アルディ・ル・クァは、三の大陸ティケア西海岸の国ランスの第二王都だった。ランスの王族は、冬はこの第二王都で暮らし、夏はもっと北にある第一王都で過ごす。今の時期は第一王都に移っているはずだった。そのため、アルディ・ル・クァは、今は王都としてではなく、国最大の商業港としてにぎわっていた。 『空の船』から飛んできたエアリアとリィイヴは、港から少し外れた海岸に降りた。エアリアは、指笛で呼んだ鷹に書簡を括りつけ、頭を撫でて飛ばした。セラディム学院長アリュカへの伝書だ。その後、防風林らしい海岸線の林の中を歩いていた。 エアリアの足の速さにリィイヴが途中で音を上げた。 「エアリア…そんなに速く歩けないよ…」 ほとんど走っているような速さだ。しかも四半時休みなし。よく追いついていた。エアリアが足を止めて振り返った。 「あなたの足に合わせていたら日が暮れます」 さすがにリィイヴも腹が立った。 「だったら、ひとりで行けば。ここで待ってるから、船には連れて帰ってよ」 エアリアがバツが悪そうな顔を逸らした。 「そういうわけには行きません、師匠があなたにも見に行けと…」 リィイヴはふたりで来させたイージェンがうらめしかった。きっとこんなことになっているとは思っていないだろう。 「エアリア、なんで急に…その、そんなに冷たくなったの。ぼくが何か君を怒らすようなことをした?」 エアリアは背を向けたまま何も言わなかった。 「それとも、殿下にぼくと話してはだめだって言われたの?」 エアリアが少し歩調を緩めて歩き出した。 「行きましょう」 なぜ答えてくれないのか。理由が分かれば、態度もはっきりさせられるのに。 そこからほどなく歩くと、港への幹道らしい大きな道に出た。馬車や馬が行き来している。途中、側を通り過ぎようとした荷馬車がふたりに気づいて声を掛けた。 「あんたら、港に行くのかい?」 御者は恰幅のよい中年の男で、声を掛けたのはそのおかみらしい女だった。 「ええ、そうですけど…」 乗っていくといいと言われ、エアリアは断ろうとしたが、疲れているリィイヴを見て、ありがたくと後ろの荷台に乗せてもらった。 「助かりました」 リィイヴが後ろから声を掛けるとおかみが明るく笑った。 「いいんだよ、たいしたことじゃないし」 エアリアとリィイヴが離れて座った。エアリアは黙ったままずっと海の方を見ている。おかみがエアリアに何か差し出した。 「旦那と食べな」 エアリアが首を振った。赤い果物のようだった。 「夫じゃありません」 怒ったような口調におかみが目を丸くした。 「これは失礼したね…まあ、いいから食べな」 リオネーという赤い果物は皮を剥くといくつかの小袋に分かれていて、少しすっぱいが甘さもあってよく果汁にされるものだ。エアリアが全部リィイヴに寄越した。 「どうぞ、わたしはいりません」 リィイヴが受け取り、爪を立てて皮を剥いた。エアリアがふっと北の空を見た。つられてリィイヴも目をやった。 「どうしたの?」 エアリアが目を凝らしていた。 「なんでもありません、気のせいのようです」 後ろからたくさんのひずめの音がした。 「どけっ!どけっ!」 怒鳴り声がきこえてくる。リィイヴが振り向くと、馬が数頭走ってきた。 「どけったって!」 御者の農夫があわてて馬を脇に寄せようとしたが、そんなに素早く動けるわけもない。おたおたしている間に後ろが追いついてしまい、荷台の脇すれすれに五、六頭の馬が駈足で走り抜けていった。馬上には軍人が乗っていた。 「まったく、荒っぽいったらないんだから!」 おかみが軍馬の背中に向かって怒鳴った。亭主がたしなめた。 「おい!聞こえたらどうするんだ、あれはトリテア姫様の兵だぞ」 エアリアが走り去る軍馬を睨んでいた。 港に着き、荷馬車を降りた。 「ありがとうございます」 リィイヴがお辞儀して礼を言うと、ふたりが顔を赤くした。 「や、やだねぇ、そんな、頭なんか下げないでおくれよ」 おかみが、すぐ裏手の飯屋だから、よかったら、寄ってくれと言った。 あらかじめ市場のことなどを聞いておいたので、織物などの店はすぐに分かった。中に入り、使い回せる色味の絹糸を何色か選んだ。 「絹針も…」 店の者が黒い布を引いた盆を出してきた。細く美しい針が並んでいる。十本ばかり求めた。 「貨幣の価値がわからないんだけど、説明してもらえる?」 支払っているエアリアにリィイヴが尋ねた。 「のちほど」 イージェンに言われたように道具屋をのぞいた。構えの立派な道具屋で、なかなか精巧に作られた遠眼鏡や時計がある。しかし動かないもののようだ。エアリアもしげしげと見ていた。 「動くものはないんですか?」 リィイヴが店の者に聞いた。店の者が戸惑っている。エアリアがリィイヴの袖を引っ張って店の外に出た。 「あれは魔導師が精錬した道具です。動くものを売るのは禁じられています。動かなくなったから売りに出されているんです」 「じゃあ、ただの飾り?」 エアリアがうなずいた。 ヒトの行き来が多くなってきた。別の店や露天の品物を見て回ったが、不審なものはなかった。 ダルウェルに頼まれた薬草と穀物、地酒、残りの金で、干し果物や氷砂糖も買った。 「ダルウェルさん、酒好きだからなぁ」 ヴァンにも買ってやりたかった。しかし、今のエアリアには頼みづらい。二の大陸に行ったら、イリィに話して買ってもらおう。 買物をした荷物をまとめて、リィイヴが背負子で背負った。まだ市場の中のうちは、エアリアが軽々と持ち上げて歩くわけにも行かないので、リィイヴが背負ったのだが、いくらもいかないうちに足が止まった。 …ヴァンを連れてくればよかった… 肩が痛くて気持ち悪くなってきた。急に荷物が軽く感じられた。 「あなたは歩くだけでいいですから」 後ろからエアリアの声がした。荷物を持ち上げているようだった。荷物は軽くなったが、気持ち悪さが治らなかった。 市場から離れようしたとき、リィイヴが足を止めた。 「さっきのヒトたちのお店でなにか食べない?」 土地のものを食べてみたかった。エアリアがしばらく黙っていた。 「そうですね、少し喉も渇いたでしょう」 私は平気ですがと素っ気無く言った。 あの夫婦の店はかなり崩れた感じの店だった。中に入ると店を開けたばかりのようで、二、三人の男たちが座って酒を飲んでいた。おかみがふたりを見て駆け寄った。 「おや、きてくれたんだね、うれしいよ」 さあさと奥のよい席に座らせた。荷物を置き、椅子に腰掛けた。亭主が水を持って来た。 「なにか、こちらの土地の料理とかありますか」 リィイヴが尋ねると、亭主がいくつか見繕うからと言って引っ込んだ。水を飲むとやっと落ち着いた。 どやどやと何人かが入ってきた。港で働いているような感じで、日焼けしていて身体の大きな男たちだった。場違いなリィイヴとエアリアを無遠慮にじろじろと見た。そのうち、エアリアを舐るように見始めた。 「おい…」 仲間同士でひそひそと話して笑っている。そのうちのふたりがやってきて、エアリアをはさむように立った。 「こんな場末の店でこんなにきれいな『お嬢さま』に会えるとは、今日はついてるな、『お付き』の小僧なんかほっといて、あっちでおれたちの酌でもしてくれよ」 エアリアは毅然として無視している。ひとりが髪に触れようとした。リィイヴが立ち上がった。 「やめてください、このヒトは、あなたたちの酌なんかしません、これから食事するんです、あっちに行ってください」 いつのまにか後ろに別の男が立っていた。リィイヴを羽交い絞めにした。 「なにするんだ!」 リィイヴが身体を振ったが、無駄だった。自分よりはるかに大きくがっちりとした男でびくともしなかった。 「ちょいと、このヒトたちはうちの客なんだよ!乱暴はよしとくれ!」 店のおかみが威勢よく怒鳴った。男のひとりがエアリアの髪に触れた。 「ちょっと酌をしてもらおうと思っただけだ。なあ、いいだろう」 エアリアがすっと立ち上がった。 「いいですよ」 リィイヴが驚いてすたすたと男たちの席に向かうエアリアを見送った。 「エアリア…」 羽交い絞めしていた男も席に戻った。おかみから酒瓶を受け取り、男たちの杯に注いでいく。男たちはにやにやと薄笑いを浮かべながら、その様子を見ていた。 …エアリア… きっと魔力を使えば、相手にならないのだろうけど、騒ぎを起こしたくないのだろう。 せっかく土地の料理らしい皿がいくつか出されたが、味を楽しむどころではない。男たちをじっと見ていた。男たちはスキあらばエアリアの身体に触れようとしていたが、エアリアはするりと抜けてかわしていた。 ついにひとりが席を立って、後ろから抱きしめようとした。だが、エアリアはそれすらもかわしていつの間にか反対側に姿を現していた。 「ふ、ふざけやがって…」 もうひとり椅子を蹴り倒してふたりで同時に挟み込もうとした。すっと消えた。 「ぐぁっ!」 ふたりは頭をぶつけ合ってよろけた。 「酌はしましたよ、もういいでしょう」 後ろから冷たい目で見ていたエアリアが酒瓶をテーブルに置いてリィイヴのところに戻ってきた。 「出ましょう」 リィイヴがうなずいて荷物を背負った。エアリアが銅貨を何枚か置いて荷物の後ろを持った。 「こっちから出な」 亭主が奥から手招きした。店の出入り口は男たちが塞いでいたのだ。エアリアが後ろからぐいっと荷物を押した。リィイヴの身体がほとんど浮き、裏口を駆け抜けた。 「すまなかったねっ!」 おかみの詫びる声に男たちが追いかけてくる声が重なった。 「くそっ、逃すなっ!」 日が落ちかけていた。灯りが家から漏れ始めていた。 「エアリア!」 リィイヴの足はほとんど地に付いていない。速度が上がっていく。 …これはモゥビィル並みの速度?! そのうち、ぶわっと身体と荷物が浮き上がった。 「わぁっ!」
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