イリン=エルン王国を滅亡させたウティレ=ユハニ王国派遣軍将軍グリエルは、長くイリン=エルンに虜囚として捕らわれていた、今はなきラスタ・ファ・グルア自治州領主の娘、美しき戦姫《いくさひめ》ティセアを妻とした。 結婚の披露をした祝賀会の翌日から、王都の民たちは、グリエル将軍の美しき夫人の話で盛り上がっていた。昨年輿入れした王妃アリーセが華やかさに欠けていたので、将軍夫人がいずれ宮廷の大公夫人や姫たちのサロンの主役になるのではないかというもっぱらの噂だった。 祝賀会の夜、先に屋敷に帰ってきたティセアは、出かけるまでいた侍女たちがいないことに気が付いた。侍従長が急遽雇っただけなのでと謝った。今後のことを考えて、口の堅いものをそろえるのだろう。 寝室隣の小部屋に湯とたらいが用意されていたので、自分で湯浴みした。ゆっくりと髪をほぐした。どうしてもさきほどのことが思い出されてしまう。肩を掴む大きくて力強い手。 声も少しも変わっていない。 …結局慰み者にされるだけじゃないか。 将軍はリュドヴィク王の気持ちはほんとうだと言っていたが、王妃の非難が面倒だから、こんな回りくどいことをするとしか思えなかった。リュドヴィク王にとっては、王妃に気兼ねなく抱ける女にすぎないのではないか。俺を愛せと言われたが、愛を育む時間などあるのだろうか。ベッドで王の愛撫を受け入れれば、愛していることになるのか。 …おまえはおまえの選んだ生き方をすればいい。おれが妻とした女はもう死んだ。 イージェンは、相変わらず厳しい言い方をする。前は厳しく叱っても、後で堅く抱きしめてくれた。今更抱きしめてほしいと望むのは恥知らずだ。それに大魔導師になったのだから、かつてのようにはいかないだろう。だからもう、この境遇に甘んじるしか…。だが、そう思えば思うほどイージェンへの想いで胸が詰まる。 会わなければよかったのか。でも、無事でいると知ってほっとしてもいる。 寝間着に着替えて居間の寝酒を飲んでいた。しんと静かな屋敷だが、廊下で声がした。将軍が帰宅したのだろう。 ティセアの身体がびくっとした。祝宴の前は好きにすればいいと自棄(やけ)になっていたし、さきほど慰めてくれたときはうれしくて、将軍が望むならと思っていた。だが、やはり拒めるものなら拒みたかった。 それは余計な心配だった。その夜、将軍はティセアの元を訪れなかった。
グリエル将軍は、翌日、キーファ城塞に向かう将官たちを引率して王都を出発することになった。ティセアは美しく装って将軍の馬に同乗して、王都の城門まで見送りにいった。将軍夫妻がどれほど仲がいいかを都の民に見せるためだった。 「何故、夕べ、来なかったんだ」 将軍夫妻を見るために沿道に集まってきた民たちに手を振りながら、ティセアが尋ねた。グリエル将軍がそっけなく言った。 「あなたは、わが王のものだ。お預かりしているにすぎない」 ティセアが顔を逸らして、周囲にいつわりの笑みを振りまいた。 「おお、笑いかけてくださった!」「まあ、大輪の花が開いたよう!」 民たちの間から感嘆の声が上がった。 「陛下はいつ来るんだ」 「今はまだ落ち着かないので、当分は…」 このたびのキーファ城塞での観閲式が終わったら、そのままアサン・グルア州の州都に向かうことになっていた。そこで、従弟のカイルの婿入り先である三の大陸ティケアの北の大国ランスの特使と会うことになっていた。もちろん、カイルの婿入りは、大陸をはさんでの同盟を組む証しである。 ランスは、南の大国セラディムを脅かす国力の強化を望んでおり、そのために強兵をしたいのだ。軍事力にすぐれたウティレ=ユハニから支援や教練を受けるための同盟だった。ウティレ=ユハニとしても大陸対岸の国とは『仲良く』していたほうが都合がよかった。 「結局、私は待つしかない身か…」 将軍がため息をついた。 「イリン=エルンのときとは違う。『訪れ』を楽しみに待っていてほしい」 ティセアは少し下を向いた。城門広場に着き、馬から降りた。 「では、行ってくる」 将軍がティセアに向かって顎を引いた。ティセアが両手を左の腰当たりに置いて、少し腰を捻り、優雅にお辞儀した。 「いってらっしゃいませ、あなた」 再び馬上のヒトとなって、先頭の旗手たちの後から進んでいった。レガトが続き、将官たちも連なって行った。ルキアスがティセアの側にやってきた。後ろに馬車を引いてきていた。 「奥方様、屋敷に戻ります」 城門を出て行く部隊を見送りながら、ティセアがうなずいた。 ルキアスは夕べ屋敷に戻ってくる間もずっとうつむいて黙っていたが、今朝からもかなり沈み込んでいるように見えた。 屋敷に戻ってから、居間で茶を飲もうとルキアスを呼んだ。 「どうした、元気がないな、置いていかれたからか」 ルキアスが首を振った。おずおずとした様子で口を開いた。 「あの…奥方様は…イージェンと知り合いだったんですか」 そういえば、ルキアスは飛び去る魔導師たちに手を振っていた。 「おまえこそ、知り合いだったのか」 ルキアスはうなずき、話し出した。 「俺の故郷の村は、ナルヴィク高地ってところにあって、そこが四年前『災厄』に襲われて…」 ガーランドの学院から魔導師がやってきたが、とても鎮化できないものだと唯一の橋を落として、高地を閉鎖し『災厄』が広がるのを防ごうとした。それも七つの村びとたちも全て閉じ込めてしまおうというものだった。魔導師の中にもそれに反対していたものたちがいて、それがダルウェルとマレラだった。だが、王立軍の出動などもあって、ふたりでは王立軍による橋の破壊を防ぐだけでせいいっぱいだった。そこに、アランドラ老師が弟子を連れてやってきた。その弟子がイージェンだった。 「最初、学院で育ったのではないので、魔導師じゃないから手伝うのはいやだって言ってたんですけど、アランドラさまに叱られて、助けてくれたんです」 自分や妹にとても優しいヒトだったと言うと、ティセアがうなずいた。 「ああ、子どもに優しいやつだった」 『災厄』は鎮化できたが、大勢が王立軍に抵抗して殺されたり、崖から落ちたりして死んだ。元軍人だった自分の父親も王立軍に殺された。アランドラ老師は、力を使い果たして亡くなり、イージェンや助けてくれた魔導師たちは国を出て行くことになったのだ。 イージェンはほかの大陸から来たと言っていた。この大陸に来てからアランドラの弟子になったのか。いずれにしても、学院で育っていないから、魔導師としての決まりにとらわれず、正式ではなかったが、自分を妻としたのだろう。 「アランドラ老師か、イリン=エルンの王宮で会ったな」 仇に身を売ったと皮肉られた。何度か父キリオスが招聘し、夜遅くまで話し込んでいた。父は、アランドラが誇り高く自治を守ろうとしている自分の志を誉めてくれたとうれしそうに話していた。 「すごい魔導師だったけど、まさか大魔導師様になるなんて」 ルキアスは、将軍の離邸でダルウェルに一の大陸に誘われたとき、将軍の元で働きたいと断った。将軍を尊敬していたし、国王も立派な方だと思っていた。国王から姫を守れといわれたとき、てっきり国王の側室になるのかと思っていた。それが急に将軍の奥方になると聞かされて、首をかしげていたが、夕べ屋敷に戻ってきてからレガトに詳しく聞かされた。 「レガトさまは、奥方様のためにこんな形にしたんだって言ってたけど…」 ルキアスももう子どもではない。故郷を出て、二年の間、戦場でいろいろなことを見てきた。悪いやつはいくらでもいたし、自分も仕事とはいえヒトをたくさん殺した。女も知った。でも、世間や王妃の目をごまかすためにほかの男と結婚させて、こっそり通じるなどということは、いくらティセアを守るためだとレガトに言われてもルキアスにとってはふしだらなことに思えた。 もともと決まりやしきたりはきちんと守るように軍人だった父に厳しく育てられていた。国王といっても何をしても許されるはずはないだろう。学院もなんで何も言わないのか。黙って従う将軍にもいらだちを感じていた。 「奥方様はこれでいいんですか…」 ルキアスは言ってしまってから、はっと顔を上げた。 「すいません!俺、またよけいなことを」 いいも悪いもないのだ。捕らわれの身のようなものだ。 「いや、いい」 これでいいのかと疑問に思うルキアスの気持ちのほうがまともなのだ。 「それにしても、おまえとイージェンが顔見知りとは」 ティセアは、グリエル将軍に話したように、イージェンとの縁を話して聞かせた。 「あんなところで再会するとは思いも寄らなくて、しかも大魔導師になっていたなんて」 厳しいところは昔と変わっていないと苦笑した。 「いつも叱られてばかりで、でも、叱った後は優しくて…」 急に堪え切れなくなり手で顔を覆った。 「…姫様…」 ルキアスはティセアが気の毒でたまらなかった。
二日後、リュドヴィク王が観閲式のために王都を出発したと発表された。行幸行列は、道々民たちの歓迎を受けて勇壮に進んでいった。 何事もなく日々が過ぎていく。ティセアは暇を持て余し、書物を読んだり、庭に出たり、時折ルキアスと手合わせをしたりして、過ごしていた。結局イリン=エルンの後宮にいたときと変わらなかった。 昼下がり、侍従長が、侍女たちがなかなか決まらないと申し訳なさそうにしているので、当分将軍も帰らないし、のんびり探せと皮肉で返した。 「ルキアスはどうした」 剣の手合わせを頼むから呼べと言うと、今来客中だがどうしますかと聞き返された。 「来客?」 なんでも友だちとかで、同じ年頃の男だという。 「そうか」 菓子でも出してやったのかと聞くと出していないというので、茶を入れてもっていってやることにした。どんな客なのか興味もあった。 茶棚から茶葉を選んで丁寧に入れた。イージェンと過ごしたときに教えてもらった入れ方だ。イリン=エルンの後宮にいたときもサロンの夫人たちに評判がよく、入れ方の指導を頼まれたほどだった。焼き菓子を皿に入れてルキアスの部屋の扉を叩いた。 「はい?」 ルキアスの戸惑った声がして扉が開いた。 「…おくがたさま…?」 ルキアスが驚いて二、三歩下がった。 「友だちが来てるそうだな、菓子でもと思って」 そんなもったいないと手を振るルキアスにいいからと笑ってテーブルに運んでいった。四角いテーブルの向こうにルキアスと同じ年頃の少年が座っていた。
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