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作品名:異能の素子 作者:本間 範子

第375回   イージェンと艱難の道《ディフィスィルヴワ》(上)(2)
 セラディム王宮は水路で仕切られた敷地に、執務宮、王太子宮、後宮、学院などが点在し、浮島のある大きな池や小滝などもあり、美しい水の都の王宮にふさわしい壮麗なものだ。船も身分によってさまざまな趣向が凝らされていて、特に王太子の専用船は、国王に次ぐ美々しいものだった。
 王太子ヨン・ヴィセンは、国王の休んでいる後宮に向かっていた。王太子専用船には、黄金造りの天蓋に薄絹の天幕が掛かっている。その中で大きな椅子にヨン・ヴィセンが腰掛けていて、両脇に側女たちがはべっていた。夕べからずっと飲み続けていて、酒を飲んでいないときは女を抱いているというような状態だった。
「おまえたちを辞めさせて、あいつの部下だったやつらを側近にしろだなんて!」
 杯を船底に叩き付けた。ドゥオールから来ていた側近のスティスや護衛隊長たちが不愉快な様子で、顔を伏せていた。
 昨日の夕方、宮廷からの通達が来た。スティスや護衛隊長たちを辞任させてアダンガルの部下たちだった執務官や軍人を就任すると王命が下されたのだ。その前にも何度か呼び出されて、決済を自分でするようにと叱られていて、ついに側近の人選にまで口出しされたので、文句を言いにいくつもりだった。
「殿下、もしや、これは……」
 スティスがヨン・ヴィセンの耳元でこそりと囁いた。
「まさか……」
 ヨン・ヴィセンが真っ青になった。護衛隊長も胸に手を当てて頭を下げた。
「アダンガルが帰国し、ハーネス将軍宅に匿われているという噂があります」
 真っ青だったヨン・ヴィセンの顔が真っ赤になった。
「異端の汚れた血なのに、王位継承者を殺そうとしたやつなのに、どうしてみんなしてかばうんだ、どうして父上も……あいつを……」
 ガンッと拳を肘掛けに叩き付けて、身体を折り、悔しさに震えた。
「殿下、お気を確かに」
 スティスがひざまずいてヨン・ヴィセンの顔を覗き込むようにした。
「こういうことも……ありえます……」
 そうして、さらに小さな声で囁いた。
「それは……」
 ヨン・ヴィセンが戸惑ったような声を絞った。スティスがぐっと身を乗り出した。
「いずれ殿下のものになるもの、少々早くなるだけのことです」
 ヨン・ヴィセンが杯を寄こせと手を突き出した。側女のひとりが渡し、なみなみと酒を注いだ。縁から零れるのもかまわず、ヨン・ヴィセンは勢いよく口元に引き寄せ、ぐいっと一気に空けた。
「そうだな、俺のものだ、遠慮はいらないな」
 何かを睨みつけるように酔いと怒りに血走った眼を険しく細めた。
 後宮の桟橋に着き、護衛隊長の手を借りて、ゆっくりと降りた。スティスたちを従えて、建物の中に入った。国王の居間の前には護衛兵たちが槍を構えて立っていた。
王太子が入れろと寄ってきた。かなり酒臭い。護衛兵たちは、露骨に眉を寄せた。
「殿下、お約束はございましたか」
 護衛兵といっても国王に仕える場合は、貴族の子息がなり、部隊長にも匹敵するほどの地位で、将来は将軍位になるものがほとんどだった。たとえ相手が王太子であろうと学院長であろうと、厳しく対応するのだ。
「息子が父に会いに来たのだ、通せ」
 左側の護衛兵が控室の侍女長に声を掛けた。侍女長がおは入り下さいと開けさせた。護衛隊長から打ち物を預かった。
 国王は、居間の大きな長椅子に腰掛け、書物を読んでいた。
「父上」
 ヨン・ヴィセンが声を掛けると、国王が書物に目を落としたまま、どうした、いきなりと尋ねた。
「お言いつけ通り、側近たちをドゥオールに帰します。帰国のご挨拶に来ました」
 後ろにスティスと護衛隊長がひざまずいた。国王がおおと書物を閉じて、座りなおした。
「そうか、そのほうたちもいろいろとあろうが、ここはそうしたほうがよい」
 パンパンと手を叩き、小箱を持ってこさせた。侍女長に渡すよう手を振った。
「わずかだが、帰りの旅費にしなさい」
 スティスが受け取り、頭を下げた。
「ありがとうございます、陛下」
 スティスと護衛隊長が数歩下がってまたひざまずいた。ヨン・ヴィセンが二、三歩近寄った。
「父上、わたしもいろいろと考えました。摂政としての仕事をきちんとして、宮廷と学院の信頼を取り戻します」
 頑張りますからとしおらしく頭を下げた。国王がうれしそうにうむうむとうなずいた。
 ヨン・ヴィセンが手にしていた木の箱を見せた。
「北リド・リトスの銘酒が手に入りました。父上と飲みたくて持ってきました」
 国王が手招いた。
「余もそなたと飲みたい」
 侍女長に命じて、杯を用意させた。ワゴンの上にふたつ杯が乗っていた。ヨン・ヴィセンが侍女に瓶を渡すと、侍女が、酒の栓を抜き、ゆっくりと注いだ。ひとつ、掲げるようにして国王に差し出した。国王がにこにこと笑って受け取り、ヨン・ヴィセンに隣に座るよう示した。ヨン・ヴィセンが少し間を開けて腰掛けた。侍女がヨン・ヴィセンにも杯を渡した。
「心を入れ替えてくれて、うれしいぞ、王太子」
 杯に口をつけて、ぐいっと飲み干した。その様子をじっと見つめていたヨン・ヴィセンの口元が奇妙に歪んだ。
 飲み干した後、しばらく見つめていたが、国王がなかなかうまいとヨン・ヴィセンの方を向いたので、肩を引いていた。
「どうした」
 飲んでいないので、国王が首を傾げた。眼を見開き、手元がぶるぶると震えていて、中身がこぼれそうになった。
「どうしました、殿下、お飲みにならないのですか」
 急に声を掛けられて、えっと見回すと、ワゴンを運んできた女がこちらを睨んでいた。
「……学院長……」
 アリュカが侍女の服を着て成りすましていたのだ。
失敗したとわかり、スティスたちがそっと出て行こうとしたのを護衛兵たちが押さえ込んだ。
「は、はなせ!」
 アリュカがヨン・ヴィセンの手から杯を取り上げた。
「殿下がお飲みになれないのなら、スティスに飲んでもらいましょう」
 うつ伏せに押さえ込まれたスティスがもがき暴れた。
「嫌だっ! 離せっ、離せぇっ!」
 アリュカがその顎をぐいっと握り、無理やり口をこじ開けて、注ぎ込んだ。
「うわっ、あうわああっ!」
 喉を押さえ、震え出した。押さえていた護衛兵が手を離すと、起き上がって、懸命に吐き出そうとした。だが、がくっとうなだれ、そのまま倒れ、息絶えた。
「……まさか、この酒に……」
 国王が驚いて立ち上がり、悲しそうに目を細めた。国王の杯の酒は、アリュカが解毒の薬を入れたか、中身をすり替えたのだろう。
「ヨン・ヴィセン、そなた……余のことを……」
 ヨン・ヴィセンが首を振って国王の足元にひざまずいた。
「違います、父上、わたしは何も知らない!」
 このものたちが勝手にやったことですと泣き伏した。
「ヨン・ヴィセン様、今さら言い逃れできませんよ、潔くなさい」
 アリュカが杯をワゴンに載せ、押しやって、ヨン・ヴィセンを立たせようとした。その腕を振り払って、国王を見上げた。
「父上、信じてください!」
 国王が目を伏せた。
「何故こんなことを……余が叱ったからか、あのものたちを遠ざけようとしたからか」
ヨン・ヴィセンがぐっと唇を噛み、うなだれた。
「アダンガルを呼び戻したんですよね……」
 国王がうなずいた。
「そなたを廃し、余も退位する」
 それがこの国のためだと天井を仰いだ。真っ赤に泣き腫らした眼を向けた。
「宮廷も学院も……父上も……あいつを……」
 国王がため息をついた。
「この国を治めるのは難しい、そなたでは無理だ、余が無理だったようにな」
 余も飾りだけの国王だと寂しそうに口元をゆがめた。
「そなたは飾りだけにもならぬ。今の振る舞いではな」
「だから、あいつなんですか! 少しくらい頭が回るからって、異端の汚れた血なのに!」
 テラスにふわっと影が下りた。アートランがアダンガルとハーネス将軍を両脇に抱えていた。気が付いたヨン・ヴィセンが目を血走らせて震えた。
「アダンガル……」
 アダンガルがさっと外套を肩に担ぎ上げるようにして背中に回し、大股で部屋の中まで入ったところで足を止めた。
「よくも戻ってきたな……」
 ヨン・ヴィセンが立ち上がり、よろよろと後ずさりした。急に拳を振り上げて叫んだ。
「俺のものだ! セラディムも、ドゥオールも、ナリア姫も、みんな、俺のものだ!! おまえなんかに渡すものかっ!」
 ひいっと悲鳴を上げて頭を抱え、床に突っ伏した。国王がニ、三歩近寄り、声を掛けた。
「ヨン・ヴィセン、最期くらい、王族らしく振舞うのだ」
 ヨン・ヴィセンが錯乱して頭を振っていた。アリュカが手を振ると、護衛兵たちが両脇からヨン・ヴィセンを抱え上げた。
「いやだ、いやだぁ、父上! ちちうえーっ!」
 引きずられるようにして連れて行かれた。国王が涙を浮かべた目を向けていたが、扉の向こうに消えてから、ふうとため息をついた。ゆっくりと長椅子の前に戻り、立ったまま、尋ねた。
「学院長、少し疲れた。立ち退くのは明日でもよいか」
 アリュカが両手を胸の前で交差させて深くお辞儀した。
「はい、陛下、どちらに移られますか」
 国王がテラスの方を向いた。アダンガルがテラスの前に立っていた。
「ネメスの離宮、あそこがいい」
 アダンガルが目を見開いた。母が幽閉されていた湖の中ノ島にある離宮。今は荒れ果てていて、誰も住んでいない。他にもっとキレイに手入れされた離宮があるのに、あんなところに移ろうというのかと意外だった。
 ご用意いたしますとアリュカが了解した。頼むと身体を回した国王をアダンガルが呼び止めた。
「お待ち下さい、お聞きしたいことがあります」
 国王が扉の前で振り向いた。アダンガルがぐっと顎を引いた。
「なぜ、母上を異端の都に帰してやらなかったのですか」
 国王が面食らったような顔をして空に目をやった。
「……訪ねていくと、うれしそうだったので、地上が気に入ったのかと思っていた」
 帰りたかったのなら、かわいそうなことをしたと眼を細めた。アダンガルが戸惑っていた。
「うれしそうだった……」
 自分が知っている母はいつも窓から外を寂しそうに眺めていた。てっきり帰りたいと嘆いていたのだと思っていた。アリュカが目を伏せた。
「アダンガル様、ジェナイダ様には、何度もお聞きしたのですが、帰りたいとおっしゃらなかったのです」
 えっとアダンガルが息を飲んだ。
「帰さなかったのではなく……帰らなかった……」
 国王は静かにアダンガルを見つめ、扉の方に向き直った。
「アダンガル、後を頼む」
 アダンガルが返事をすることも忘れて立ち尽くした。
 開け放たれた扉の前に妃達や側室たちが控えていた。気が付いた国王が声を掛けた。
「みんな、今日までよく仕えてくれた、ご苦労だった」
 イリナがゆっくりと頭を下げ、妃や側室達もそれに続いた。
「父上」
 第三王女のアリダと第四王女のヴァンレンティーズが目を赤くして寄って来た。
「そなたたち、よい嫁ぎ先を探してもらえ」
 王室のために働くのだと言い聞かせて、廊下を歩き去った。
 アリュカとイリナがアダンガルの前にひざまずき、他の妃、側室、王女たちもその後ろで膝を付いた。
「陛下、学院長アリュカでございます」
 アリュカが両手を胸の前で交差させて、お辞儀した。
「イリナ妃でございます、陛下」
イリナも同じようにお辞儀すると、後ろに並んでいた妃、側室、王女たちも続いた。
 ハーネス将軍と護衛兵たちも片膝を付いて、胸に手を当てて頭を下げた。
「陛下」
 アダンガルが遠くを見るような目をしたが、すぐに引き締め、ひとり立っていたアートランを叱った。
「アートラン、ひざまずけ」
 アートランがふっと口元に笑いを浮かべ、背中に背負っていた袋を降ろし、すっと膝を付いた。
「陛下」
 拳を床に付けてさっと頭を下げた。アダンガルが見回してから、立つよううながした。
「ありがとうございます、陛下」
 全員で唱和して立ち上がった。
「さっそくだが、すぐに動いてもらう」
 アダンガルが長椅子に腰掛けて、指示書を書くので用意しろと命じた。
「王宮護衛隊は至急にハーネス将軍配下の部隊と交代、旧護衛隊は先王の護衛兵として再編成するように。王立軍はシュルウッド将軍を大将軍として掌握しろ」
 国庫は凍結し、全国に戒厳令を発令、主要港は一時封鎖することにした。王太子宮は閉鎖、至急にアダンガルのための執務宮の準備に取り掛かることにした。
「陛下、カーティアで五大陸総会が開催されます。異端との戦後処理についてですが、それが済んでからでないと戴冠式が出来ません」
 アリュカの説明にアートランから詳しく聞いたと了解した。宮廷は現状のままとして、明日朝会を開くことにした。
「イリナ妃、後宮のことはあなたに任せる」
 動揺のないよう進めてほしいと頼んだ。イリナ妃が承知いたしましたとお辞儀して、他の妃、側室、王女たちと下がっていった。
 アートランがドゥオールの学院長ゾルヴァーに一揃いを届けてくると袋を担いだ。
「ついでに俺が王位を簒奪したと言って来い」
 アダンガルが不敵な笑いを口元に浮かべた。あれっとアートランが首をかしげた。
「譲位じゃないのか」
 国王は後を頼むって言ってたぜと言うと、アリュカがうなずいた。
「先王陛下は父王の命すら狙う王太子の振る舞いに心を痛められ、体調不良で国政を続けることができなくなったので、弟君を正式な王子と追認して王位を譲ることにと」
 そのように内外に通達しますと平然としていた。そのほうが混乱も少なく、文句の出ようがない。
 呆れながらも学院がそれでいいのなら宮廷に否やはないと言い、アートランにさっさと行けと手を振った。アートランが手を胸に当てて、踊るようにお辞儀した。
「仰せの通りに」
 次の瞬間、姿は消えていた。
 すぐに机と事務の用具などが持ち込まれ、夜を徹して事後処理が行われた。
夜明けには、執務宮に移り、夜中の間に連絡を受けた王族の係累や大公家の重鎮、大臣、主だった執務官、将軍たちが次々と訪れて、アダンガルに忠誠を誓った。
先王の退位を不服とする一派と王太子を支援する貴族たちは謹慎を命じられた。そのものたちには先王が納得の上での譲位だと書状を送ることになっており、それほどの混乱もなく収まると思われた。
 王宮は、どこの部署も目が回るほど忙しく、しかし、待望の新王を迎えて、活気に満ちていた。朝日を浴びた美しき水の都《オゥリィウーヴ》はより一層輝いて見えた。


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