夜の湖上を渡り、対岸の崖の上に来たイージェンは、顔をしかめた。なんとなく気配が妙な感じなのだ。いろいろと妙な気配や感覚を覚えることがある。だが、その妙さ加減が何なのか、わからないのだ。もっとはっきりとわかればよいのだがといつも思っていた。 「ここの王宮は建て増しが多いな、かなり変わってる」 王宮の造りはたいていどこの国も判で押したように同じだったが、カーティアは代々の国王が多くの妃を持ったため館が増設されていた。しかし、それはイージェンの知るところではない。多少変わっていても、半球屋根のある魔導師学院を見つけるのはたやすい。すぐに見つけて降りて行った。 二階のバルコニーに降り、半開きになっている扉の間から中をうかがった。ひとけはない。中に入ると教室のようだった。周囲の壁は書棚になっていて分厚い本がびっしりと並んでいる。セレンを離してふわっと浮かび上がり、指先を光らせた。上から背表紙を見ていく。しかし、ほどなく降りてきた。 「たいしたものがないな、書庫でないとだめか」 手近の本を引き抜き、ぱらっと見て、セレンの布鞄に押し込んだ。セレンが驚いて腰を引いた。 「このくらいは、読めるようにしてやるからな」 イージェンが言った。そのとき、なにか、危険な感じが身体を走った。廊下側の扉を開け、見渡した。教室は一階広間から吹き抜けとなっている周囲の回廊沿いにある。イージェンが吹き抜け側に行った。下を見ると異様な風景だった。周りと明らかに光の屈折の違う空気の溜りの中に灰色の布を着たものたちがたくさん倒れていた。 「瘴気?」 おそらく魔力のないものには無色透明でまったくわからないだろう。それは瘴気と呼ばれる災厄に似ていた。瘴気よりも濃度が濃いようだった。そしてその倒れたものたちを囲むように何人もの灰色の上下つながっている服を着たものたちが立っていた。しかも口のあたりから管が出ている奇妙な仮面を被っていた。 「…マシンナート…」 イージェンが絶句していると、マシンナートたちが腕に抱えていた鉄の筒を構えた。ダダッというなんともたとえようのない衝撃音とともに鉄の筒の先から火花が散る。灰色の布に焼け焦げた穴が開いていく。呆然となっていた。数秒ののちに、筒からの火花は止み、マシンナートのひとりが手を挙げて指示した。半分残り、半分は整然と広間から出て行く。イージェンは教室に戻り、セレンを抱きかかえた。 「とんでもないことになってるぞ」 セレンには何がなんだか訳が分からないが、とにかくイージェンにしっかりとしがみついた。イージェンがベランダから飛び、王宮の中核に向かっていった。ところどころにかがり火があって、その下には護衛兵がいた。あわただしく行き来するものたちもみな一様に黙って行動している。緊迫した状況だ。二階、三階とベランダに降りて中を見たが、明かりもついていないし、ひとけもなかった。ようやく明かりを見つけて寄っていった。大振りの蘭が咲く中庭に折り、テラスにゆっくりと近づいた。ガラス張りの窓で、身を隠すようにして窓枠からそっとうかがった。さきほどと同じように濃い瘴気が部屋の底に溜っていて、そこに何人かひとが倒れていた。身につけている布は灰色や灰緑の身をすっぽりと包む外套で魔導師と思われた。さきほどと同じようにマシンナートたちが何人か囲んでいて鉄の筒から火花を出したらしく、外套の焼け焦げた穴から余韻の煙が立ち昇っていた。 「あれがアウムズか」 イージェンが口の中でつぶやいた。中からマシンナートのひとりが窓を開けようと近づいてきた。イージェンが後ろのセレンを押しやるようにして後ずさろうとした。押されてセレンが倒れてしまった。木の床にぶつかってガタンと音を立ててしまった。マシンナートが窓に火花をぶつけてきた。逃げようとしたとき、外にもいたマシンナートの鉄の筒から火花がふたりに向かってきた。イージェンは魔力の壁を作り、火花を跳ね返した。火花は鉄の玉となって、木の床に落ちた。部屋の中からも飛び出てきて、次々に火花を放ってくる。魔力の壁はドームに変化してふたりをすっぽりと包んだ。当たった鉄の玉がぱらぱらと落ちていく。部屋の中から出てきたマシンナートのひとりが言った。 「やめろ」 ぴたっと火花がやんだ。イージェンは魔力のドームを残したまま、足元に落ちていた鉄の玉を拾いながら立ち上がった。 「大胆だな、魔導師殺しとは」 イージェンが腕を横に振った。鉄の玉がものすごい勢いで飛んでいって、鉄の筒に当たった。 「ああっ!」 鉄の筒を弾き飛ばした。後ろにも投げつけ、弾き飛ばした。あわてて何人かが地面に落ちた鉄の筒を拾おうとしたが、その手が届く前にふたたび筒を弾き飛ばした。 「頭を打ち抜いてもいいんだぞ」 イージェンが睨みつけると、マシンナートたちが後ろに引き下がった。さきほど命令していたマシンナートが管付の仮面を取った。茶けた髪を肩まで伸ばしている青年だった。 「特級魔導師だな」 その後ろから王族の装束を纏った男がやってきた。やはり管付の仮面を被っていたが、マシンナートの手を借りて取り払い、イージェンを見た。 「そのものはわが国の魔導師ではない」 仮面を取るのを手伝っていたマシンナートが自分の仮面も外して、叫んだ。 「き、きさま、エスヴェルンの王太子の従者ではないかーっ!」 指差した先にはセレンがいた。イージェンが脇に抱えていたセレンを見下ろした。 「マシンナートにも顔見知りがいるとは、ずいぶん顔が広いんだな」 セレンが小さな声で言った。 「殿下が教授と呼んでたヒトです、殿下がプレインを壊したので怒ってました」 イージェンはラウドの顔を知らなかったが、紅《くれない》の王子の異名とともに風貌は聞いていた。そのため、射掛けてきた助っ人が王太子ではないかと思っていた。 「なるほど、王族に取り入って、民への啓蒙をしようというわけか、なかなかなやるな」 王族の男がイージェンを睨み付けた。イージェンが臆することなく睨み返したので、男は憤慨した様子だった。茶けた髪のマシンナートが尋ねた。 「エスヴェルンの魔導師なのか」 「違う、俺は他の大陸から来た。エスヴェルンの魔導師に兄を殺され、仇を取りたいと思っている。この子は人質になるかと思って連れてきた」 なにかが夜空から落ちてきた。 「うわっ!」 教授の足元あたりに落ちた。教授が驚いてのけぞった。ばたばたと翼を羽ばたかせている。鷹だった。王族の側にいた軍服の男が言った。 「遣い魔です、どこかの魔導師からの伝書です」 遣い先を探しているようだった。死んだ魔導師のひとりだろう。魔力のドームを消したイージェンが指笛を吹いた。遣い魔は急に動きを止め、イージェンの腕に飛び乗った。足についている筒から紙を出して開いた。教授がつかつかと寄ってきて、奪い取った。 「よこせ」 しかし、中を見たとたん、紙を振り上げて怒鳴った。 「何も書いてないではないかっ!なにが伝書だ!」 その紙をイージェンが奪い返した。 「これは、魔力で書いてあるんだ。魔力がないと読めない」 そうして、その紙をひらひらとさせて、王族の男のほうを見た。 「どうする?読んでほしいか?」 男がいっそう険しい目でイージェンを見た。側付きの軍人が進言した。 「殿下、読んでもらいましょう」 男が顎で命じた。イージェンが鼻先で笑い、読み始めた。 「カーティア魔導師学院学院長アルテル殿、当国との軍事同盟締結に向け、明日王都に到着の予定です。結納の目録をお持ちしましたので、ご精査下さい。また、ご相談したきことがございます。お時間を下さい。なにとぞ、よろしくお願いいたします。エスヴェルン魔導師学院学院長サリュース拝」 紙は読み終えるとすぐに煙のように消えた。マシンナートたちがぎょっとした。軍人が青くなった。 「殿下、いずれ露見するとしても明日では早すぎます。ルタニア、南方大島の両軍を掌握してからでないと、王都を攻められます」 王族の男が茶けた髪のマシンナートに言った。 「ユワン教授、隣国の学院長、同じく始末できるか」 ユワンが小さくお辞儀した。 「ご安心を。また部屋に仕掛けをして…」 言いかけたとき、イージェンが笑い出した。ユワンが口を閉じた。 「ここの学院長は王族の呼び出しだから油断していたんだろう。隣国の学院長が他国に来たとき、そんな罠にやすやすと掛かると思うか」 憤慨した様子でユワンは王族の男に再度言った。 「ご心配なく、そうたやすくは見破られません」 しかし、軍人がイージェンに尋ねた。 「あなたが当国学院の学院長として隣国学院長をあしらうことはできますか」 ユワンが鼻白んだ。 「わたしたちを信用できないのなら…」 イージェンが遮った。 「信用するとかしないとかの問題じゃない。他国の魔導師を始末するのは危険すぎるし、今はまだ、マシンナートを使ってると知られるとまずいってことだろ」 イージェンが軍人に振った。小さく顎を引いたのを見て、続けた。 「一気におまえたちのテクノロジイを広げようとしても無理だぞ」 マシンナートたちが戸惑った顔を見合わせた。 イージェンは、ユワンをじろじろと見回しながら続けた。 「実を言うと、俺はテクノロジイについて興味がある。いろいろと教えてくれるなら、こちらも協力しよう。おまえたちにとっても啓蒙ができるんだ、悪くはないだろう?」 教授が真っ赤になって歯軋りしたが、ユワンはにこりとした。 「悪くない、いや、いいことだ」 セレンはイージェンにすがりつかなければ立っていられないほど、恐ろしかった。気づいたイージェンがセレンの背中をさすった。
|
|