ランス王立軍がアラザードの国境を破り、侵攻に成功したという報告は、すぐに遣い魔によって王宮に届けられた。 宮廷ではとうとう大陸北部の覇権を握れると喜んだ。一気にアラザードを征服してしまおうと、当初ネルタ自治州を吸収するつもりで準備していた派遣軍をアラザード攻略に回すことになった。 「到着は来月になるだろうが」 アラザードの東側自治州に、伝書を魔導師が持参して向かい、従わなければ海岸側から攻めると脅していた。 教導師が、アラザード学院長の突然の訪問を取り次ぎに来た。 「自分で来るとは」 サディ・ギールがあざ笑い、面会を許可した。アラザード学院長ランセルが学院長室に入ると、正面の重々しい椅子に腰掛けたサディ・ギールのほかに、副学院長はじめ、五人の特級魔導師が並んでいた。 「ランセル、こんなところに来るとは、ずいぶんと暇だな」 挨拶もなしに、サディ・ギールが皮肉った。ランセルがぶるっと震えて拳を堅く握った。 「サディ・ギール殿、戦争は凍結という大魔導師様からの指示、無視するとは、どういうことですか」 サディ・ギールが首を振った。 「内政干渉されたくない。異端など、あれが始末すればいいのだ」 ランセルが険しい目で睨んだ。 「大魔導師様たちが始末のための策謀を計画しているという連絡が来たはずです。実行するまでは、侵攻を止めてください!」 副学院長がずいっと近づいた。 「こんなところで油を売ってないで、身の回りの整理をしておいたほうがいいぞ」 ランセルが副学院長の顔を見つめた。 「どういう意味だ」 他の特級たちも囲い込むように近づいた。 「遠からずアラザードの学院はなくなるということだ」 サディ・ギールがぬるい茶をすすった。 「それから、学院長全員出席の総会を開いて、あれを大魔導師と認めた決議を無効にする」 ランセルが呆然と立ちすくんだ。 「決議を無効……?イージェン様にしか、異端の始末はできないのに」 サディ・ギールが、茶がぬるすぎると副学院長に杯を突き出した。副学院長が側の特級に手を振り、杯を受け取らせた。 「異端の始末はさせる。だが、学院のことには口出しさせない」 おののいていたランセルが呆れて果て苦笑した。 「ははっ、まさか、そんな」 信じられない思いで、首を振った。 「そんな都合のよいことを」 あまりにもずうずうしいと非難した。サディ・ギールが鼻先で笑い飛ばした。 「なんであんなふしだらでいやしいものが後継者なのか、不愉快なことよ」 副学院長が手を振った。 「学院の恥となるような大魔導師など認められないということだ。そのくらいわかるだろう」 これ以上は話しても無駄とランセルが肩を回した。 「失礼する」 サディ・ギールが呼び止めた。 「ランセル、今のうちにあのふしだら女と手を切れ」 そうしないとどうなるかわからんぞと脅してきた。ランセルが返事をせず、近寄って来ていた特級たちを掻き分けるようにして学院長室から出た。 学院の外に出て飛び立つと、入れ替わるように白い埃に塗れた外套が降りてきた。ちらっと見て、すぐに速度を上げて帰国の途に着いた。 ランセルと入れ替わるように学院長室に入ったのは、辺境軍に向かわせた魔導師のひとりだった。 入口で座り込んでしまったので、特級のひとりが尋ねた。 「どうした、ハルフォフ、なにが」 ハルフォフは十四、五歳くらいの少年だった。辺境軍に合流しているはずだったので、戻ってくるのはおかしい。しかも、異様なほど震えていた。 「い、異端が……ルエルを……」 わああと頭を抱えて、泣き震えた。異端の攻撃があったのかとみんなが驚きに動けなくなっていると、サディ・ギールがゆっくりと立ち上がり、杖を突きながらハルフォフの前までやってきた。杖を振り上げて、ハルフォフの背中を叩いた。 「あっあぁっ!」 打ち据えられて痛みにのたうっていたが、さらに強く叩いた。 「見苦しい! うろたえずにきちんと報告しろ!」 しばらく叩いてから、サディ・ギールが杖をひっこめた。ハルフォフが、ようやく身体を起こした。荒い息の下から途切れ途切れながら話し始めた。 「こ、国境に向かう途中、北海岸に……異端の馬車が上陸したのが見えて……」 ふたりはかなりの高度で飛んでいたので、北海岸をうろつく異物を見つけた。異端の馬車とすぐにわかり、ルエルが近付いて恫喝すると言い出した。そのうちに周囲の森林に火を放ち始めた。 サディ・ギールや副学院長は、イージェンから異端に対しては慎重に行動し、策謀がうまくいくまでは余計な刺激を与えないようにと指示されていたが、学院のものたちにきちんと伝達していなかったのだ。 ハルフォフは予定外のことなので、伝書を送っておくだけにしようと止めたが、ルエルは向かってしまった。恫喝したが、異端の馬車は動かなかったので、ルエルは魔力で退けようとした。すると馬車の筒から光の弾がたくさん放たれて、打撃を受け、ハルフォフは地面に叩きつけられてしまった。空中に留まったルエルは馬車に貼り付き、光棒で叩き壊したが、細かい弾をたくさん打ち込まれた。魔力で防ぎきれずに弾で身体を貫かれ、ぐしゃぐしゃになって死んだ。馬車は退却していったので、徒歩で現場から離れ、しばらくしてから空を飛んで帰ってきたと話し終えた。 「リジットモゥビィルですね。バレーの入口はアラザード側にあるはずですが」 副学院長が、なんでランス側に上陸したのかと言いかけて、もしや王立軍が撤退したからかと口をつぐんだ。もしそうなら、学院の失態かもしれない。だが、それをサディ・ギールに言うことはできない。撤退を決めたのはサディ・ギールだからだ。 杖を付きながら椅子に戻ったサディ・ギールがううむとうなった。 「ラティリに伝書、現状で進めろと。それと」 派遣軍に伝書官として同行しているラティリに遣い魔を送り、ハルフォフともうひとり、北海岸の現場に向かえと命じた。 「恫喝しなくていいが、見張れ」 ハルフォフがはいと両手を付いた。同行することになった魔導師がハルフォフを支えて扉を開けた。 ……イージェンめ、さっさとバレーなど始末すればいいものを。指導者とその子どもの暗殺などと何を手ぬるいことをしているのか。 他の学院と諮り、かならず大魔導師の承認を無効にしてやる。 サディ・ギールが茶がないと不機嫌そうに手を振った。 ハルフォフは学院長室を出てから、ずっと泣きじゃくっていた。 「ルエル、死んじゃった……死んじゃった」 同行することになったポォウレトが注意した。 「しっ、学院長様に聞こえたら、また打たれますよ」 分かっていたが、止まらなかった。『決まり』に厳しいこの学院でも、魔導師同士の交流はほとんどない。だが、ハルフォフとルエルは同い年で一緒に修練したり仕事をしたりしていて、仲が良かった。ルエルのほうが少し魔力が強かったが、かえってそのせいで命を落とすことになってしまったのだ。 ハルフォフは、外套だけ取り替えて、精錬した薬湯を飲んで、すぐに出発した。 すでに日は沈み、夜の帳に星が輝いていた。西海岸では雨雲が発生していたが、夏の王都にまで来ることはなく北の海に抜けていくはずだった。 ポォウレトが雨雲を気にして西の空を振り向いた。 「雨、降ってますね」 ハルフォフはうなずく気力も湧かず、ただうなだれて飛んでいた。
ランスの第二王都『アルディ・ル・クァ』は、三の大陸ティケア北部最大の港街で、二の大陸からの連絡船が入港する商業港だった。極北の海からの流氷が届く時期以外は、北上する暖流のおかげで近海の漁場も豊かで、岩に張り付く貝ユイットルの名産地でもあった。ユイットルはこれからが旬で、滋養があり、生のままでも極味で知られる珍重な食材だった。わざわざこの貝を食するために、第一王都から訪れる貴族や大商人たちもいた。もちろん、庶民の口にはいるようなしろものではない。 港街の市場の外れにある少し崩れた感じの飯屋では、午後に入ってすぐに振ってきた雨のために早上がりをした荷降ろしの人足(にんそく)たちが集まってきて賑わっていた。 「麦酒おかわり!」 今の時季から夏にかけて麦を発酵させた酒がよく飲まれていた。次から次へとおかわりの声が掛かった。 「あいよっ!あんた、早くつまみ出しとくれ!」 ひとりで相手をしている四十がらみの女が亭主を急かした。亭主があわてて野菜炒めを皿に乗せてやってきた。 「あーあ、こんな野菜のくず炒め物でなく、ユイットルでも食いてえなぁ」 ようやく出てきたつまみに文句を言う男に、おかみがむっとして麦酒の大杯をドンッと置いた。 「こんなくずで悪かったねっ! ユイットルを食いたきゃ、金出しな、そうしたら仕入れてきてやるから」 男の連れがやれやれと苦笑いした。 「そんな金あるわきゃない、くず炒めでも食えるだけましさ」 そりやそうだと文句を言った男も肩をすくめて杯を傾けた。 「どうやら、姫様の縁談、まただめになったらしい」 国王の愛娘トリテア王女は、セラディムの王弟に続いて、二の大陸の国王従弟の婿入りもだめになったのだ。 「残念だな、今年は期待したのに」 王族の結婚のときには、一年間、酒の購入税を安くしてくれるので、男どもには歓迎されていた。 「酒じゃなくて、麦の税金、安くしてほしいもんだよ」 おかみが愚痴ると、男が首を振った。 「戦争始まるらしいから、無理だな。逆に上がりそうだ」 世帯税じゃないといいけどとおかみが心配していた。 いつもの夜、たわいのない会話や心配ごと、いつものように過ぎていき、いつものように朝を迎えるはずだった。 「あれ?」 おかみが、外が一瞬明るくなったと思った、次の瞬間。 光の矢が大地に突き刺さり、すさまじい熱と閃光と衝撃の嵐が、アルディ・ル・クァを襲った。 港街すべてを飲み込み、光と衝撃の波が、怒涛となって周辺の海や森林に広がっていった。空は引き裂かれるように震え、ところどころ黒く縁取られた白煙が湧き上がり、渦を巻くようにして大きく立ち上っていく。 ヒトは悲鳴も上げる間もなく死に至り、家々も熱で蒸発したり、爆風で破壊されりした。 その爆風と閃光と白煙が去った後は、周囲に瓦礫が外輪のように積まれた大きく抉れた土色の広大な穴が広がっていた。 (「イージェンと極北海の波浪(ノオォルデュウヴァアグ)(下)」(完))
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