一の大陸南方海岸沖に停まっている『空の船《バトゥウシエル》』は、夜明けとともにゆっくりと空中に浮上した。レアンの軍港には、明日夜には戻ると連絡を入れ、西に向かって飛んだ。 少し寝坊してしまったカサンが、顔を洗ってから食堂に向かう途中、艦橋にイージェンの姿があったのでそちらに顔を出した。イージェンが窓の前に透き幕を出していた。地図が投影されている。 「おはよう」 イージェンが振り返って挨拶した。カサンがむっとした顔でおはようと小さく返した。すたすたと幕の前まで行き、じっと見つめた。 「これは…第五大陸の地図か」 指で指した。イージェンが手のひらで操舵管の前にある板に触れると、地図の一部が拡大された。 「そうだ、この大陸最東の国イェルヴィールの港に買出しに行く」 さらに拡大されて東海岸の端が白く光った。 「港街《スィイムルグ》だ」 すっと地図の幕が消えた。廊下でドタドタと足音がして、レヴァードが艦橋に駆け込んできた。 「カサン!こんなところにいたのか、すごいぞ、この船、空を飛んでる!」 カサンが目を剥いた。 「えっ!」 早くと急かされ、あわてて甲板に出て舳先に回った。手すりから下を見て、口を開けて、目を見張った。 海面から数十セル離れたところを飛んでいて、はるか眼下に白波が立っている。この船が飛ぶことは聞いていたが、実際に飛んだところを見たのは初めてだ。 「…これは…」 がくっと手すりに額を付けた。 「…これは…」 驚きより恐れ、それとも、今だに信じられないという気持ちなのか、信じたくないという気持ちなのか。言葉にならず、震えが来た。 「大丈夫か」 いつの間にかイージェンが後ろに立っていた。 「気分が悪いなら、部屋に入っていろ」 カサンが首を振った。 「いや、大丈夫だ」 レヴァードが朝飯食おうかと肩を叩いた。 船室に入っていくふたりの後姿を見てからイージェンが船室の脇の通路を通って船尾に向かった。途中厨房の窓から、赤ん坊をおんぶしたティセアとルカナが朝飯の仕度をするのが見えた。赤ん坊ラトレルはあうあうと言いながら機嫌よく手足をばたばたさせていた。 「重くありません?」 ルカナが心配そうに尋ねた。 「ちょっとな、でも、このくらいはできないと」 ティセアは野菜を刻んでいた。たどたどしいが、楽しそうにやっていた。 船尾では、ヴァンとセレンが用桶を干していた。 「師匠(せんせい)、おはようございます」 セレンが、ついでにリュールとウルスも洗ったんですよと足元を示した。二匹ともすっかり毛が濡れてしょぼんとしていた。 「こいつらは俺が見ているから、朝飯食って来い」 ヴァンとセレンも船室に入っていった。リュールが足に頭をこすり付けてきて、ウルスがうなだれているような格好で座り込んでいた。屈みこんで抱き上げ、手のひらで毛を逆立てて乾かしてやった。 空を見上げると、すでに一の大陸の『星の眼』の監視下から離れていた。 五つの大陸上空にそれぞれあるという大魔導師の道具『星の眼』。だが、今は一の大陸のものしか動いていない。すべての大陸を監視することはできないのだ。そして、二の月には『天の網』がある。動けば、全ての『星の眼』が使えるようになるのではと考えているが、果たして『天の網』自体が動くかどうかわからない。ともかく行って見なければならない。急がなければならないのだが、さすがに衛星軌道上まで飛んでいけるのか、心配だった。 船は速度を上げ、午後には五の大陸の海岸が見えるところまでやってきた。 リィイヴがやかんに茶を入れて厨房から出てきた。ちょうどヴァシルと出くわした。 「買出しに行くんだって?」 ええと返事して、エアリアの具合はどうかと尋ねてきた。 「まだふらふらしてるし、買出しは無理だよ」 それはルカナと行くのでといいのだけどと沈んだ様子だった。 「イージェンに叱られたの?」 あまりに元気がないので、心配した。ヴァシルは首を振り、ため息をついて艦橋の方に歩いていった。 エアリアの部屋に行くと、ベッドの横にある小さなテーブルの上に紙を広げて、書き物をしていた。もちろん、魔力で書いているので、リィイヴには読めない。 「お茶もってきたよ」 紙をどけてお茶を茶碗に注いだ。隣に座って一緒に飲んだ。 「五の大陸の港街に買出しに行くって。なにか必要なものある?」 買ってきてくれるよう頼むけどと言うと、エアリアが紙の端切れに魔力で何か書き込んだ。 「ルカナに渡してください」 エアリアは、溶けちぎれた髪を肩口で切りそろえていた。短い髪もなかなか活発な感じでリィイヴはかわいいと思った。手のひらの火傷は治ったが、背中の火傷が酷かったようだった。イージェンにも魔力で治療してもらったが、赤い痣になってしまったらしく、気にしていて、着替えや湯を使うときリィイヴに見せないようにしていた。 ルカナに渡してくるからと部屋を出て、艦橋に向かった。買出しに行くものたちが集まっていた。 「こんなに…いくの?」 てっきりヴァシルとルカナだけで行くと思っていたら、レヴァード、ヴァン、カサン、セレンも行くことにしたらしい。それでヴァシルが憂鬱そうだったのかと納得した。ルカナにエアリアから頼まれたと紙切れを渡した。イージェンがおまえも行くかとリィイヴに尋ねた。 「ぼくはいいよ、エアリアの看病があるし」 まだ身体の力が戻っていないから身の回りの世話したいと遠慮した。 「大丈夫なの、こんなに行って」 ヴァシルとルカナの足手まといになりそうだ。イージェンが買出しの書き付けと金袋をヴァシルに渡した。 「少しでもシリィの生活ぶりを見てくるといい」 ヴァシルがため息まじりで受け取った。 先に荷車を置いてきたヴァシルがレヴァードとヴァンを両脇に抱え、ルカナがカサンとセレンを同じように抱えて岸に向かった。 「帰り、ふたりじゃ、運べないんじゃないの?」 イージェンが何度か往復すればいいと素っ気なく言って、洗濯物を干しているティセアのいる船尾に行ってしまった。 エアリアの部屋に戻ってみると、また熱心に書面を作っていた。 「あまり根詰めないほうがいいよ」 ゆっくりやればと羽ペンを置かせた。素直にペンを置き、少し歩かないとと床に立ったが、膝ががくっと折れた。とっさに抱きとめた。 「まだ力入らないんだ」 ええとエアリアが手を借りてベッドの縁に腰掛けた。 …まさか、ずっとこのまま… 事故で脊髄などを痛めると治療しても半身不随になることがある。起き上がれるから脊髄を痛めていることはないようだが、足腰に障害が出ているのかもしれない。 エアリアが隣に座ったリィイヴに寄りかかった。 「リィイヴさん…」 震えていた。 「どうしたの、どこか痛いの?」 優しく肩を抱いた。エアリアが顔をリィイヴの胸にうずめた。 「恐くて…わたし…自分が…こわい」 サイードを殺すとき、すさまじい殺意が沸いた。本当に『人でなし』かもと泣いた。 「そんなこと気にしないで。気を抜いたら逆に殺されてしまうんだから」 エアリアがぎゅっと抱きついた。 「リィイヴさんの…親兄弟も…殺すことになるかも知れません…」 リィイヴがほんとうに華奢で細い腕を掴んで、エアリアを離し、顔を見つめた。 「そのときはためらわないで…殺して」 震えている唇にそっと口付けした。
ヴァシルたち買出し組が、港街《スィイムルグ》から数カーセル離れた海岸に降りた。ヴァシルが荷車を引いて、海岸から幹道に向かった。 「こんなに大勢だと目立つわねぇ」 ルカナが肩越しに後ろからぞろぞろと付いて来る連中を見た。ヴァシルが疲れたため息をついた。 「なにごともないといいのだけど…」 レヴァードがうれしそうにしているから、凝りもせずにまたふしだらな場所に行くつもりなんだろう。金を渡さなければいいんだと金袋を握り締めた。 港街への幹道に出ると、馬や荷車、徒歩のヒトたちとかなり行き来が激しく、ひどく混雑していた。 「なにかあるのかな」 ヴァシルが港街に近付くにつれて賑やかになっていく様子に『耳』を澄ませてみた。 「だめだ、すごくごちゃごちゃしてる」 ヒトが多すぎて雑音ばかりで『声』を拾うことができなかった。 すでに街中に入ってしまった。ルカナが側を歩いていた子ども連れの夫婦のおかみの方に声を掛けた。 「あの…港街でなにかあるんですか」 枯れた草のような髪を無造作に結い上げているおかみが驚いて目を向けた。 「なんだね、あんた、知らないで来たのかい?」 ええ、遠くから来たものでというと、おかみが呆れていた。 「今日は夏の例祭なんだよ、州のあちこちからヒトが来るからね、それはもう賑やかでね」 ルカナが礼を言い、ヒト波をかきわけあわてて戻ってきた。 「大変よ、例祭があるんですって」 ヴァシルが首を傾げた。 「例祭って…」 『春の訪れの祭り』のようなものかとヴァシルが尋ねるとルカナも一の大陸では秋の収穫のときだけだと説明した。 『例祭』は夏に入るときと冬に入るときに行われる節目の行事だ。夏は、夏から秋にかけての豊作を願い、冬は、収穫を祝い、冬を越せるよう願うのだ。 「他の大陸からの連絡船も入港したらしいのよ」 『例祭』の間は、普通の商店は閉めてしまい、食べ物の屋台を出したりしているようだった。もちろん市場も二、三日は立たない。 「じゃあ、買出しなんてできないじゃないか」 ふたりで途方に暮れてしまった。遠方からの旅人が多いから、当然宿もいっぱいだろう。 「戻りましょう、これじゃあどうにも…」 と首を巡らせて、みんなにも話そうとした。ルカナが青ざめた。
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