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作品名:異能の素子 作者:本間 範子

第208回   イージェンと潮風の港街《アッパティーム》(下)(2)
 女が振り返った。
「酒もらってくる」
 ぐらっと足元を危うくして扉にぶつかり、腰砕けになって座り込んだ。腕を掴んで立たせ、ベッドに引っ張っていった。
「俺がもらってくるから横になってろ」
 女が驚いて眼を見張った。レヴァードは見つめられて腰が浮くような気がした。
 あわてて部屋を出た。
…きれいだ、あの女。
 どんどん身体が熱くなっていく。ぐっと押さえて、玄関のところまでもどった。もうすっかり暗くなっていて、誰もいなかった。どこかに『チュウボウ』みたいなところがあるのではと探し回った。
「なんだ、あんた」
 後ろから声を掛けられて、振り返った。知らない女だが、水がほしいのだと言うと、首を捻りながらどこかから杯と水差しを乗せた盆を持って来た。礼を言い、受け取って、二階に上がっていった。部屋に戻ると、女がぐったりとしていた。
「もらってきたぞ」
 杯に水を入れて差し出した。女が起き上がった。
「ああ、ありがと」
 手が震えてうまくもてないようだった。ベッドに腰掛け、手を添えて口元に持っていってやった。一口こくっと飲んだ。
「酒じゃないじゃないか…」
 レヴァードが首を振った。
「もう飲まないほうがいい」
 ぶるぶる震えながらレヴァードの上着を握った。
「飲みたいんだ…飲ませて…」
「水を飲むといい」
 杯を口に近づけようとしたがぼたぼたと涙を流しているのに気づいて手を止めた。
「苦しいんだろうけど、水で我慢しろ」
 女が頭を振った。レヴァードが水を口に含んだ。杯を盆の上に置き、女の顔を手のひらで囲んで、上を向かせ、唇を重ねた。わずかな隙間から水を注ぎ込んだ。
「…!」
 女が離れようとしたが、レヴァードがぎゅっと抱きしめた。注ぎ込めなかった水が溢れて顎から垂れた。ごくっと喉が鳴ったので、唇を離したレヴァードが杯にもう一度水を注いだ。
「もう一杯飲んで」
 女が戸惑った顔を伏せて、また頭を振った。だが、女の手はレヴァードの上着を掴んだままだった。もう一度水を口に含み、口移した。今度は拒まず、なされるがままにしていた。
「どうだ、少しは落ち着いたか?」
 女はレヴァードに背中をさすられて心地よさそうにしていた。
「そうされてると落ち着く感じがするよ」
「そうか、じゃあ、しててやる」
 レヴァードが背中をさすってやった。酒臭かったが、かすかに女の匂いがしてきて、身体を抑えきれなくなりそうだった。
「なあ、よけいなことかもしれないが、身体を壊すような飲み方だったら、酒はやめたほうがいい」
 女が大きくため息をついた。
「酒でも飲まないとつらいんだよ、聞こえるだろ、あれ」
 隣の音や声がかすかに聞こえてくる。
「年取って客が付かなくなった娼婦がみんな辿る道さ、若い頃は客と寝るのがつらいこともあったけど、干されるとなるとね…」
 逆に欲しくなるんだよとつぶやいた。レヴァードが背中をさすりながら、顔を近づけた。
「難しいな、おまえたちの習慣は…」
 女が顔を上げてじっとレヴァードを見つめた。女の眼は、濃い緑の瞳だった。もう我慢しきれなくなって、レヴァードが、頬や鼻の頭、瞼の上をついばむように口付けた。
「こんなにきれいじゃないか、なんで干されるんだ?」
 女がぶるっと震えた。それは酒が切れたための震えとは、『違う』震えだった。女がうれしそうな笑みを浮かべた。
「ヘンなヒトだよ、ほんとに」
 そう言いながら、両腕でレヴァードの首を囲んだ。
「ああ、俺はヘンなヒトらしい」
レヴァードが逸る気持ちを抑え、やさしく髪を撫でながらゆっくりと女の身体を押し倒した。

 宿にもどったアダンガルたちは、部屋で少し飲み足すことにした。男連中の部屋にはベッドが二つしかなかったが、テーブルをどかしてもらい雑魚寝するからと敷物を借りた。その上に長靴を脱いで上がり、くつろいだ。エアリアは隣の部屋に向かった。
 壁が薄いので、あちこちで賑やかに盛り上がっているらしい声が聞こえた。
「連絡船が入港したようだな」
 アダンガルがさきほどエアリアが渡した紙を見ていた。
「物価が上ってるな、この国はセラディムより低かったはずだが」
 独り言のようにつぶやいた。
「二の大陸より低いですけどね」
 ヴァシルが二の大陸の小麦の標準価格と金の大陸間兌換率を言った。
「やはりヴラド・ヴ・ラシスの影響の強い大陸は高いな」
「ええ、一の大陸で金を買い、二の大陸で売るのが一番得になります」
 ところが、一の大陸で金を大量に買い込むことはできない。執務官の厳しい管理下におかれているからだ。通貨(流通貨幣)としての金貨は純金でないので、溶かすにしても手間などがあり、逆に損になってしまう。通貨の単位は同じだが、物価は大陸によってかなり違うのだ。
「現状大陸間での取引はほとんどないから、あまり問題でないが、その兌換率をヴラド・ヴ・ラシスが査定していることが愉快ではないな」
 ヴァンがさっきより強い酒を飲み始めてすぐに眠くなったようで、とろんとした眼でリィイヴの肩をつついた。
「おまえ、わかるか、金がどうのって」
 リィイヴがなんとなくといったが、マシンナートには市場経済が皆無といってもいいので、経済分野の研究は計画経済以外ほとんどされていない。そのため知識はあまりなかった。セラディムでラウド王太子と話しながら国勢調査書に目を通して以来興味を持って書物を読んだりしているので、少し見当がつくくらいだった。
「あまり飲んでないな」
 ヴァンがリィイヴの飲みっぷりがよくないのに気づいた。リィイヴがうなずいた。さきほどエアリアに皮肉を言われたので控えているのだ。
 アダンガルが酒瓶を一本と杯をふたつ盆に乗せて、リィイヴに差し出した。
「エアリアと飲むといい」
 リィイヴが戸惑った顔を伏せて首を振った。
「エアリアは飲まないですよ」
「すすめてみもしないで決め付けてはいけない」
 アダンガルが盆を押し出した。
「気持ちがすれ違ったままでいいのか」
 かなり声高でもめていたし、イージェンやアダンガルには筒抜けだろう。
「別にぼくたちは…」
 ヴァンがもう酔いごこちでうとうとしていた。ヴァシルが横にしてやっていた。
「日が経てば経つほどぎくしゃくしていくだけだぞ」
 リィイヴもそう思ってはいた。決心して、アダンガルにお辞儀し盆を持って立ち上がった。
 扉を出て行くリィイヴを見送っていたヴァシルがため息をついた。
「いいのですか、魔導師なのに」
 学院から放逐されたダルウェルたちはそういう流れになったのもしかたないかと思うのだが、エアリアはラウドとも関係していたし、リィイヴともそういうことになりそうで、ふしだらに思うのだ。その上、自分を早くカーティアに帰そうとしているので、よけい不愉快になっていた。
「生真面目だな、ヴァシルは」
 アダンガルが苦笑した。ヴァシルが少し顔を赤くした。
「ふつうだと思いますけど」
 魔導師としてはこれがふつうなのだ。
「そうだな、セラディムの学院も表向きはみんな生真面目だ」
 裏ではどうだかという含みだと感じとって、よけいに顔が赤くなった。
「少し飲みすぎました」
 解毒しようとしたが、もう少し酔っていようかとやめた。
「ただいま」
 アートランが窓から入ってきた。
「相変わらずだな、きちんと表から入れ」
 アダンガルが呆れてたしなめた。アートランが、半分残っている瓶を掴んでがばっと飲んだ。
「なんだ、ヴァン、もう寝てるのか」
 ちらっと隣の部屋との境の壁を見た。
「『耳』を澄まさないように」
 アダンガルがちょんとアートランの頭を突付いた。アートランが口を尖らせた。
「わかってるよ」
 敷物の上に寝そべって、木の実を摘んだ。
「連絡船で、カーティアの旧王派の大公の息子ってのが逃げてきたぜ」
 対岸の州総督だったらしい。
「受け入れるのか、イェンダルクは」
 アートランが探ったところによれば、公式な亡命ではないらしい。とるものもとりあえず入国したのだろう。
「調べて学院に報告します」
 ヴァシルが水を飲んでしゃっきりとした。
「俺がある程度調べたから、報告書書くよ、おまえは『こっそり』が苦手だろ」
 ヴァシルがばつの悪そうな顔をした。
「たまたまこの時季だったから連絡船で逃げてこられたというところだな」
 アダンガルも少し酔ったと横になった。
「俺が起きてるから、寝ていいぜ」
 アートランが木の実を殻のままガリガリ食べた。アダンガルが任せると言って眼を閉じた。ヴァシルにも寝ていいと言ったが、首を振った。
「何かあるといけないし」
 じゃあ好きにしなよと、自分の持って来た袋から水晶の原石を出して何かはじめた。
 ヴァシルは『耳』を澄まさなくても聞こえてきた隣の物音に目を険しくした。

 エアリアのいる部屋の前で扉を叩こうとして、一瞬戸惑ったが、思い切った。叩いてから少しして扉が開いた。エアリアが顔を出した。
「なにか」
 盆を少し持ち上げて見せた。
「ちょっとでいいから、飲まない?」
 エアリアが眼を伏せてうなずいた。てっきり断ると思ったので、意外だった。
…やっぱり決め付けちゃいけないんだな。
 中に入り、テーブルの上に置いて座った。エアリアも向かい側に座り、リィイヴが杯に酒を注いだ。ふたりで同時に取り、口を付けた。エアリアがぐいっと飲み干した。そんな飲み方しているのを見たことがなかったので、リィイヴは驚いて見つめてしまった。
「リィイヴさん…」
 エアリアが杯をテーブルに置いた。リィイヴが注ぎながら何と尋ねた。
「夕べのことで怒ってるんですか」
 リィイヴは返事をせずに自分の杯を飲み干した。すねていたこと、わかったのだ。少しは気が済んだ。
 リィイヴが急に立ち上がって出ていった。何かを持って戻ってきた。
「借りてきたよ」
 ラ・クィス・ランジだった。長逗留の客のために、宿屋にはたいてい何組か用意されているものだった。待合に置いてあったのを覚えていたのだ。
「勝負しよう」


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