二の大陸キロン=グンドを離れてより翌々日の夜明け前、『空の船』《バトゥウシエル》は、一の大陸セクル=テュルフのカーティア王国王宮の東側を囲むようにある半月形の湖に静かに着水した。 舳先に立っていたイージェンが何かを思うようにゆっくりと甲板を一周していた。夜明けとともに岸辺にヒト影がちらついてきた。そちらのほうから誰かが飛んできた。 ラウドはじめ、マレラ以外はリィイヴも床上げして、甲板に出てきた。飛んできたのは、カーティア学院長代理をさせているクリンスだった。遣い魔で到着のことを知らせていたので、出迎えにきたのだ。 「イージェン様、おかえりなさい」 深く頭を下げて、岸辺を示した。 「イージェン様のお帰りをお伝えしたところ、ぜひ出迎えたいと、国王陛下はじめみなさま、お待ちになっています」 後ろで聞いていたダルウェルがここの国王は大魔導師への敬意を逸してはいないのだと知り、ほっとした。 「行くか」 アヴィオス、リィイヴ、ヴァンには船で待つように言い、ラウドとイリィ・レンのふたりを連れて、岸辺に向かった。 岸辺には、ジェデル王、セネタ公をはじめ、国王側近フィーリ、侍従医ユデットたちが待っていた。 静かに降り立った仮面に、ジェデル王が近寄った。しばし見つめたのち、片膝を折って、胸に手を当て、頭を下げた。 「大魔導師イージェン殿、カーティア王国国王ジェデルです。わが国にかけていただいた恩義の数々に報いるよう、国土と民のために命を捧げます。どうか、愚かなわたしを許してください」 異端に心を動かされて愚かなことをした。イージェンが、その窮地から助けてくれたのだ。そのまま両膝を折り、額を地に付けようとした。イージェンがその腕を掴んで、立たせた。 「俺と陛下の間で、そこまで必要ない」 ジェデルが目の縁を赤くして仮面を見た。戴冠式の後に顔を見たきりだった。そのときのイージェンの顔が重なった。ジェデルがイージェンの手をぎゅっと握った。イージェンが握り返してから、後ろを振り返った。 「仮面を継がなかったら、ここの学院長をやらせてもらおうと思ったんだが、大魔導師ってのは、けっこう忙しくてな、やってる暇がない、それで」 ダルウェルたちを手招いた。 「二の大陸の魔導師たちを連れてきた。ガーランドでも学院長をやっていたダルウェル、学院長に就任させる。イリン=エルンの魔導師ヴァシルとキュテリア、ダルウェルを手伝わせることにした」 ジェデルがダルウェルたちの前に向かった。 「遠路ご苦労だった。わが国のために力を尽くしてくれ。宮廷と学院が力を合わせ、国を支えていこう」 ダルウェルの手を握った。ダルウェルがもう一方の手を添え、そのまま両膝を付いてジェデルを見上げた。手から国王の誠実な気持ちが伝わってきた。 「陛下、過分なお言葉、ありがとうございます!われら、カーティアを生まれた国と思い、骨身を惜しまず勤めます!」 目に涙を溜め、ジェデルの手を握り締めた。ヴァシルとキュテリアも両膝を付いて頭を下げた。ジェデルが立つよう三人の肩に順繰りに手を置いて、笑ってうなずいた。 イージェンがラウドを紹介した。 「エスヴェルンのラウド王太子殿下、ぜひ紹介したいと連れてきた」 ラウドが片膝を付き、胸に手を当て、お辞儀した。 「陛下、エスヴェルン王太子ラウドです」 ジェデルが立たせて、肩を囲んだ。 「ラウド殿、縁がなかったが、ほんとうなら、義弟となるはずだった。気楽にしてくれ」 涼やかな眼の少年だ。少し幼い感じだが、自分の邪な欲望がなければ、妹ネフィアと似合いだったと今さらながらに心が痛んだ。 ラウドが恐縮しながらジェデルを見上げた。美丈夫という話だったが、たしかに大柄で美しく、気高い様子だった。 「イージェン様」 フィーリたちも寄ってきた。フィーリとユデットがきょろきょろと見回しているのに気づいた。 「セレンは、別の魔導師に預けてきた」 ふたりともがっかりしたようだった。 フィーリが朝餉を用意してあるのでと王宮に来て欲しいと言い、セネタ公もイージェンと話がしたいとうながした。 馬が何頭か用意されていて、イージェンとラウド、イリィが乗り、ゆっくりと歩を進めながら王宮に向かった。クリンスたち他の魔導師たちは先に王宮のほうに飛んでいった。 イージェンがかつてこの周囲にいた流浪の民たちがいないことに気づき、セネタ公に尋ねた。 「王都の東側に救済地区を作りました。炊き出しをし、仕事に就けるよう、世話をしています」 いいことだとイージェンが喜んだ。 執務宮の国王執務室の奥にある居間に食事が用意されていた。セネタ公息女で王宮侍女長のイリーニアが待っていた。 「イージェン様、おかえりなさいませ」 丁寧にお辞儀した。ジェデル王の左横に座ったイージェンが肩で息をした。 「ここはいいな、ほっとする」 なにもバカ丁寧に扱えとは思っていないし、表面だけの礼儀など受けたくもない。だが、わかるのだ、ヒトの心の向いている方向が。 学院に寄って来たダルウェルたち魔導師も到着した。全員が着席した。 「俺は残念ながら食べられないが、食事しながら話そう」 フィーリが南方大島への特使が戻ってこないことを話した。 「追ってもうひとり派遣したのですが、それも『なしのつぶて』で」 南方大島には学院がない。何世代も前に三の大陸ティケアから移った反乱軍たちの子孫が住んでいる。統治者は統治総帥と呼ばれていた。 「学院がないと連絡も取りにくいし不便だな」 イージェンが行儀よく食事しているヴァシルに命じた。 「謝罪文書をもって南方大島に行け。ただし、様子がおかしいようだったら、総帥に会わなくていいから、無理せずに帰ってこい」 ヴァシルが了解した。特使として訪問しているのなら、たとえ謝罪を受け入れなかったとしても、返事を持たせるために返すはず。それすらもしないというのはおかしかった。 「いずれにしても、俺たちもエスヴェルンに戻ってから、また南方海岸に向かう予定があるから」 ヴァシルの報告によっては、イージェンが様子を見に行くことにした。ジェデル以下みなありがたく頭を下げた。 「ほんとうにイージェンには世話をかけてばかりで、申し訳ない」 ジェデル王が杯の水を飲んでから首を折った。 「いや、俺はフィーリが苦労しているのが気の毒で、なんとかしてやりたかったんだ」 いいやつだからなというと、フィーリがぐすぐすと鼻をすすった。 「おまえはすぐ泣くが、あいつもすぐに感激して泣くぞ」 ラウドの横にいるイリィを指差して笑った。 「イ、 イージェン様、すぐにからかう!」 イリィが真っ赤になって下を向いた。なごやかな笑いが広がった。 「世話をかけついでといってはなんですが」 セネタ公がイージェンにお願いしたいことがあるとあらまった。 「陛下とわが娘イリーニアの婚礼式を挙げていただきたいのです」 あの黄金雨が降った荘厳な戴冠式が忘れられない、婚礼の儀式もすばらしいものにしてくださるに違いないと頼み込んだ。 「ぜひお願いします!」 フィーリも立ち上がって頭を下げた。 「陛下もついに観念したか、イリーニア姫とならお似合いだ。セネタ公に早く孫の顔を見せてやるんだな」 イージェンの冗談に、ジェデル王とイリーニアが恥ずかしそうに顔を伏せた。 「ほんとうはダルウェルの初仕事にしたいが」 イージェンがダルウェルに振ると、ダルウェルが手を振った。 「いや、ここは大魔導師様にしていただきたい。わたしもぜひ黄金雨が降るという儀式、見てみたい」 ダルウェルは戴冠式や婚礼式などの大きな儀式はしたことがない。長く学院長をやっていたアランドラが行った儀式でも黄金雨が降ったりはしなかった。 「では、やってやるか、俺のやる儀式の見物料は高いぞ」 威張りくさった言い方でみなを笑わせた。 いつも急なことになるがと婚礼式を明日執り行うことになった。儀式殿に呼ぶものたちはほぼ決まっているので、すぐに連絡することになった。 「ラウド殿に出席いただければこれ以上のことはない、ぜひ」 ジェデル王が頼むとラウドが快く引き受けた。周辺諸国には、即位や国王の婚礼の通知はするが、他国から王女が輿入れするとき以外に公使や王族などが儀式に参列することはほとんどない。 儀礼書のしきたりを確認しようと学院に戻ることにした。イリーニアがエアリアに声をかけた。 「エアリア殿にお願いがあります」 王妃の介添え役を頼みたいと言うのだ。本来なら国王の姉妹や従姉妹がするのだが、なにしろひとりもいない。 「困ります、わたしは魔導師ですし」 エアリアが断っているとイージェンが口を挟んだ。 「いいじゃないか、やってやれ。イリーニア姫と後宮に行って仕度をしろ」 しきたりの書面をすぐに寄越すのでと、ダルウェルたちと行ってしまった。しかたなくイリーニアについていった。 後宮の衣裳部屋で、介添え役の王女の衣装を出して、エアリアに着せた。少し大きめだったが、すぐにお針子たちが寄って来て、エアリアの身体に合わせ始めた。 「お肌が白くてきれいなので、とてもよく映えますね」 お針子頭が白地に銀糸の刺繍で縁取られたドレスの腰の余り部分を詰めながら誉めそやした。 「おぐしも美しくて、結い甲斐がありますわ」 髪結い女もやってきて、エアリアの髪を梳きながら喜んだ。エアリアがずっと不機嫌な顔で下を向いているのを見て、イリーニアがあやまった。 「許してくださいね、他に頼めるものがいなかったので」 エアリアは、首を振ったが、こんな格好はしたくないとすねていた。 軽く紅を引いて、髪の仮結いをした。たくさんある髪飾りの中からいくつか挿して、飾り合わせをした。 「侍女長様、これがよいのでは」 髪結い女がイリーニアに声を掛けた。靴を選んでいたイリーニアが寄ってきた。とてもステキと、お針子たちや侍女たちもはしゃいだ。 「お立ちになって、姿見でご覧ください」 エアリアがしぶしぶと立ち上がった。侍女が大きな姿見を持ってきた。銀色の結い髪に真珠の髪飾りを挿して、薄紅の唇が輝いていた。 「とてもよくお似合いですよ、明日はとても楽しみですね」 イリーニアがエアリアの肩を抱いてふたりで姿見に映った。 「こんな…私…」 初めてこれほどに装った姿が、恥ずかしくてたまらない。でも、ほんの少し、ラウドに見てもらいたいかもと思った。
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