カーティアの王宮では、内乱を収束させるために緊急に内々での戴冠の儀式が開かれた。そのことは要所に伝えられ、民びとの口にも上っていった。前日から、どうやら王位争いの内乱が起きたらしいという噂は流れていた。いつのまにか、王都護衛軍がルト将軍からセネタ公に指揮権が移り、戒厳令が敷かれていたからである。しかし、南方大島との戦争も近いこともあって、戒厳令はそのためではないかという見方もあって、情報は錯綜していた。 そして、今日、戴冠の儀式が執り行われ、正式に第二王子ジェデルが国王に即位したと発布された。王都の民はおおいに驚いた。 その一方で、第二王子は以前立太子されたにもかかわらず、正妃に王子が生まれるとすぐに廃太子されたことに以前より民の間では同情する声も多かった。文武両道に秀で、聡明で公正な第二王子が国王でもよいという流れになっていった。しかも、祝福の黄金雨が降ったという新国王の即位は学院も認める吉事であると伝わった。学院が認めている国王であるということが民心に安堵感を与えていたのだ。もちろん、学院を全滅させたことは緘口令が敷かれていて外部に漏れていなかった。 前王派であることから逆賊となった貴族たちが地方に脱出したが、追討隊が放たれていた。一部争乱になることは確かだったが、王立軍がほぼ制圧されてしまったので、国を二分するような規模にはならないと思われた。
フィーリは、息つく暇もないほど忙しく動き回っていた。セネタ公はこちらから申し込むまでもなく、息女の後宮入りを切望しており、後は国王の許しがあればよかった。とりあえず、侍女長として入ってもらい、後宮を仕切ってもらうことにした。それだけでもフィーリは助かった。なにしろ、どこも人手不足である。国王に出すお茶のことまで聞かれていてはたまらなかった。 公爵家領地の執務官の経験があるイリーニア姫は、他の貴族の子女からも気が利きそうなものを何名か選び、後宮と執務宮の従者侍女をまとめ、王宮内の雑務を一手に引き受けてくれた。 やっと一息ついて、王宮護衛隊の本営に詰めていたフィーリの元に報告が入った。 「フィーリ様、裏門周辺にうろついていた不審者を捕らえました。エスヴェルンから来た学生と名乗っております」 尋問室に向かうと、後ろ手に縛られた不審者が椅子に座らされていた。 「このものか」 フィーリが正面から見た。紅い短い髪のまだ十代半ばくらいの少年で下を向いていたが、意思が強そうで唇をかみ締めていた。剣を持っているし、学生というよりは修行中の剣士のように見えた。 「なぜこの国に来た」 フィーリの質問に少年が答えた。 「エスヴェルンの魔導師学院長を追いかけてきた。政経学院の学生なので…外交の勉強をと思って」 見え透いた嘘と思った。しかし、改めて少年を見てはっとなった。 「学院長殿に対応していただこう。エスヴェルンの学院長と面会されているからな」 フィーリは自分が直接連れて行くと護衛兵に言った。少年に抵抗しないよう言い、剣と外套を持ち、引っ立てた。だが、学院長室には誰もいなかった。しかたなく、広間に戻った。広間から放射状に伸びている廊下のひとつの奥が淡く光っていた。そちらに向かって少年をうながした。廊下の奥から小さな影が見えた。桶を持って歩いてくる。 「あっ!」 少年が息を呑んだ。小さな影を見て、フィーリがほっとした顔をした。 「お弟子殿、学院長殿はどちらですか」 弟子と呼ばれたセレンは、顔を上げて前を見た。驚きのあまり、桶を落とした。幸い、空だったが、ガランと音をたてて床にころがった。 「あ、あの…調薬庫…です…」 フィーリは丁寧に礼を言い、落とした桶を拾ってセレンに渡した。少年を押しやって調薬庫に向かおうとした。少年が振り返り、セレンに目配せしたが、セレンはその意味がわからなかった。わからないままに、後から付いていった。 調薬庫では、イージェンが薬研(やげん)で薬草を粉砕していた。昨夜途中まで作りかけた薬もあり、魔力で精錬してより効力のある薬も作ろうと思った。。 「学院長殿」 手を止めた。フィーリが近づき、耳元で言った。 「エスヴェルンから来た学生と言っています…学院長を追ってきたと。エスヴェルンの学院長は、すでに解放したのですよね?」 うなずいて、少年を見た。扉の前にセレンが青い顔で立っていた。フィーリがさらに声を潜めた。 「あのものは…もしや…」 言いかけたのをイージェンが遮った。 「こいつのこと、陛下は知ってるのか」 フィーリが首を振った。 「こいつのことは、忘れろ」 フィーリはきっぱりとうなずき、深くお辞儀して少年の剣と外套を卓上に置き、出て行った。セレンが呆然としていると、イージェンが言った。 「水はどうした」 セレンは桶を置いてイージェンに寄って行こうとした。その前にイージェンがセレンに近寄った。セレンはしゃがみこんだ。 「お願いします…このヒトを…はなしてください」 床に額をこすりつけた。イージェンがかがみこんで、セレンの腕を掴もうとした。少年が身体ごとぶつかって行った。 「殿下!」 セレンは思わず叫んでいた。イージェンはびくともせず、ヒトにあらぬ速さでラウドの喉を掴んでいた。そのまま身体を吊り上げた。 「ぐあっ!」 もがくこともできず、ラウドの顔色が青黒くなった。 「やめて、やめてぇ!」 セレンがイージェンにしがみついた。イージェンは床に叩きつけるようにして放した。ラウドは身体をしたたか床に打ち、仰向けになってうめいた。 「ううっっ…」 イージェンがラウドのわき腹を蹴った。 「勇敢なのはいいが、相手を良く見てからにするんだな!」 ラウドの服を掴んで、吊り上げ、乱暴にセレンの小さな椅子に座らせた。ラウドが激しく咳き込み、息を荒らした。寄っていこうとするセレンをイージェンが腕を掴んで止めた。ラウドが必死に息を整えて言った。 「いったい…どうしてこんな…さっぱりわからない」 状況が飲み込めないようで、しきりに首をひねった。 「この国で反乱が起きたのを知らないのか」 ラウドがうなずいた。イージェンがサリュースに話したときと同じように説明した。ラウドが驚き、下を向いた。 「父王を殺した…」 他国では過去あったことと学んでいたが、エスヴェルンでは一度もなかった。現実として直面するとは思わなかった。 「なんで王太子がひとりでこの国をうろついていたんだ」 身分を隠していたし、近くに供もいなかったのだろう。しばらく言いよどんでいたが、話し出した。 「父上に同盟締結の挨拶に行けといわれて…途中でセレンを拉致した男がこの国に入ったと聞いて、助けに行きたいと思って」 半分嘘をついた。イージェンがセレンを見下ろした。 「王太子さまにも大切にされてるんだな」 セレンがイージェンから離れた。震えながら、ラウドの前に立ち、イージェンに向かって両膝を付いてひざまずいた。祈るように手を組み合わせた。 「お願いです、殿下をはなしてあげてください」 イージェンが不愉快な顔をした。片膝をつき、セレンの顎を掴んだ。 「お願いするからには、代わりになにかしてくれるんだろうな」 セレンはどうしたらいいかわからなかった。 「な、何をすれば…」 険しいイージェンの顔は、やはりあの人買いの男と同じ恐ろしい顔だった。 「俺を師匠とし、仮面の元には戻らないと約束するか」 セレンは青い瞳を見張った。ラウドが叫んだ。 「止せ!そんな約束するな!」 この男はセレンを困らせようとしているのだろう。ヴィルトは自分にとって厳しいが優しく、父王よりも近しい存在だった。セレンにとっても同じようなものに違いない。そのような大切なヒトから切り離そうとしている男に怒りを覚えた。 セレンはイージェンを見つめた。恐ろしい顔に、あの寂しそうな顔が重なった。なぜヴィルトと書いた紙を破ったのか、なぜ裏切って出て行ったのに怒らなかったのか、なぜ自分を師匠にしてヴィルトの元には戻るなと言うのか。セレンにはわからなかった。でも、ラウドを無事にはなしてもらうことができるなら、イージェンと一緒にいてもいい。逆らわないでいるなら、優しくしてくれる。ヴィルトに会えなくなるのはつらいが、我慢しなければ。セレンは震えながら言った。 「師匠のところには戻りません…イージェンさんを師匠(せんせい)って呼びます」 「セレン!」 ラウドが床をにらみ付けた。自分を助けるために、セレンがつらい目に会う。助けてやりたいのに、ますます悪くなっていく。全て自分のうかつな行動からのことだ。 イージェンが立ち上がり背を向けた。やるせない顔を見せたくなかった。 「たいしたもんだな、王族ってのは。こんな子どもにまで尽くそうとさせるんだからな」 後悔していた。セレンがラウドのために頼んできたのを見て、また嫉妬したのだ。だからいじわるなことを言った。返事できずに泣くだけかと思った。それなのに。 イージェンは、空の桶をセレンに突き出した。 「水を汲んでこい」 セレンは桶を受け取った。 「はい、師匠(せんせい)」 小走りに出て行った。イージェンがラウドの後ろに回り、縄を掴んで立ち上がらせた。 「何を!」 縄は緩み、すとんと足元に落ちた。呆気にとられているラウドに言った。 「明日の朝、仮面のところに送り届けてやる。それまでおとなしく手伝え」 ラウドを棚の前の台に連れて行き、薬研(やげん)で薬草をすりつぶすようにいいつけた。 「いいか、ゆっくりと丁寧にすりつぶすんだぞ」 ラウドはますますぽかんとした顔でイージェンを見た。手を振ってやるようにうながされ、あわてて薬研の横に座り、石を動かし始めた。イージェンが紙に何か書き、調薬庫の外に出た。指笛を吹くと、廊下を遣い魔が飛んできた。筒に入れて飛ばした。 ほどなくセレンが戻ってきた。ラウドが手伝わされているのを見てなぜかほっとした。桶の水を大釜に注ごうとしたところをラウドが手を貸した。
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