エスヴェルンの王太子ラウドは、妃ジャリャリーヤの部屋で夕餉をともにした翌日、午前中に執務宮の国王執務室を訪ね、父王に勉強会のことを報告した。 「ラシンヴァル公はじめ政経学院の教導師たちも参観に来るとかで大げさになってしまって」 困っていますというラウドに父王がいとおしそうに目を細めた。 「余も見たいが」 ラウドが驚いて手を振った。 「父上がお出でになったら、みんな緊張して勉強どころではなくなりますから」 ははっとうれしそうに笑う国王に、ヴァブロ公はじめ大臣たちもほっとした。王太子の婚礼式から体調がすぐれず、御前会議も早めに切り上げて、休んでいることが多かった。王太子がなんとか妃の気持ちを解きほぐそうとしていて、妃も少しずつ心を開いている様子だと聞かされて、気力が出てきたようだった。 午後から執務宮の会議室に移動したラウドは、そこでバドロフ公と勉強会の打ち合わせをした。 始まるまでの間茶を飲みながらラウドがイリィに尋ねた。 「学院で聞いてみたか」 イージェンたちの動向についてだ。イリィが困った顔で首を振った。 「学院長にお聞きしたのですが、知る必要はないと」 そうかとため息をついた。イリィが、でもと続けた。 「シドルシドゥ殿がこそりと教えてくれたのですが、南方大島にマシンナートたちの建物が出来ていて、島民が異端を信奉しているらしいのです」 ラウドが青ざめた。 「それでイージェンたちが大変なんだな」 イリィがおそらくとため息をついた。ラウドが茶碗をテーブルに戻した。 「前にリィイヴに言われたことがあったんだが、マシンナートのことはイージェンたちに任せて、俺は自分のするべきことをきちんとすればいいと」 そうは思うものの、やはり気をつけなければならないだろう。そのように啓蒙行動がされていることを聞くと、もしやまたカサン教授のようなものがやってきて、誰かに取り入ろうとするようなことはないのかと不安になる。 カサン教授のことは、たぶらかそうとしたのだと大魔導師ヴィルトに叱られはしたが、本音を言えばかなり気に入っていた。明るくて、いろいろと教えてくれて、『規則違反』ですがと内緒でプレインに乗せてくれた。自分の生半可な知識で飛ばして壊してしまったが、そのことで上から怒られただろうなと申し訳なく思っていた。バレーというマシンナートの都が始末されたときに亡くなっただろうと聞いて、悲しくなった。テクノロジイは異端だが、リィイヴやヴァンたちのように、良いヒトもいるのだとわかったし、アダンガルも異端の血が混じっているが、国王にふさわしいほどに優れた人物だ。 「マシンナートもみんな、リィイヴたちのようにテクノロジイを捨てればいいのだが」 イリィもうなずいた。 夕方、ジャリャリーヤはまたテラスで庭を眺めていた。レオノラが夕餉の用意が出来たと声を掛けたが、動かなかった。 ラウドを待っているのだ。 「妃殿下、殿下からご伝言で、今日から執務宮でお勉強会があるので、こちらには来られないとのことです」 ジャリャリーヤがさっと振り返った。 「…そんな、昨日は何も…」 言ってなかったと寂しそうに立ちすくんでいた。 「明日は来るのよね…」 消え入りそうな声だった。 「いえ、お勉強会は五日間続くそうです」 えっと驚いた顔でふらっと部屋に入ってきた。テーブルに着くと水出し茶を飲んだ。 「五日間ね、その後は来るのよね…」 何度も一、二、三、四、五と指折り数えている。 「その後は隣国カーティアに外交に向かわれますので、こちらには来られないです」 折っていた指をぎゅっと握り締めた。 「…もういらないわ…」 すっと立ち上がって寝室に入ってしまった。 「妃殿下」 レオノラは呆れてしまい、さっさと皿を片付けた。さんざん嫌っておきながら、優しい方とわかったとたん食事など一緒にして、今度は来ないとすねている。まるで幼い子どものようだ。 「殿下にお知らせするべきかしら」 でも、勉強会の邪魔をしてしまってはいけないし、明日イリィに相談することにした。 ふたときほど経ってから、レオノラは寝室の水差しを取り替えていないことに気づいた。寝室の扉を叩いて呼びかけたが、返事がなかった。怒るかもと思いながらも開けて入り、ベッドの横の小卓に近寄った。ジャリャリーヤはベッドにいなかった。 用足しでもしているのだろうと思ったが、気になって小部屋に声を掛けた。返事がない。しばらく待っていたが、まったく出てこないので、まさか倒れているとかと心配になり、扉を開けた。 いない。 あわててカーテンの陰や衣装扉を開けて棚の中など見たが、どこにもいない。窓が開いているので、テラスかと出たが姿はない。 「…どちらに…」 すでにすっかり暗くなっていて、今夜は雲が多く月も星も見えない。 すぐに侍女長に報告した。侍女長が侍女や従者も集めてあらためて部屋のすみずみから庭、王太子宮内を探させた。しかし、見つからなかった。 「ご様子からして、執務宮の殿下のところに向かわれたのでは」 レオノラが余計なことを言ったと身震いした。侍女長がイリィ・レン護衛隊長と連絡を取るようレオノラを執務宮に向かわせた。レオノラは護衛兵とともに馬車で向かった。途中馬車の窓から首を出して、どこかに姿が見えないかと懸命に眼を凝らした。だが、すっかり暗くなっている。ぽつりぽつりと雨が降ってきた。 執務宮の会議室で行われているというので、そちらに向かうと、控えの間には、待機している従者や護衛兵などが大勢いた。場違いなレオノラに不審な眼を向けて来たので、恥ずかしくてたまらなかった。ようやく奥にイリィを見つけた。 「レオノラ殿、どうしてこのようなところに…」 言いかけて、何かあったと察し、ふたりで廊下に出てきた。 「妃殿下のお姿がどこにも見えなくて」 王太子が勉強会でしばらく来られず、その後外交のために隣国に向かうと聞いたら、またすねて、食事もせずに引き込んでしまい、その後、姿が見えなくなったと説明した。 「…殿下のところに来ようとしておられると?」 たぶんとレオノラは今にも泣きそうだった。雨も降ってきたと聞き、すぐに王太子護衛隊に探すよう使いをやった。 「学院に居所を手繰ってもらいましょう」 そのほうが早い。レオノラには王太子宮に戻るよう言い、学院に向かった。 学院の玄関広間にいた教導師に学院長に面会を申し込むと、すぐに学院長室に案内された。サリュースは学院長代理と打ち合わせ中でイリィが入ってくると不機嫌な顔を向けた。 「何か」 ラウドともめたことで不愉快なのだろうと思ったが、ジャリャリーヤの姿が見えないと事情を話した。 「おそらく、執務宮に向かったと思われますが、なかなか見つからなくて、雨も降ってきたので、特級を出していただき、手繰ってもらえませんか」 サリュースが手を振った。 「学院はおふたりのことには関らないことになった。護衛隊で探してくれ」 特級は出さないと断った。イリィがそんなことを言わずにと頭を下げた。 「お願いします、もしお怪我でもされていましたら大変です、探してください!」 学院長代理もここは動かないとまずいですと言ってくれたが、サリュースはガンとして拒んだ。 「殿下は学院を甘く見すぎている。あの『災厄』のせいだろうが、この際、学院に逆らうとどうなるか、知っていただこう」 イリィがぶるっと震えて挨拶するのも忘れて学院長室から出た。 学院に逆らい、支持を得られなくなったら、宮廷や民から見放されることになるのだ。 「…殿下…」 王太子宮に寄り、様子を聞いたが、まだ見つかっていなかった。引き続き探すように言いつけて、執務宮に戻った。 勉強会は大公らの参観を受けて緊張した中にも充実しているようだった。控え室に置かれている時計を見ると、そろそろ休憩のようだった。会議室の扉が開き、参観していた政経学院の教導師や諸侯が出てきた。そっと会議室に入り、一番奥の壇近くに行った。ラウドはバドロフ公、ラシンヴァル公の子息などと話をしていた。イリィに気づいて、どうしたかと声を掛けた。言い出せず困っているとラウドの方から近づいて、隅に向かった。 「どうした」 イリィがジャリャリーヤがいなくなったいきさつを話した。 「いなくなった…俺が行かなかったからか…」 ラウドは驚いたというより戸惑った。執務宮に向かったのではないかと探しているがなかなか見つからない、学院長に捜索を頼んだが、先日もめたことが原因で拒まれたと震えた。 「サリュース、俺が逆らったって、そんな…」 学院を甘く見るわけはない。あまりにサリュースの叱り方がひどかったので、つい口答えしたのだ。だが、そのように言われるとは思っていなかった。 「どうしました、殿下」 バドロフ公が、さきほどまで機嫌よくしていたラウドの顔が真っ青になり、唇も震えているので心配した。ラウドは首を振ったが、決意した。 「バドロフ公、すまないが、俺はここで退席する。今日はお開きにしてくれないか」 イリィが止めた。 「わたしたちが探します、殿下は勉強会続けてください」 諸侯も見ているのに、まずい。だが、ラウドがきっと眼を吊り上げた。 「俺が探しに行かなくては。妃はこわがりなんだ、きっとどこかで震えてる…」 バドロフ公がどうしたのかとイリィを睨んだ。話せず困っていると、リュリク公が近寄ってきた。 「なにかありましたか」 ラウドが小さく頭を下げた。 「リュリク公、妃が俺のところに来ようとひとりで外に出たらしい。それで迷ってしまったらしく、見つからないんだ、探しに行きたい。今日はお開きにしてほしい」 リュリク公が眉をひそめた。 「学院と護衛隊に探させましょう。あとひとときほどですから、きちんと終わらせてから、妃殿下を見舞われればよろしいのでは」 いろいろと面倒を起こす妃だと内心ため息をついた。 「この間俺が口出しするなと言ったから、学院は手を貸さないと言っているそうだ」 ラウドが苦しそうにつぶやいた。リュリク公が眼を見開いた。 「まさか」 リュリク公もそこまでサリュースが態度を硬くするとは思わなかった。王宮内なので高をくくっているのだろうが、それでも、窪地や池などもあり、夜で足元を危うくして怪我をすることもある。最悪の場合もありうる。 「頼む、やっと気持ちがほぐれてきたところなんだ。探してやって、俺が大切にしているところを見せてやりたいんだ」 リュリク公が返事するよりも早くバドロフ公が言った。 「わかりました、殿下。早く妃殿下をお捜しください。こちらは、うまくまとめておきます」 胸に手を当ててお辞儀した。 「ありがとう」 ラウドが礼を言い、イリィと一緒に会議室を出て行った。
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