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作品名:異能の素子 作者:本間 範子

第116回   セレンと極南列島《クァ・ル・ジシス》(2)
 サリュースは帰り支度があると執務宮の宿舎に戻ってしまった。様子がおかしいことに気づいたイージェンが尋ねた。
「どうした、殿下」
 ラウドが首を振り、アダンガルの腕を引っ張って、イージェンから離れた。声を潜めて相談した。
「さきほどヨン・ヴィセン殿がくれるといった土産、もしかしたら…その…」
 自分に杯を渡した女ではないか。
「…あの下種(げす)ならしかねないな…」
 ラウドが困り切り、子どもの顔に戻った。
「もしそうなら、どうしたらいいのか…」
 一度受け取ってしまったものを返すのは失礼だが、女なら受け取るわけにはいかない。アダンガルがすがりつかんばかりのラウドの両肩を抱いた。
「わかった、俺がなんとかするので、ラウド殿は気にせず、早く出発してくれ」
 ラウドがうれしそうに頭を下げた。
「ありがとうございます」
ラウドが『弟』だったなら…どんなにいいか。
今夜はあの下種の足を舐めるくらいしないとならないかもしれない。でもラウドの役に立てればいいと覚悟した。
学院に戻ってみると、ダルウェルがすでに荷物を積んだ馬車を先発させていた。リィイヴとヴァンも一緒に向かっていた。エアリアが待っていて、連れ戻すのに失敗したと報告した。
「セレンとクァ・ル・ジシスに行くと、師匠に伝えるようにと」
 イージェンがエアリアの頬を叩いた。
「あっ!」
 エアリアが震えて頬を押さえた。
「連れ戻すのに失敗したからじゃないぞ、なぜ勝手に動く!」
 もう一発叩こうとした。ラウドがその腕に飛びついた。
「俺が悪いんだ、俺が行かせたから!」
 ラウドを振り払い、エアリアを叩いた。地面に倒れるほど強かった。伏せているエアリアの襟首を掴んで吊り上げた。
「次にこんな始末になったら顔の形が変わるのを覚悟しておけと言ったよな!」
 今度は拳を振り上げた。ラウドが眼を見張って怒鳴った。
「イージェン、ひどすぎるぞ!」
 仮面がくるっとラウドに向けられた。
「俺がいつも殿下の側にいられるわけじゃない。そのときはエアリアが殿下を守らなければならない、そのエアリアが判断を誤まってたらどうする!殿下も周りのものも、そして国すらも危うくするんだぞ!」
 イージェンがエアリアを地面に叩きつけた。エアリアが抱き起こそうとしたラウドの手を押しのけ、立ち上がった。
「師匠、覚悟はできています」
「もういい!」
 イージェンがシュッと姿を消した。黒い点が湖に向かっていた。
「エアリア、俺のせいで…」
 ラウドも外に出て始めて知った悪意に辛かった。エアリアも叩かれた痛み以上に辛いだろう。手を差し伸べるラウドから顔を逸らして、飛び上がった。
取り残されたラウドを心配そうに見ていたイリィが馬を引いてきて、頭を下げた。ラウドが馬上に上がり、イリィが続いた。
「お気をつけて」
 アリュカが見送った。

 『空の船』を停泊させた湖のほとりでは、ダルウェルたちが馬車から荷物を降ろしていた。キロン=グンドの学院長ふたりも待っていた。イージェンが空から降りてきて、学院長ふたりに荷物を運ぶよう、押し付けた。
「運ぶのを手伝え」
 ふたりが嫌そうな顔で野菜籠を抱えて飛んでいった。ほどなくやってきたエアリアにリィイヴとヴァンを連れて行くようにと言った。
 うなずいてエアリアがリィイヴとヴァンの腰に手を回そうとした。年若い女に抱えられるということに、ふたりは戸惑ったが、しかたなく従った。
「しっかりしがみついてください」
 エアリアは身体が小さいので腕がふたりの腰を回りきらないのだ。落ちるのも困るので言われた通りにした。エアリアが柔らかく浮き上がり、船に向かって飛んだ。
「セレンはどうしたの?」
 気になっていたリィイヴが尋ねた。エアリアが暗い顔を伏せた。
「連れ戻しに行ったんですけど、だめでした。アートランが南の島に連れて行ってしまいました」
 ヴァンの腕にかかえられていたリュールがキュウンと悲しそうに鳴いた。船に着き、ヴァンとリィイヴは甲板に置かれた野菜籠を持って、中に入っていった。エアリアは学院長たちを船長室に案内して、待つよう告げた。
 ダルウェルがラウドとイリィを連れてきた。三人で何度か往復して荷物を積み終えた。
 リィイヴがお湯を沸かして茶を入れ、船室のラウドや船長室の学院長たちに出した。
船長室にダルウェルが入って声を掛けた。
「出発だそうだ」
ダルウェルが出て行くとすぐに、一瞬ふわっと浮くような感覚が来た。
 リィイヴが熱い湯の入ったやかんを持ってラウドの部屋の扉を叩いた。熱い茶を入れて、ラウドとイリィに出した。押し黙ったままのふたりにリィイヴが頭を下げて出て行こうとした時、イージェンが入ってきた。
「すぐに二の大陸に向かう予定だったが、その前にクァ・ル・ジシスに寄る」
 リィイヴの目が空に向けられた。
「極南列島…セレン、クァ・ル・ジシスに連れて行かれたの?」
 先ほどエアリアが南の島に連れて行かれたと言っていた。
「状況からして無理やり連れて行ったようにも思うが…」
 イージェンが言葉を濁した。
 ラウドが無言のまま了解した。ドゥオールの水門を見るどころではなくなってしまった。
イージェンが出て行くのを追うようにしてリィイヴが出てきた。
「セレンを取り戻せるの?」
 尋ねたが、イージェンは何も言わずに船長室のほうに降りていった。厨房に戻ってみると、エアリアが夕飯の支度をしていた。
「手伝うよ」
 エアリアが悲しそうな顔でうなずいた。さきほども気になっていたが頬が赤かった。
「どうしたの、その…赤くなってるよ」
 そっと指先で頬に触れた。エアリアは顔を逸らした。
「なんでもありません」
 リィイヴがエアリアの肩を掴んで振り向かせた。
「なんでもないはずないだろ?魔導師さんは傷とかすぐに治るんじゃないの…」
 エアリアは首を振った。
「師匠に叩かれました…自分以上の魔力だから…そんなにすぐには…」
 唇が震えている。
「もう…見捨てられます…わたし…」
 リィイヴが人差し指をそっと唇の前に触れる寸前まで近づけた。
「大丈夫、そんなことないから」
 エアリアが涙目を見張った。リィイヴはすっと離れ、木桶に水を汲んで、雑巾を入れた。
「食堂のテーブル拭くから夕飯の仕度しよう?」
 そっと袖口で眼を押さえてエアリアが仕度を始めた。

 イージェンが船長室に入っていくと、二人が立ち上がって頭を下げた。船長席に座り、二人にも腰掛けるようにと椅子を示した。追ってダルウェルも入ってきた。
「ジェトゥ、アルバロ、ゾルヴァーに議事録修正を提議させる代わりに何をやってやるんだ」
 いきなり聞かれて、ふたりが眼を泳がせた。イージェンが持って来た議事録を机の上に置いた。ジェトゥが観念したように吐息をついた。
「何をというほどでも…イージェン様を五の大陸だけにはいかせないように総会をかく乱してほしいと言われただけですよ」
 ヴィルヴァへの恨みか。
「それで学院の権威が保たれれば、ゾルヴァー殿にとっても都合のいいようになるからだろう」
 ダルウェルが自分で入れた茶をぐいっと飲み干した。イージェンが議事録をパラパラとめくった。
「そんなところか。いいか、ふたりとも。ヴラド・ヴ・ラシスは、王族や宮廷の執務官たちのようにおまえたちが操れるような生やさしい連中じゃない。すべてを金勘定で割り切り、損得のみで動く。学院よりもずっと冷酷な連中だ」
 人買いを手伝っているときに何度か会ったことがあった。気分の悪くなるような連中ばかりだった。
「だが、急に態度を変えるな。連中がおまえたちに何をさせようとしているのか、よく見極めるんだ。それが国と民を苦しめないものならいいが、そうでないときはうまくかわすようにしろ」
 こう言っても言うとおりにはしないだろう。今はただ、マシンナートへの警戒をさせるためには譲らなければならない。
「この船は極南列島に寄ってから、キロン=グンドに向かう。先に帰っていろ」
 ジェトゥとアルバロが立ち上がり、お辞儀して出て行った。ダルウェルが附記を手にとって眺めた。
「アルバロはなんとかおまえの言うことを聞くようになるだろうが、ジェトゥのほうがやっかいだな」
 イージェンも同じ意見だった。ダルウェルが眼を上げた。
「ジェトゥとウティレ=ユハニの学院長も以前はつるんでたようだったが、イリン=エルンが、ラスタ・ファ・グルアを侵略し、ティセア姫を奪ってからうまくいかなくなったようだ。しかもおととし代替わりした」
 ウティレ=ユハニ王は、ラスタ・ファ・グルア自治州の領主キリオスの娘姫ティセアを手に入れたかったが、跡継ぎでもあり、キリオスからも断られていたので、潔く身を引いていたのだ。それをイリン=エルン王が銀鉱山ごと奪ったので、面白かろうはずはなかった。
 イージェンが国外退去を命じられたとき、ダルウェル、マレラとともにしばらくの間各国に移り住んで、互いを相手に修練し合っていた。そのため、二の大陸各国の事情には詳しかった。
イージェンが窓の外をちらっと見た。ふたつの影が飛び去っていく。


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