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作品名:異能の素子 作者:本間 範子

第145回   イージェンと戦乱の大陸《キロン=グンド》(3)
 イリン=エルンの王都や王宮は、すでにディ・ネルデールとの国境を破られたという報せで錯乱状態に近かった。
国王は一時の危篤状態から脱していたが、余命いくばくもなく、また、敗戦も時間の問題だった。王妃とその父大公の一家はすでに王宮を出ていた。国王を見捨て、国外を出て、海路で対岸の三の大陸へ逃亡しようとしていた。
 後宮の国王居室の寝室にイリン=エルン王は横たわっていた。先ほどまで側についていたものたちも今はどこかにいってしまい、ただひとり、年頃は七つか八つの少年が見ていた。
「父上」
 イヴァノン王太子は、もうろうとしている父王に呼びかけた。父王は、ほとんど上がらない手を差し出した。
「…ははうえ…」
 イヴァノンがその手を握った。
「おばあさまは…もう…」
 王太后は昨年春先に亡くなった。それから父王はずっと具合が悪かった。握っていた手の力が抜けた。
「父上」
 いつのまにか側に立っていたジェトゥが国王の手を胸の上で組み合わせた。
「ジェトゥ、帰っていたの」
 イヴァノンが見上げた。ジェトゥがひざまずいた。
「ただいまより、殿下がイリン=エルンの国王陛下です」
 目を赤くしたイヴァノンがベッドの上の亡骸を見つめた。
「玉座の間へ行きましょう」
 ジェトゥがイヴァノンの手を握った。後ろを振り返りながら、イヴァノンがジェトゥに連れて行かれた。
「戦争は終わったの?」
 執務宮に着いて、玉座の間へ向かう廊下で、イヴァノンが尋ねた。
「はい、イリン=エルンが負けました。陛下、お教えしたとおりにしてください」
「うん」
 イヴァノンが素直に答えた。不気味なほどに静まり返った廊下を進みながら、イヴァノンが手を引くジェトゥを見上げた。
「ジェトゥ、あなたが教えてくれた理《ことわり》の勉強、好きだったよ。ぼく、魔導師になりたかったな」
 ジェトゥが前を見たまま、手を硬く握った。
「そうですか。私はなりたくなかったですよ」
突き放すような言い方に、イヴァノンが悲しそうな顔をした。
玉座の間には誰もいなかった。石の壇上に黄金の椅子が据えてある。ジェトゥがその椅子にイヴァノンを座らせて、出て行き、少ししてから戻ってきた。手にしたものを椅子の横にある小卓の上に乗せた。
「陛下の頭は小さいので、戴くことができません。こちらに置いておきます」
 王冠を置き、蝋印の指輪を握らせ、杖を渡した。イヴァノンが指輪と杖を受け取り、立ち上がった。胸に手を当ててお辞儀して壇上から降りていくジェトゥに、呼びかけた。
「ジェトゥ、元気で」
 ジェトゥが少し振り返って、壇上を見上げた。
「ありがとうございます、陛下」
 広間の扉を出て、いずこかに去って行った。
 国境を破ったウティレ=ユハニ王立軍将軍グリエルは、周辺の村々や州都には目もくれず、幹道をひた走って、王都に達した。イリン=エルン軍は国境から別の幹道を通って、王都に戻り、迎え撃ったが、王都守備軍が率いる将軍が逃げ出し、崩壊していて支援もなく、敗れ去った。グリエルは王都到着後、即時宣撫部隊を配置し、イリン=エルンの戦敗とウティレ=ユハニ王臨御を報じた。
グリエル将軍は、王宮を占拠し、王宮の侍女、従者、残っている軍人、学院の魔導師たちを全員執務宮の儀式殿に集めさせた。大陸脱出を計ろうとした王妃の一族を捕らえたという報告も入った。
 ウティレ=ユハニ王は、開戦直後国境付近までやってきていて、終戦の報を聞いて、学院長に命じてイリン=エルンの王宮まで運ばせた。儀式殿の正面扉が大きく開かれた。
「ウティレ=ユハニ王国国王陛下、ご臨御!」
 ウティレ=ユハニ王が、黒の兜を被り黒い外套をなびかせ、大股で儀式殿に入ってきた。控えていた軍人たちが一斉に片膝付いて出迎えた。
「ごきげんよう、国王陛下」
 号令を取るものもいないのに、一糸乱れず国王賛嘆を唱和した。奥まで歩み寄り、腰辺りまで高さのある儀式殿の壇上に軽々と飛び上がった。壇上にはグリエル将軍以下、将官たちがひざまずいていた。
 グリエル将軍が立ち上がり、胸に手を当ててお辞儀した。
「国王陛下、わざわざのお運び、恐縮です」
 ウティレ=ユハニ王が正面を向き、檀下のものたちを見回した。
「立て」
 ひざまずいていたものたちが御礼を言いつつ立ち上がった。
「ありがとうございます、国王陛下」
 グリエル将軍が扉近くにいたものに合図を送った。
グリエル将軍の副官レガトが、七つくらいの少年を連れて入ってきた。少年は手に王冠と杖を持っていた。壇の近くまでやってきて、壇上のウティレ=ユハニ王を見上げた。
「イヴァノン王太子か」
 ウティレ=ユハニ王が尋ねると、薄茶の髪と青い瞳の美しい少年が首を振った。
「さきほど父王が亡くなったので、ぼくが王位を継ぎ、イリン=エルンの国王になりました」
 グリエル将軍が壇上を降り、イヴァノンから王冠などを取ろうとした。イヴァノンがまた首を振り、王冠と蝋印の指輪、杖を持って、壇のすぐ前まで進んだ。自分の肩ほどの壇の上に、王冠と指輪と杖を置いた。二、三歩退いて、頭を下げた。
「イリン=エルンの王冠と蝋印の指輪と王の杖です。戦敗の証として、渡します。受け取ってください」
 それは、敗戦を認め、国土を明け渡すので、むやみな殺戮や国土を焦土と化すような破壊を行なわないでくれということだった。しばらく見下ろしていたウティレ=ユハニ王が険しく目を細めた。
「俺がこれを受け取ったら、おまえはどうしなければならないか、わかっているのか」
 イヴァノンが顔を上げた。唇が少し震えていたが、ぐっと噛み締めた。
「はい、学院長から教わりました」


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