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作品名:異能の素子 作者:本間 範子

第256回   イージェンと暁の星《オォゥヴエトワァアル》(下)(2)
 リュリク公がうまくまとめられるのかと心配した。バドロフ公が肩をすくめた。
「これ以上詰め込むとわたしの頭の袋が破れるから今日はおさらいに切り替えてもらったとでも言いますから」
 リュリク公も思わず苦笑して、それでいいだろうと後を任せ、学院長を訪ねることにした。雨が激しくなってきていた。
 サリュースはリュリク公の訪問を学院長室で受けた。学院長代理が青ざめ、ふたりの様子を気にしていたが、下がった。
「サリュース、いくら殿下が口出しするなと言われたとしても、お姿が見えない事態に手を貸さないということは許されんだろう」
 サリュースは椅子に座ったまま、机の前に立っているリュリク公を見上げた。
「殿下には少しお立場を解っていただかなくてはと思いまして」
 学院を甘く見ているようですからとリュリク公をにらみつけた。
「殿下がそんな心持の方かどうか、わからないわけもあるまい」
「あの『災厄』に影響されて、学院にも宮廷にも言いたい放題です。もともと強情な方なのに、一層ひどくなっています」
 矯正が必要でしょうと顎を上げた。
「どうあっても大魔導師様を『災厄』と言うのか、わざわざ我国に来ていただいたのに」
 サリュースが重々しい机の上に両手を置いて立ち上がった。
「ええ、五大陸の全ての王国の中心として、大魔導師が必要でしたからしかたなく所属させたのです」
 ヴィルトよりも扱いづらいと険しい顔を向けてきた。大魔導師を扱いづらいとは不遜なことをと思いながらも言わなかった。
「わかった、宮廷もよく考えよう」
 リュリク公が出て行った。サリュースがドウッと椅子に腰を落とし、大きなため息をついた。
「ヴィルト…何故あの男を後継者などに…」
 しばらく肩を震わせていたが、机の上に山と積まれた書面に再び眼を通し始めた。

 ジャリャリーヤは、王太子が来ないとすねて、ベッドに横になっていたが、悲しくなってきて泣き出した。
…王太子のうそつき…
 大切にするなんて、やっぱり口だけだわ。
ベッドから降り、布靴を履いた。テラスから庭に降り、見回した。
「執務宮ってあっちだったかしら…」
 会って言わないと。
「うそつき、わたしを大切にするっていったのに…」
 表に回って幹道を通っていけばよかったのだが、誰かに見つかったら嫌なので、だいたいの方向に向かって歩き出した。すぐに着くと思っていたら、次第に建物からも遠ざかり、道ではなくなって、真っ暗になってしまった。
 サンダーンルークの王宮は、中庭が少しあるくらいで、ほとんどひとつの建物の中にある。こんな広い王宮ではなかった。
「どこなの、執務宮、こんなに遠いの…」
 曇っていて月明かりもない。途方に暮れた。そのとき、頬になにか落ちてきた。
「…なにかしら…」
 次々と落ちてくる。水のようだった。
「あ…め…?」
 サンダーンルークはほとんど雨が降らない。降っても湿り気程度だ。もと来た道を戻ろうとした。
「大きな道に出ないと」
 だが、雨の粒がだんだん大きくなってきて、突然激しく落ちてきた。
「いたぁい!」
 大きな雨粒が突き刺すように振ってきた。激しい雨に肌や頭を叩かれ、驚いて、頭を抱えてしゃがみこんだ。
「痛い、痛いっ!」
 動くことができず、その場にうずくまってしまった。
「王太子…助けて…こわい…」
 泣きながら、ぶるぶると身体を震わせた。

 ラウドは一度王太子宮に戻った。それまでに探した区域を王宮配置図で確かめた。建物や幹道の近くはほとんど探していたが見つかっていないというので、どうやら道を大きく外れてしまって、森に迷い込んだようだった。
「森の中には池もあるし、窪地もある。明るいときならばともかく」
 夜では足元がまったく見えないだろう。どこかで足を止めていてくれればいいがと心配した。
「侍女長たちはもう一度王太子宮の中を調べてくれ。俺の部屋のある棟とかも」
 護衛隊には幹道と何本かある遊歩道の間を探させることにした。雨なのでたいまつではなく、玉硝子を被せた灯りにした。ラウドもひとつ手にして遊歩道から外れたところを探し始めた。雨が激しくなってきて、足元もぬかるんできた。
「殿下、このあたりはすでに探しました」
 イリィが寄ってきて、探し終わったところを書き入れた配置図を見せた。
「いなくなってからどれくらいになる」
 ふたとき以上は経っているという。もう少し奥を探そうと配置図を見直しているとき、空から降りてくるものがいた。
「殿下」
 シドルシドゥだった。素早く頭を下げて、配置図のある位置を指で指した。
「よいのか、こんなことをして」
 先に四の大陸の仕様書をラウドに貸して、サリュースにひどく怒られたに違いなかった。
「学院長様以外は手助けしなければならないと思っているんです」
 自分が叱られればいいのでとまた空に飛び去った。一緒に行くというイリィに王太子宮に戻って湯浴みの用意をさせて青辛子のスープを温めておくよう命じた。イリィは心配そうに森の奥に入っていくラウドを見送った。
 シドルシドゥの示した場所は執務宮とは反対方向の森の中で、すぐ側には池がある。落ちたら大変なことになるかもしれない。灯りで足元を照らし、急いで走っていく。雨にすっかり濡れて、身体が重くなっていくが、気持ちが急いていた。早く行ってやらなければ。
 道なき薮を掻き分けてようやく池の近くにやってきた。
「妃っ!」
 何度も叫んだ。
「どこだ、どこにいる!」
 示されたあたりにはいるのだが、見当たらない。
…まさか、池に。
 背筋がぞっとした。落ちたにしても岸に痕跡があるはず。かがみこんで灯りの小さな光で探した。
妃と呼び続けていたが、雨音に混じって泣き声が聞こえたような気がした。そちらの方に薮を掻き分けて向かった。
 根をしっかり張っている背の高い木の幹の下にうずくまるヒト影があった。
「…妃…」
 ジャリャリーヤが顔を上げた。
「…王太子…?」
 そっと灯りを近付け、顔を見せた。
「よかった、池に落ちたかもと心配だったぞ」
 無事でほっとした。眼が熱くなっていた。ジャリャリーヤが首を振った。
「王太子のうそつき!私を大切にするなんて、うそばっかり!」
 夕餉に来ないなんて聞いていないと泣きながら怒った。ラウドが大きく息を吸い込んだ。
「言わなかったのはすまなかった。でも伝言しただろう?」
 ジャリャリーヤがひくっとしゃくりあげた。
「ずっと来られないって…そんな…イヤ…イヤッ…」
 自分に会えないと泣くジャリャリーヤがいとしくなって、ラウドは抱き締めたくてしかたなかった。拳を握って我慢した。
「公務なんだ、終われば毎日でも一緒に夕餉を食べられる、だから、少しの間待っててくれ」
 ジャリャリーヤが濡れた目を上げた。
「少しってどのくらい?」
 すぐ側に片膝をついた。
「ひとつきくらいだ、もしかしたらもう少し延びるかもしれないが」
 条約締結が上手くいけば、鉱山の視察にも向かう予定が組まれている。
ジャリャリーヤがううっと顔を伏せた。
「そんなに待てないわ」
 ジャリャリーヤがそっと手を伸ばして、ラウドの外套の端を摘んだ。ラウドがはっとなった。
「…一緒に連れていって…」
 ぎゅっと握った手が震えていた。
「それは…無理だ、国使として行くんだ、もしそなたを同伴したらふたりで公の席で挨拶しなければならない。できないだろう?」
 堅く握った手が白くなっていた。
「…できる…できるわ…」
 えっとラウドがジャリャリーヤの顔を覗き込んだ。
「今なんと…」
 ジャリャリーヤが顔を上げた。
「できるわ、髪も結うし、しきたりのドレスも着るし、挨拶もするから、だから」
 淡い灯りの元で青い眼が見えた。
「連れて行って。ここにひとりで置いていかないで」
 ラウドはうれしかった。髪を結うこともドレスを着ることも拒んでいたのに、自分からすると言っているのだ。宮廷にはだめだといわれるだろうが頼んでみようと思った。
「わかった。宮廷に頼んでみよう」
 ジャリャリーヤがこくっとうなずいた。王太子宮に戻ろうと手を差し出した。そっと手を乗せてきた。しっかりと握り締めて、立ち上がった。
「どこか怪我とかしていないか」
 首を振った。
「でも、痛かったわ、雨粒」
 こんなに大きな粒でたくさん降ってくるなんて、こわいと身震いした。
「秋にはしばらく雨の続く時期がある。嵐も来る」
 そのうち一の大陸の四季の『理(ことわり)の書』を読むといいと言った。外套を脱いで、ジャリャリーヤの頭から被せた。
「いまさら、遅いか」
 ラウドが苦笑したが、ジャリャリーヤは小さく首を振った。また手を握り、足元を照らしながら歩き出した。
 しばらくして王太子宮の建物から漏れる灯りが見えてきた。ほっとした。到着すると、妃の部屋の庭でイリィはじめ護衛隊のものたち、従者や侍女たちもみんなで出迎えていた。
「妃が戻った、みんな、心配かけたな」
 ラウドが侍女長たちを手招いてジャリャリーヤを連れて行かせようとした。
 ジャリャリーヤがその前に小さく首を折った。
「ごめんなさい…」
 か細い声で言うと、さっと部屋に入っていった。侍女長はじめみんなぽかんとして見送ってしまった。はっと気が付き、あわてて追いかけた。
 ラウドも着替えようと自分の部屋に戻り、湯を使った。リュリク公とバドロフ公が心配して訪ねてきていた。バドロフ公に小さく頭を下げた。
「すまなかった、うまくまとまったか」
 バドロフ公がはいと返事をし、ジャリャリーヤの様子を尋ねた。
「怪我もなかった。みんなにあやまったりもして、かなり気持ちがほぐれてきたようだ」
 面倒かけてすまないと椅子にかけるようラウドが勧めた。リュリク公が顎を引いた。
「なかなか思い切ったことをなさる。殿下には似合いかもしれませんな」
 殿下も大胆な行動で困らせるからと苦笑した。ラウドが顔を赤くした。リュリク公たちが出された茶を一口含んでから、ラウドが話し出した。
「妃が、カーティアに連れていってくれと言っているんだ、俺と一緒に行きたいと」
 バドロフ公がえっと大きな声を出して、リュリク公に睨まれた。
「それは無理でしょう。あのご様子では」
 リュリク公が難しいと首を振った。ラウドも茶を飲んで喉を潤した。
「俺も無理だと言ったんだが、妃が髪も結うしドレスも着る、挨拶もすると言ったんだ」
 リュリク公が眼を見開いた。ラクリエからさんざんジャリャリーヤの様子を聞かされていたので、自分からそのように言い出すということがよほどのことだとわかった。
「そうですか、殿下のお気持ちが通じたのでしょうね」
 リュリク公が明日の朝会で頼んでみてはと勧めた。
「ご夫妻での外遊となると財務大臣が頭を抱えるでしょうけど、わたしはよいと思います」
 反対は当然あるはずだった。反対意見を言わせてから、リュリク公がジャリャリーヤの様子の変化を説明し、理解を得ようということになった。
「よろしく頼む」
 ラウドがリュリク公の手を握った。


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