二の大陸キロン=グンドのほぼ中央に位置するガーランドとウティレ=ユハニの国境近くにバランシェル湖がある。その湖には、異端を警戒するようにと国境守備隊が配備されていて、ウティレ=ユハニのグリエル配下であったルキアスは、大魔導師イージェンの口利きでその部隊に臨時に配置された。 イージェンから、湖の周辺と湖底を調べるよう指示されたガーランドの老魔導師リギルトは、ルキアスを連れて湖の周辺を調べたが、とくに変わったところはなかったので、湖底を調べることにした。守備隊の警邏隊兵士長バウティスが指揮する巡視船を借り、ルキアスも乗り込んだ。 リギルトが湖底まで潜り、丹念に調べていき、湖底の地図を消し込みしていった。 湖は広く、消し込みはそう簡単には終わらなかった。東側の調べをしていた日の午後だった。この日も何回目かの潜水をして、巡視船に上がってきたリギルトが、肩で大きな息をついた。ルキアスが暖かい茶を入れて差し出した。リギルトがありがたいと受け取り、すすった。 「かなり疲れてるみたいですけど」 ルキアスが心配そうに尋ねた。リギルトが目頭を指で押さえた。 「年には勝てないな、回復が遅い」 それに潜水していられる時間が短くなってきたと嘆いた。 「十五ミニツが限界のようだ」 魔力で包み込みながら空気を作らなければならないのでよけいに力を使うのだ。一度湖面に上がってきて一息つき、また潜るしかなかった。リギルトが顔を上げ、船の左側を見た。 「漁船か…」 漁をしているようで、帆を畳んで停まっていた。ルキアスが立ち上がって、船の上で網を引き上げているものを見つけた。 「エルチェ…」 大柄で太い腕と脚。髪も男のように短く切ってズボン姿で力強く網を引いていた。 ウティレ=ユハニを逃げて来たティセアと自分が湖を渡るのに手助けをさせて迷惑をかけたので、詫びにと服を上げようとしたが、突っ返され、寂しい気持ちになった。兵士長のバウティスに気に入ったのかと言われてから、魅かれているのがわかった。 ルキアスも故郷にいた頃は、ごく普通にいずれ村の娘の誰かと所帯を持ち、父のように家族や村を守りたいと思っていたが、幼なじみの娘たちに甘酸っぱい想いを感じたことはなかった。 友だちになったヴラド・ヴ・ラシス会頭の孫アルトゥールに半ば強引に本拠の館に囲われている娼婦を抱かされたが、女を知ったというだけのことだった。ただ、男にしなだれかかってくるような女はどうも苦手だとわかった。ウティレ=ユハニの国境守備隊に配属された後は、同僚たちに娼館に誘われてもいかなかった。 エルチェの男勝りで力強いところが気に入っていた。嫁にするならあんなふうに気風(きっぷ)がよくて丈夫で働きものがいい。それに、エルチェは乱暴なだけでなく、汚れた長靴をきちんと洗ってもってきてくれるような心配りもあって、娘らしく頬を赤くするようなかわいらしさもある。 「でも、無理だよな」 いずれ故郷に戻って村長である祖父の跡を継ぐつもりなので、自分がここに根を下ろすことはできない。かといって、付いて来てくれとも言えない。父親がいるし、生業もある。今ならまだあきらめられる。ふと気がついた。 「あ、そっか」 振られるかもしれないことを考えなかった。ばかだなと鼻の頭をかいた。 ルキアスがリギルトから飲み終えた茶碗を受け取った。 リギルトが地図を示した。 「これからこの辺りを潜るから」 少し移動することにした。エルチェの漁船にぐっと近くなった。潜ることで魚が逃げてしまうだろう。リギルトが潜る前にエルチェの船に向かった。網を引き上げ終えたところだったエルチェが空に浮かんでいるリギルトに気が付き、あわてて土下座した。 「魔導師様」 船にはエルチェしかおらず、ひとりで漁をしていた。 「これからこの辺りを潜るので、魚が逃げるだろう。別の場所で漁をしなさい」 エルチェが船底に額をつけたまま、わかりましたと返事した。 リギルトがすぐに魔力で身を包んで湖の中に飛び込んだ。エルチェが沈んで行く小さな光をしばらく見ていた。引き上げていた網には魚が何匹か掛かっていたので、それを外して、湖水を張ったたらいに投げ込んだ。 父親はルキアスからもらった銀貨を持って関門の街に遊びに行ってしまって、しばらく帰ってきていない。どうせ、『賭場』にでも行っているのだろう。服ももらっておけば売って金にできたのにとぶつくさ文句を言われた。 エルチェの母親は大柄で泳ぎが得意だった。甲斐性のない亭主の代わりに潜りで貝や魚を獲り、なんとか食いつないでいたが、秋口に急に水温が下がったときに無理して潜って足をつり、溺れて死んだ。エルチェが七つのときだった。 網のほつれを直しながら、巡視船を見ていた。ルキアスが腕組みして湖面を見つめている。顔は子どもっぽいが、身体はもう大人で自分よりも大きくてたくましさがある。何度も戦場をかいくぐってきたようで、顔も身体も傷だらけだった。でも、すさんだ感じがなく、明るくて…優しい。けれど。 「きっと…みんなに優しいんだ…」 そうに決まってる。勘違いしちゃだめだ。きっとあいつらと同じだ、からかってるだけだ。 エルチェも子どもの頃は、ごく普通に誰かに嫁いで、子どもを産んで育てていくのだと思っていた。だが、年頃になって村の若者たちに大きな身体と似合わぬ可愛らしい名前をからかわれてからは、自分はずっとひとりで生きていくと決めていた。同じ年頃の娘たちはもう『おかみさん』になって子どものひとりやふたり産んでいるが、ひとり身のほうが気楽だと思うようにした。まして、ルキアスは軍人だ。ここにずっといるわけではない。いずれまた別の赴任先に行ってしまうのだ。これ以上関らないほうがいい。そうは思っても、つい巡視船が見えるところで漁をしてしまっていた。 「あ、もしかしたら」 あの若さで兵士長だ。武功を上げたのだろう。甲斐性がある男にはどこの親も進んで娘を差し出す。もう嫁がいるかもしれない、子どももいたりして。 勝手に思っているだけなのだが、気持ちが沈んでいく。さっさと網を片付けて、別の漁場に行こうと立ち上がった。 巡視船のルキアスが外套と上着を脱いでズボンだけになり、長靴も脱いで、飛び込んだ。 どうしたのだろうかと見ていると、しばらくしても上がってこない。なにかあったのかもとエルチェが大きく胸を膨らませ、湖に飛び込んだ。 この辺りは水深が七〇セルほどあり、ふつうの漁師は潜らない。エルチェはこの程度ならば難なく底まで達してしまう。陽が射しているので、なんとか潜って行くルキアスの姿が見えた。だが、おおむね五〇セルあたりで限界になったらしく、浮き上がってきた。エルチェとすれ違うとき、下を指差した。見ると魔導師のリギルトが水草の間に見えた。様子がおかしい。手で水を掻き、潜って近づいた。 リギルトは溺れていた。足に水草が絡まって上ってこられなかったようだった。エルチェが帯に挟んでいた小鉈を抜き、水草を切って、リギルトを抱え、水面を目指した。 水面に出ると、ルキアスが泳いで寄って来た。 「リギルトさま!」 リギルトの頬を叩いたが、反応がない。船の上では、兵士長のバウティスはじめ、兵士たちが大変なことになったと騒いでいた。すぐに船の上に上げた。ルキアスが耳元で呼びかけ続け、バウティスが胸に耳を当てた。 「心臓が動いてない…」 ルキアスがあわてて胸に手のひらを重ねて押し当て、ぐいぐいと押した。 「リギルトさま!しっかりしてください!」 みんなで呼びかけてと言い、何度も心臓の辺りを押した。バウティスが頬を軽く叩き、兵士たちと何度も呼びかけた。 「魔導師様!」 胸を押し続けていると、リギルトがぶわっと口を開いた。 「リギルトさま!」 リギルトが口から水を吐き、眼を細く開けた。 「あ…あっ…」 胸を大きく動かして息を吹き返した。みんなほっとしてへたりこんだ。 急いで岸に戻ることにした。心配そうに見ていたエルチェがよかったと胸を撫で下ろして自分の船に帰ろうと、水に飛び込んだ。あわててルキアスが叫んだ。 「エルチェ!付いて来てくれ!」 聞こえたらしく、エルチェが船に上がり、帆を張って、巡視船の後を追ってきた。速度が違うので、次第に水をあけられていったが、岸に向かってきていた。 岸に着くと、すぐに戸板に乗せて、詰所に運んだ。従軍の看護兵を呼んだ。医師ではないが、怪我の手当てや薬などの取扱いができる。身体を温めて、薬湯を飲ませると、ようやく落ち着いた。 「…なんと、情けない…」 リギルトが涙を流して震えた。冷たくなった足を湯で温めながら、ルキアスが首を振った。 「ずいぶんと無理されてたから…情けないなんて…そんな」 そこにようやくエルチェがやってきた。エルチェがリギルトを助けてくれたと聞いて、部隊長が礼を言った。 「ご苦労だったな、よくやってくれた」 後で礼金を渡すから、まずは着替えてくれと兵士に服を用意させようとしたが、女の服がないことに気が付いて困ってしまった。ルキアスが気づいて、服ならあるのでと部屋に取りに行ってきた。 「魔導師様、大丈夫なら、帰るから」 エルチェがこのままでいいと帰ろうとしたが、部隊長がそのままでは返せないからと湯を張ったたらいを部隊長室に運ばせて、使うようにと無理やり押しこんだ。 着替えはしないと風邪を引きそうだった。仕方なく湯を使い、もらった服を着た。肌着や下穿きはなかったので、素肌に付けた。少しきついが、なんとか着られた。上着もスカートも丈が少し短かった。スカートをはいたのは何年ぶりか、『春の訪れの祭り』のときにはいて、村の若者たちにからかわれたとき以来だった。 たらいを持って井戸に行き、服を洗っていると、着替えたルキアスがやってきた。 「エルチェ、ありがとう、俺、あそこまで潜れなかった」 がんばったんだけどなと悔しそうに頭を振った。エルチェはスカート姿が恥ずかしくて、ルキアスを見ないようにして濡れた服を堅く絞った。 「あんたが潜ったところまでいける若いやつはいない、年配になら少しいるけど」 最近若いやつら軟弱だからと言いながら、絞った服を広げてパンパンと叩いた。 ルキアスが茶を入れるからと部屋に誘った。濡れた服は干し場に干すことにした。肌着と下穿きを下にして、その上から胴着とズボンを掛けた。 ルキアスの部屋はバウティスと相部屋だが、バウティスは港に戻っていて、部屋にはいなかった。 リギルトはひどく落ち込んでいるようだが、明日には遣い魔を送って代わりの特級に来てもらうからと、眠ったという。 「かなり疲れてて、十五ミニツくらいしか潜っていられないっていうのに、時間過ぎても上ってこないからヘンだと思って」 それで、飛び込んだのだ。 やかんに茶葉を入れて葉っぱも混じったまま茶碗に注いだ。向かい合って茶を飲んだ。 エルチェはずっとうつむいたままで顔を上げなかった。なんとなくてれくさいのだとわかって、ルキアスもてれくさくなってきた。うつむいた顔と落ち着きなくスカートを引っ張っている姿がとてもかわいらしく思えてきた。胸がどきどきとしてきて、身体が熱くなっていく。まずいなと声を掛けた。 「これ、飲んだら、送ってく」 ルキアスが親父さんに漁ができなかったこと謝りにいくからと二杯目を飲み干した。エルチェが首を振った。 「親父はあんたがくれた金持って、関門の街の賭場にいったきりだ」 金がなくなったら戻ってくるだろうけどとエルチェも飲み干した。扉が叩かれ、部隊長から帰りに部隊長室に寄るようにと伝言が届いた。 服はまだ乾いていなかったので先に部隊長室に向かった。部隊長がエルチェに袋を渡した。リギルトを助けてくれた礼金だった。 「いらないです」 エルチェは断った。 「どうせ親父の『博打』でなくなる」 頭を下げて出て行こうとした。ルキアスがその手を引っ張った。 「親父さんには内緒にしておけばいい」 部隊長も優しい目でうなずいた。袋を握らせ、送ってくるのでと部隊長に挨拶して外に出た。まだ濡れていたが服を取り込んでから詰所の裏手から出て、湖岸に向かった。もう夜になっていた。 灯りを手に何も話さずにふたり黙って歩いていた。ルキアスは身体が熱く荒っぽくなっているのが知られてしまうのではないかと落ち着かなかった。ちらっと横目で見るとエルチェが着心地悪そうに背を丸めて歩いていた。 抱き締めたい。 沸きあがる気持ちを抑えて、地面を睨みつけ、湖面が見えるところまでやってきた。 妙に湖のほうが明るいなと顔を上げた。湖の中央辺りがぼおっと明るくなっていた。 「なんだ…あれ…」 ルキアスがつぶやくと、エルチェも身を乗り出した。 「あんなの…見たことない」 湖面に波が立って来た。明るくなっているところが盛り上がってきている。何かが湖から出てこようとしているのだ。しかも、とても大きい。うねりのような波が湖岸に押し寄せてきた。ついに光が水から出て明るく夜空を照らし出した。 「まさか…」 陽の光のように明るく強い光を発するもの。ウティレ=ユハニの王都の上空を飛んでいた鋼鉄の鳥が発していた明かりを思い出した。 (「イージェンとパリスの子ら(上)」(完))
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