大陸中原の国エスヴェルンの王都は、自然の障壁である環状森林に囲まれた王宮を中核とし、いくつも通りが放射状に広がっていて、その通り沿いに貴族たちの館、役所や市場、市民の住居が栄えていた。国内の各地より人も物も集まり、その繁栄ぶりはエスヴェルンの歴史上最高とされていた。周辺諸国とも久しく争乱はなく、頻発する災厄以外は平和な時代と言えた。 深い森林の奥の小高い丘に聳える王宮には、三千年の歴史をもつ王室が支配者として鎮座しており、一度として他家に王権が移ったことがなかった。貴族たちは国内の各郡の行政長官や裁判官として派遣される以外は、王都の中の館に住い、王都の行政官か軍属、あるいは文化庁などに配属されていた。王宮は施政宮、迎賓館、後宮(王の居宅)、王太子宮、文化庁、王立学院、王兵軍区、国庫からなっていた。施政宮に隣接する王立学院は、ふたつの学科がある。ひとつは政経学院で国の施政官となるための学び舎であり、いまひとつは魔導師学院で正当な魔導師を育成するところだった。 魔導師学院の本堂は蔦の絡まるドームを戴いており、その玄関ホールでは、学院長代理や教導師(魔導師の指導者)たちをずらりと並べて、年の頃は十五、六の少年が赤い短髪を逆立てて怒鳴り散らしていた。 「乱水脈も制御できないのなら、そなたらの魔導師の肩書きは何なのだ! 国費を使って飼っている意味がない!俺の世となったら、そなたら全員極北に流してやるからな!」 遥かに年下の少年に責められても返す言葉もなく、立ち尽くしている。開け放たれていた玄関の扉の間から、灰色の外套を纏った長身が入ってきた。 「陛下ご存命中に次の世のことを口にされるのは、穏やかではありませんよ、殿下」 窘める声に紅の髪が振り返った。 「…仮面の…」 怒りというよりも不愉快さで目が細まり、灰色の仮面を睨み付けた。 「隠居するなら、ここの連中をものにしてからにしろ!役立たずばかりだぞ!」 髪と同じ色の外套を翻して出て行った。坊主頭の学院長代理が安堵の溜息をついた。 「ヴィルト様、お待ちしておりました」 灰色の仮面を被った魔導師ヴィルトが紅の少年の去り方を見た。 「殿下のお怒りもわからないではない。サリュースやエアリアはどうしたのだ。リアルート地方の乱水脈、ただごとではなかったぞ」 学院長代理が言葉に詰まっていると、教導師のひとりが、ヴィルトの外套の後ろで怯えている少年に気づいた。 「おや、この子は?」 「弟子のセレンだよ、セレン、ご挨拶なさい」 弟子と聞いて、学院長代理をはじめ教導師たちが驚きで息を飲んだ。居心地の悪さを感じながら、セレンは頭を下げた。ヴィルトは、学院長代理たちと奥の部屋に向かい、セレンと狼の仔リュールは、学院生のひとりに宿舎に案内された。
ヴィルトが人買いの男たちを追い払ってくれた次の日、セレンは、ヴィルトに連れられて王都に向かった。リュールも一緒だった。ヴィルトは急いで行きたい様子だったが、怪我をしたセレンの体調を考えてか、馬をゆっくり進め、日にちを掛けて到着した。 王都は、あの立派に見えた宿の町とは比べ物にならないほど立派なものだった。人はみな清潔で身なり良く、建物は石造り、大きくて頑丈そうで、路は石畳で汚物などひとつも落ちていないのだ。こんな美しい場所があるのかとセレンは驚くばかりだった。深い森を通って、大きな門扉を潜って入ったところが王宮と聞いて、今度は恐ろしくなった。自分のような卑しいものが入れる場所ではない。しかも、さっき怒鳴っていた少年は…。 宿舎の一室は寝室と居間があり、森の小屋よりもずっと広く、居間の壁の本棚には分厚い本がぎっしりと並んでいた。森の小屋にも本はたくさんあったが、セレンは字が読めなかった。少しずつ教えてあげるからとヴィルトに言われていたが、まだそんな時間を過ごしたことはなかった。もってきた荷物の中から手ぬぐいを出した。宿舎の外に出て、井戸を見つけ、釣瓶で水を汲んだ。旅で埃だらけになったリュールの身体を洗ってやろうと思ったのだ。自分の顔を洗ってから、じゃれるリュールの硬い毛を塗れた手ぬぐいで拭った。急にリュールがセレンの手元を離れて駆け出した。 「リュール?!」 リュールがうれしそうな鼻声でキュンキュンと鳴き、激しく尻尾を振って人影に飛び付いた。 「久しぶりだな、リュール。そなたはちっとも変わらないな」 リュールが喜んで飛び付いた人物を見て、セレンは言葉なく震えた。さきほどの紅の髪の少年だった。少年はリュールを抱きかかえたままセレンの近くに片膝を付いた。 「そなた、仮面と一緒にいたな」 セレンが黙っていると、リュールがセレンの膝の上に飛び乗って体を丸めて甘えた。少年は、その様子を優しそうな目で見た。 「リュールは友達でないと慣れ付かない。俺もそなたもリュールの友達、ということは、俺とそなたも友達同士ということだな」 そう言って屈託なく笑った。 「俺はラウドだ。そなたの名は?」 ラウドはセレンの膝の上で丸くなっているリュールの頭を撫でた。 「…セレンです…」 ようやく声を搾り出した。 「仮面の従者か?」 こんなに幼い者を従者にすることはないが、一応尋ねた。セレンはヴィルトに言われたように返事した。 「…弟子…です」 ラウドも魔導師たちと同じように目を丸くして驚いた。しかし、急に笑い出した。 「そうか、そなた、仮面の弟子か!」 そして、ラウドはリュールを右の腕に抱え、左の手でセレンの手を掴んで歩き出した。 「あ、あの!」 「どうせ仮面は、埒もない会議でそなたたちをほったらかしにする。俺のところで食事でもしよう」 宿舎からいくつかの庭園を横切って、白い小花の垣根に囲まれたテラスに着いた。テラスから中に入り、大きな丸いテーブルを囲んでいる椅子のひとつにセレンを座らせた。リュールを膝の上に置いて、手を叩いて人を呼び、食卓を整えるよう命じた。たちまち卓上に様々な料理が並んだ。温かいスープに木鉢に盛りだくさんの野菜、大皿には何種類かの肉の燻製、篭からはみ出んばかりの白パンもあった。もちろん、初めて見るようなものばかりである。ラウドが骨付き肉の燻製を小さくちぎってリュールに与えた。リュールがおいしそうに食べている様子をじっと見ていると、ラウドが食べるようすすめた。そろそろと手を卓上のスプーンに伸ばし食べ始めた。どれもこれも信じられないくらい美味しかった。しかし、途中で食べるのをやめた。ヴィルトのところでの食事ですらもったいないほど贅沢だと思っていた。故郷の家族はきちんと食べているのだろうか、自分ばかりおなかいっぱいになってよいのだろうかといつも心を痛めていた。ラウドが食べるのをやめたことに気づいた。 「口に合わないのか?」 セレンが首を振った。その時、年若い従者が失礼ながらと入ってきて、来客があることを告げた。承知するとすぐに裾の長い白い上着を着た小柄な男が入ってきた。灰色の髪は火にでも炙られたようにちりちりと縮れていて、青白い顔色で挨拶した。 「殿下、先日はありがとうございました」 ラウドが席を立った。膝からリュールが零れ落ち、その男に向かって激しく吠えた。男はいらだたしげな顔で、足元で噛み付かんばかりに吠え立てるリュールに手で追い払う仕草をした。ラウドが苦笑した。 「教授殿は嫌われたようだ」 セレンがリュールに駆け寄り抱きかかえた。教授と呼ばれた男がセレンを睨み付けた。 「修理は済んだのか?」 ラウドが教授に尋ねた。教授はにこやかな顔を作って頷いた。 「はい。ラボも移動が済みまして、ご紹介いただいた南の平地に停留しております」 是非また来訪をと言い添えて、教授は帰った。ラウドが葡萄の実を摘んで口に運んだ。 「セレン、仮面は明日も忙しいだろうから、俺と出かけよう」 従者を呼びつけ、残した料理をもたせ、宿舎まで送るように言いつけ、出て行った。従者が持ち帰れるように包んでくれ、宿舎まで送ってくれた。帰りはいくつもの広間や延々と続く回廊を通り、行きの何倍もかかって戻った。 王都や王室のことはほとんど聞こえてこない地方の出であっても、当代の王や王太子の名前くらいは知っている。セレンはヴィルトに話して、あの森の小屋に戻してもらおうと思った。しかし、ヴィルトはその夜戻らなかった。
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