侍女長はユワンをにらみつけて出て行った。 侍女長を返したすぐ後、助手に命じた。 「王女の見張りを増やせ。誰か連れ出しに来ても渡すんじゃないぞ」 助手がうなずいて出て行った。 侍女長イリーニアは、急ぎ執務宮に向かい、フィーリを探した。フィーリは、内府の執務室で山のような書類と格闘しているところだった。軍人のフィーリにとって、政務は苦行のようなものだった。イリーニアの訪問に一息つけると喜んだのもつかの間だった。 「ユワンが殿下を渡してくれません。陛下を呼び捨てた上、陛下が来ればいいなどと無礼なことを言っています」 フィーリが書類の山を崩して驚いた。 「まさか、そんなことを!」 このことをジェデルが知れば、自ら迎えに行ってしまう。揉めることは必至だ。フィーリが剣を帯びて執務室を出た。イリーニアには、後宮でジェデルの世話をしていてくれるように頼んだ。 「陛下には、決して先ほどのユワンのことを言わないでください」 イリーニアが承知し、ふたりは執務宮を出たところで別れた。 ネフィアの部屋近辺は灰色のつなぎ服のマシンナートがあちこちで見張っていた。侍女も入れさせなかったので、食事や身の回りの世話をするものもいなかった。マシンナートの出す食事もとうてい口に合うはずもなく、心細さも手伝って、日に日に元気がなくなっていた。昼前、ユワンが訪れたとき、ネフィアは窓際の椅子に腰掛けて、外を眺めていた。 「姫、どこか悪いのですか、あまり食事をしないとか」 ネフィアが立ち上がり、軽く頭を下げた。ユワンは持ってきたショコラァトの皿を出した。 「とても甘くて美味しいですよ。いかがですか」 ネフィアは首を振った。ユワンは皿をテーブルの上に置き、ネフィアに壁際の長椅子に座るよう勧めた。ネフィアは従い、腰掛けた。ユワンがすぐ隣に座った。ネフィアがあわてて立ち上がろうとしたが、ユワンが手袋をした手でネフィアの手を引いた。 「どうしました、座ってください」 ネフィアは震えながら椅子に座りなおした。ユワンが片方ずつ手袋を取り、素手でネフィアの手を握った。
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