「いっぱしになったもんだな、ルキアス」 肩越しに振り返って、驚いた。 「ダルウェルさま!?」 腕を外して向き合うと、ルキアスが子どもに帰ったようにうれしそうにダルウェルに抱きついた。 「ダルウェルさまだ!」 ダルウェルとあまり変わらないくらい大きくなっていた。しっかりと抱きしめた。ルキアスが首をかしげた。 「どうしてここに?」 まずは茶でも入れてくれと椅子に座った。ルキアスがざばざばとおおざっぱに茶を注いで差し出した。関門の街で見かけて、後を追って来たと話した。 「新しい大魔導師様のご指示で、一の大陸セクル=テュルフのカーティアという国の学院長になることになった。それで、おまえもその国に連れて行って働いてもらおうと思ったんだ」 雇われ兵でこき使われるよりはずっとよいだろうと誘った。ルキアスは考え込んでいたが、顔を上げた。 「ありがたい話なんだけど、俺、グリエル将軍閣下の下で働きたいんだ」 なにか縁があったのかと尋ねた。 「リタースって河、ハバーンルークとの国境なんだけど、すごく川幅が広くて、深くて、匪賊が河を行き来してて」 匪賊は軍のように組織された盗賊の一団を指している。このところ、自治州の統合がされているので、負けた州軍兵や傭兵くずれが集まって暴れまわることが多くなっているのだ。ルキアスは、おととしから叔父の紹介で、下っ端兵として働きはじめていた。配属された部隊の部隊長がなかなか面倒見のよい男で、兵士長に命じてまだよたよたのルキアスに馬術や剣術を仕込んでくれたのだ。その配属部隊が、リタースの国境守備隊となって、ハバーンルークからの流浪民の流入を防いだり、河を行き来する匪賊と戦ったりしていた。昨年、グリエル将軍が国境視察に訪れたとき、案内する部隊長についていった。河を下ってくる匪賊とでくわし、襲撃された。そのとき、匪賊が鉱山用の発破を使い、その爆発から将軍をかばったのだ。 「これ、そんときの傷で」 頬の傷を指し、上着をめくって腹を見せた。胸や腹にたくさん傷があった。 「それで、傷が治ってから、今の部隊に配属になったんです」 傷は痕になっていた。 「そうか」 そのような事情なら、今後手柄を立てれば、かなり出世できるだろう。それはそれでルキアスの選んだ道だ。無理に来いとはいえない。 「おふくろさんと妹を悲しませないようにな」 ルキアスがうなずき、尋ねた。 「イージェンはどうしてますか?」 ちらっとティセアのいる部屋の扉のほうを見てから、声を少し落とした。 「新しい大魔導師様っていうのが、イージェンのことだ」 ルキアスが目を丸くした。このことは誰にも内緒だと言い含めて、席を立った。 ダルウェルは見送りにというルキアスを留めて、窓から外に出た。隣の窓の中をうかがうと、夜着に着替えたティセアがうなだれて椅子に腰掛けていた。マレラ一筋のダルウェルですらも身震いするほどに美しい。この先、死を選ぶのか、それとも。 いずれにしても、幸せにはなれないさだめの女なのだろう。 星の降る夜空を東目指して飛び去った。
翌日、ティセアは、侍従長が用意したドレスを着て、少しだけ食事を取った。 「それはティフェン様の亡き母君のお召し物です。ほかにもございますので、お好きなものをどうぞ」 ティフェンとはグリエル将軍の名だろう。ティセアは首を振った。着る物などどうでもよかった。侍従長がここには侍女がいないので、不便だろうが、少しの間我慢してほしいと行って、下がっていった。 一日中窓際の椅子に座って窓の外を眺めていた。 …あの子の即位だけを楽しみに生き恥を晒して生きてきたのに… ただ死ぬためだけに産まれてきた我が子のことを思うと、つらくてたまらない。母と名乗れなくても、ラスタ・ファ・グルアの名を消されても、王太子の成長と即位を心の支えに屈辱に耐えてきた。それなのに、こんなことになるとは。 こんなことになるなら、いっそあの時に逃げていればよかったのだろうか。親子三人で、別の生き方をして。あのとき助けてくれた男は今どこで何をしているのだろうか。きっと、自分を恨んでいるだろう。急に会いたくてたまらなくなった。抱きしめられたくてしかたなくなった。 いつのまにか夕闇が迫ってきていた。王都からの護衛兵たちはまだ着いていないようだった。夕飯を置いていく侍従長に尋ねた。 「ここは王都からどれくらい離れているんだ?」 侍従長が尋ねた意図を測りかねて戸惑っていたが、軽く頭を下げた。 「五十カーセルほどです」 近いといえば近い距離だが、山間なので、実際にはもう少し遠い感覚だろう。 「わたしは逃げないから、あの兵士を行かせてやれ」 手柄を立てたいだろう。勝ち戦(いくさ)に参加できないのは気の毒だ。侍従長は返事をせずに出て行ったが、外でルキアスが断っている声が聞こえた。 屋敷全体、調度品なども簡素だが上質なものだった。寝心地がいいはずのベッドに横になったが、なかなか寝付けなかった。 もう開戦したのだろうか。出てくるとき、国王は危篤状態からは脱して、意識を取り戻していたようだが、会ってこなかった。王太后に嫌われていたこともあって、子どもを取り上げられてから、ほとんどほおっておかれていた。妃にするとか、ラスタ・ファ・グルアの名を残すとか、全てうそだった。いまさら、会いたくもなかった。 王太子の様子は、時々学院長のジェトゥが教えてくれていた。学問だけでなく剣術や馬術もその年頃としては秀でている、容貌も亡き父によく似ていると聞かされて、どれほどにうれしかったか。ジェトゥは、別の大陸で開かれる学院長の会議にどうしても出かけなければならないと行ったきりだった。特使として伝書を持たしたのは、王妃の父親をはじめとする宮廷の大臣たちだ。『藁にも縋りたい』のだろう。 それにしてもグリエル将軍は、自分をどうするつもりなのだろう。 枕元に誰かが摘んできてくれたよい香りの花が飾られていた。その香りを吸い、ようやくうとうととしてきた。 窓から差し込んでいた銀の月の光を遮る大きな影を感じた。大きな手が頬に触れた。 …イ…ジェ…ン? 自分と子どもを助けてくれた魔導師のような、指先だけでもわかる力強さ。抱いてほしい。あの大きな身体を重ねてほしい。 ゆっくり目を開けた。 思わず身体を起こした。ベッドの縁に腰掛けていたのは、見知らぬ男だった。黒い髪に鋭い顔つき、そしてなにより、刃物のような黒い瞳。どこから入ってきたのか、あの兵士はどうしたのか。 「ルキアス!?」 扉のほうに向かおうとした腕を掴まれた。 「あの護衛兵なら、少し寝てもらっている」 男が静かな声で言った。身体を振って、その腕を振り払い、睨みつけた。 「出て行け」 刃物もないが、噛み付くくらいはできる。どうせ力付くでこられたらどうすることもできないのだが。男は無遠慮にじろじろと見回していたが、急に目を細めた。 「九年前は輝く日の光の美しさだったが、今は夜の月の光の美しさだな」 見るからに荒々しい武人の口から出たとも思えない文句だ。 九年前…まだ父も生きていて、ラスタ・ファ・グルアも攻められていない頃だ。 「わたしを知っているのか」 男がうなずいた。 「ラスタ・ファ・グルアの戦姫(いくさひめ)の噂を聞いて、こっそり見に行った。たしかに噂どおり美しかったが、それだけではなかった」 男がすっとティセアの手を握った。思わず引っ込めたが、男は離さなかった。 「この手で罪人の首を刎(は)ねていた」 当時、いくつもの村々を荒らしまわり、金品を奪っただけでなく、女子どもまで殺した盗賊を捕まえ、処刑したのだ。 「あの処刑を見ていたのか」 男はもう一方の手も握った。振りほどこうと引っ張ったがびくともしない。 「美しいだけの女ならいくらでもいる。だが、罪人といえどもヒトの首を刎ねる冷酷さを兼ね備えているものはそうそうはいない」 ぐいぐいとひっぱりながら怒鳴った。 「冷酷だと!あのものたちは生きていてはならない存在だった、処刑されて当然だったんだ!」 「冷酷さは王たるものには必要なものだ、おまえは俺と同じものを持っている、だから、俺の妃はおまえしかいないと思った。父君には許してもらえなかったがな」 ティセアが抵抗するのを止めて、男を見つめた。 「まさか、ウティレ=ユハニ王…?」 もし、この男に身を投げ出せば、王太子は助かるだろうか。グリエル将軍は、そんなことをしても矛先を鈍らせることはないと言ったが、わざわざ自分に会いに来た。九年前、そして今。 「陛下…」 ベッドを降りようとした。国王は、その身体をベッドに押し戻した。 「伝書は中を見ずに焼いた、俺はいかなる取引もしない」 無駄だ。わかっていたことだ。 「イリン=エルンの王太子は、イリン=エルンの王族として敗戦の責任をとって死ぬ」 ティセアが泣き崩れた。 「わたしはただ、王太子殿下のためだけに生きてきたのに…」 きっと目を吊り上げて国王に詰め寄った。 「もう生きる意味もない、殺せ!」 国王の大きな両手がティセアの細い首をとらえ、ベッドに押し倒した。ぐっと力が入る。息が出来なくなる。 「うっ…くうぅっ」 死を覚悟してもなお、苦しさにもがいた。手が緩んで、ふっと息を吹き返した。大きく胸を膨らまし、息を吸い込んだ。国王が顔を近づけてきた。 「生きる意味を失ったのなら、俺が新しい生きる意味を与えてやる」 涙でかすむ目を見開いた。闇の色の瞳が真正面から見つめていた。 「俺を愛し、俺に愛されるために生きるという意味を」 『あの男』のような熱く重い身体が重なってきて、ティセアの拒む力を失わせていった。 (「イージェンと黒狼王《リュドヴィク・ウティレ=ユハニ》」(完))
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