二の大陸キロン=グンドの二大大国イリン=エルンとウティレ=ユハニの戦争は、数日間という短い期間でウティレ=ユハニの圧倒的勝利で終わった。 イリン=エルンは大陸の地図から消えた。ウティレ=ユハニは、交易の盛んな港と豊かな漁場を擁した大陸の東海岸から極北の海に面した一帯、肥沃な西の州を手中にし、金鉱銀鉱も支配下に納め、軍事力、経済力ともに強大になっていった。 旧イリン=エルン王都は、ウティレ=ユハニのアサン・グルア州の州都となった。駐留していた宣撫部隊の部隊長カイルは、ウティレ=ユハニ王の従弟で、今年二十八の有能な執務官だった。カイルは、近々、海峡を挟んだ三の大陸ティケアの北の大国ランス国王のひとり姫トリテアの婿になることが決まっていた。 カイルは、ウティレ=ユハニ王の信頼も厚く、将来は内務大臣になるのではないかと噂されていたが、他国の王室の入り婿になるということについては、かなり不可解なこととされた。一説では、メッセル公の一派を取り込むために外に出されるのではないかと言われた。メッセル公は、国王の叔父で、もうひとりの従弟ガニィイルを国王側近に推している。カイルの母であるウティレ=ユハニ王の叔母の嫁ぎ先は大公家ではなかった。そのため、カイルには後ろ盾がなかった。 メッセル公はカイルがいなくなった後の宣撫部隊の指揮をガニィイルに任せてもらえるものと思っていた。 だが、国王は、宣撫部隊には、ハバーンルーク国境守備隊隊長ウォレビィを就任させた。戦争好きのウォレビィは懸命に辞退したが、王命に逆らうかと言われてしぶしぶ就任した。 空席となったハバーンルーク国境守備隊隊長にはウォレビィの副官が就任した。国王はキーファ城塞に向かい、グリエル将軍とともに戦勝を祝し観閲式を行うことになった。キーファ城塞付近には行幸行列を見ようとする民びとたちが集まってきていた。
ハバーンルークは、二の大陸キロン=グンドの西側に広がる中堅の王国だった。ほとんど産業もなく、貧しいため、民がウティレ=ユハニとの国境を流れるリタース河を渡って、流れていってしまうことがあり、その流浪民をウティレ=ユハニ側が追い返していた。 リタース河の上流には、険しい山脈があり、その山奥に、七年前ウティレ=ユハニに滅ぼされた自治州アルギージの残党が住み着き、匪賊となって、ウティレ=ユハニの村や街を脅かしていた。その残党の首領であるダリアトは、ヴラド・ヴ・ラシスの会頭アギス・ラドスからハバーンルークに移した本拠に招待された。 「五大陸の全商人を束ねるアギス・ラドス会頭殿にお招きいただけるとは、光栄ですな」 ダリアトは、胸まで垂らした顎鬚をしごきながらテーブルの向かい側に座っているアギス・ラドスに世辞を言った。 ダリアトは四十代半ばくらいで、どうやら病があるらしく、あまり顔色が良くなかった。アギス・ラドスは六十すぎているが、研ぎ澄まされた刃のような鋭い目つきで体格もよかった。ほとんどの民が五十前後で亡くなるので長生きの方だ。 「わがヴラド・ヴ・ラシスは、アルギージの無念を晴らすために、全面的に協力しよう」 アギス・ラドスは、脇にある箱をにらみつけ、従者に顎をしゃくって、蓋を開けさせた。 何が入っているのかと席を立ったダリアトが覗き込んで、ひっと悲鳴を飲み込んで、震えた。 「こ、これは…」 アギス・ラドスが椅子から立ち上がり、蓋をバンッと閉めた。 「あの若造、これ見よがしにこんなものを俺に送りつけてきた。ディ・ネルデールの金鉱もラスタ・ファ・グルアの銀鉱も手にして、鼻息を荒くして」 蓋を拳でガンッと叩いた。 「いい気になっているのも今のうちだ。叩き潰して、われわれをないがしろにしたことを後悔させてやる」 運び出せと命じた。何人かで箱を運び出していると、入れ替わるようにして、ひとりの男が入ってきた。気づいたアギス・ラドスが目元を緩めて肩を抱いた。 「ようやく来たか、待っていたぞ」 男がフンと横を向いた。 「そう嫌がるな」 アギス・ラドスがダリアトに紹介した。 「息子のジェトゥだ」 ダリアトが胸に手を当ててお辞儀し、ふっと気が付いたように頭を上げた。 「ジェトゥ?…まさか…」 アギス・ラドスはおかしそうに笑って、手を叩き、酒や料理を運ばせた。 「ほんとうにあの…」 酒を注がれた杯を持ちながら、ダリアトが戸惑った。ダリアトは、今でこそ匪賊の首領だったが、かつては自治州領主の側近だった。各国学院の学院長の名前くらいは知っている。ジェトゥという名はあまりない名前だ。アギス・ラドスが、ジェトゥに杯を渡した。 「俺の元に戻って来るのに、三十八年もかかったが、ほんとうにうれしいぞ」 ジェトゥが杯を受け取った。 「わたしは別にうれしくもなんともないですよ」 アギス・ラドスがくくっと笑い、杯をかち合わせた。 「そういうところがいい、俺の息子らしくてな」 アギス・ラドスがぐいっと杯を開けた。ジェトゥは少し口に含んだ。 従者がアギス・ラドスの耳元で何か伝えた。 「ここに」 短く命じてから、ダリアトと眼を合わせてうなずいた。 ダリアトがちらっとジェトゥを見ているのに気づいたアギス・ラドスが鋭い目を向けた。ダリアトがびくっとしたが、おそるおそる尋ねた。 「魔導師が実の親のところに戻ってくるなどありえないのでは…」 ジェトゥが黙ってすっと杯を開けた。 「ありえない…か、たしかにな、だが、俺は魔導師も学院も恐れはしないし、こいつもこうして学院を捨ててきた」 アギス・ラドスが眼を細めてジェトゥを見た。 アギス・ラドスは妻と一時期、イリン=エルンの港街に住んでいた。妻はそこで身籠り、息子を産んだ。そして、その子どもがひとつになったとき、学院の教導師たちがやってきて、息子を連れ去った。妻はひとり息子を奪われ、気の病にかかり、三年後に亡くなった。 ヴラド・ヴ・ラシス《商人組合》の本拠幹部の家柄だったアギス・ラドスは、有能な指導者として組合の中で頭角を現し、会頭にまで上り詰めた。息子を奪い、妻を病にしてしまった魔導師学院への恨みもあって、それまで以上に組合を強固にして、さまざまな手を使って、王国や学院を脅かそうとしてきた。 子どもが魔導師であるために学院に連れ去られても、ほとんどの親は連れ戻そうとは考えない。魔導師は、『野』で育てられるものとは思われていないほど触れ難い恐ろしい存在でもあるのだ。だが、アギス・ラドスは、ジェトゥが十八になったとき、自ら会いに行った。ジェトゥは冷たい眼で父と名乗るアギス・ラドスを見て、魔導師には親も子もないと突き帰した。だが、数年後、ジェトゥはアギス・ラドスを訪ねて来た。 相変わらず冷たい眼だったが、アギス・ラドスを父と呼び、母の墓を見舞った。その後、ときどき訪ねてくるようになり、長逗留は無理だったが、親子として過ごすようになった。逗留中夜伽をさせていた側女に子どもを産ませて、アギス・ラドスに孫を与えてやった。 学院長になってからも学院とヴラド・ヴ・ラシスを行き来し、互いの利益になるよう、如才なく振舞っていた。そして。 「八年前にラスタ・ファ・グルアを落とすのに手を貸してほしいと言ってきてな、それはもう一も二もなく引き受けた」 それは、ラスタ・ファ・グルア自治州に圧力を掛け、軍備 食料などの流れの経路を断って州軍を弱体化させてほしいというものだった。その一方で、武器や消耗品を優先的に回してもらうことだった。イリン=エルンの王太后がどうしてもラスタ・ファ・グルアを潰したいとジェトゥに命じたのだ。占領した後、ガーランドの学院長の挿げ替えにも協力を求めてきたことにも承知した。 「今回はどうしたことか、助けてやるというのに、しなくていいというから」 ジェトゥが杯の縁を指でなぞった。 「王太后様が亡くなったので、もうどうでもよくなったのです」 アギス・ラドスが不可解そうに顎をこすった。 「あの女狐にそこまでの忠誠を誓う魅力があったとは思えないがな」 ジェトゥが酒を水に変えて飲み干した。 「王太后様には恩がありましたから」 ジェトゥは王太后の乳を飲んで育った。王族の子どもはしきたりによって乳母の乳で育つ。ジェトゥと同じ年に生まれた、後の国王ジルクム王子もまた、乳母の乳で育った。だが、王太后の乳が張って裂けそうになるので、当時の学院長がまだ乳離れしていなかったジェトゥに王太后の乳を吸わせた。 王太后はそののち身籠り、結局、死産だったが、ひどく乳が張り痛がるので、もうみっつになっていたジェトゥに吸わせた。ジェトゥは、みっつのときにはすでに魔力の発現があり、ものごころがついていた。それもはっきりとした記憶として残っている。王太后の乳を吸ったことで母への恋しさが沸いてきて、本当の母から切り離されたことをひどく恨んだ。魔力がなければよかったのにと魔導師である自分を憎んだ。 ヴラド・ヴ・ラシスの会頭が父と名乗って会いに来たとき、表面上は冷たくしたが、内心ではうれしかった。母はすでに死んだと聞かされて、落胆したが、父に学院を離れてヴラド・ヴ・ラシスに来いと誘われて、いつかはそうしようと思っていた。そののち学院長に就任したが、その気持ちは変わらなかった。 それでも、王太后がいる間は、離れられなかった。母のように思えて慕わしかったのだ。 王太后が亡くなったのちは、もうイリン=エルンも学院も捨てるつもりだった。国王が気落ちして病に伏し、国が乱れても混乱を収める気はなかった。 「まあいい、おかげでこうして俺の元に戻ってきたんだからな」 アギス・ラドスは上機嫌だった。ダリアトは、ヴラド・ヴ・ラシスの協力を得られ、報復が叶うと喜ぶ一方で、不安だった。これから来る客人のことをジェトゥが知ったらどうなるのだろう。逆に客人のほうもジェトゥが会頭の息子であるとはいえ、魔導師がいることを知ったら、手を貸してくれるだろうか。 奥の扉がバンッと乱暴に開いた。
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